この記事では戦国時代の名将「今川義元」、「武田信玄」、「北条氏康」が、「いったいどういう関係だったのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「義元・信玄・氏康の関係」を、カンタンに理解できます。
三人は、「今川義元」を通じて、「義兄弟の関係」だったのです。
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この記事を短く言うと
二人は「義兄弟」。「今川義元」の妻が「武田信玄の姉」
2,「今川義元」と「北条氏康」は、どういう関係?
二人も「義兄弟」。「北条氏康」の妻が「今川義元の妹」
3,「甲相駿三国同盟」で、三者の子供はどうなったの?
義元の娘が「信玄の息子・義信」に嫁ぎ
信玄の娘が「氏康の息子・氏政」に嫁ぎ
氏康の娘が「義元の息子・氏真」に嫁いだ
「今川義元」と「武田信玄」の関係
「今川義元」と「武田信玄」は、義兄弟の関係にあります。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」
義元の妻「定恵院」は、武田信玄の姉なのです。
つまり「今川義元」は、「武田信玄」の義理の兄に当たるということです。
「甲駿同盟(こうすんどうめい)」
【1537年】、今川義元と「武田信玄の姉」が結婚し、今川家と武田家が「甲駿同盟」を締結するまで、両家は犬猿の仲でした。
しかし、「甲駿同盟」を締結してから両家は協力して、共通の敵である相模国の「北条家」と戦うようになったのです。
余談ですが、武田信玄の姉「定恵院」が嫁ぐにあたり、「定恵院」の父「武田信虎」は、「天下取りの達」と呼ばれた名刀「宗三左文字(義元左文字)」を、今川義元に贈っています。
「宗三左文字」は、のちに「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」へと引き継がれ、代々「徳川将軍家」に伝えられていきます。
「今川義元」の愛刀「義元左文字」について、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
「今川義元」と「北条氏康」の関係
「今川義元」と「北条氏康」も、実は義兄弟なのです。
「北条氏康」の妻「瑞渓院」が、「今川義元の妹」にあたります。
今川家と北条家は、この「瑞渓院」という女性がつないだ、同盟関係にあったのです。
元々「北条家」は「武田家」ととても仲が悪く、「今川家」とは仲の良い親戚関係にありました。
しかし「今川義元」が【1537年】に、「北条家」の宿敵である「武田家」と「甲駿同盟」を締結。
これにより、同盟関係にあった「今川家」と「北条家」の関係が一気に悪化してしまうのです。
武田信玄は、この「今川家」と「北条家」の関係を修復するため、【1544年】に、「北条家」とも同盟を締結します。(甲相同盟)
この後、「今川家(駿河国)」・「武田家(甲斐国)」・「北条家(相模国)」の三カ国は、「今川義元」の軍師「太原雪斎」の外交によって関係を修復。
【1554年】、「甲相駿三国同盟」を締結することとなるのです。
「甲相駿三国同盟」の締結で、3名の子供が、それぞれ結婚した
【1554年】の「甲相駿三国同盟」によって、「今川義元」「武田信玄」「北条氏康」は、軍事同盟を締結。
それぞれの娘を他家へと嫁がせて、婚姻関係を締結し、「三国同盟」をより強固なものとしています。
- 「今川義元」の娘「嶺松院」は、「武田信玄」の息子「武田義信」と結婚。
- 「武田信玄」の娘「黄梅院」は、「北条氏康」の息子「北条氏政」と結婚。
- 「北条氏康」の娘「早川殿」は、「今川義元」の息子「今川氏真」と結婚。
三国は協力して、北の「上杉謙信」や「織田信長」などと戦うわけですが、「2つの悲劇」が起こります。
「桶狭間の戦い」と「義信事件」
この「甲相駿三国同盟」は、「桶狭間の戦い」と「義信事件」という二つの大事件によって、崩壊していくのです。
【1560年】、三国同盟の一角である「今川義元」が「桶狭間の戦い」で「織田信長」に討ち取られます。
このあとも、しばらく「三国同盟」は続くのですが、さらなる悲劇が起こります。
【1565年】、「義信事件」が勃発。
「武田信玄」の息子で、今川義元の娘婿でもあった「武田義信」が、父「信玄」によって、死に追いやられたのです。
これにより、「武田義信」の妻「嶺松院」は、今川家へとかえされ、「三国同盟」は崩壊。
戦国大名「今川家」は、【1569年】、「武田信玄」の攻撃を受けて、滅亡へと追いやられるのです。
「義元」・「氏康」・「信玄」の最期
「今川義元」、「北条氏康」、「武田信玄」の最期を、簡単に解説いたします。
- 【1560年】、「今川義元」は、「桶狭間の戦い」で「織田信長」に討ち取られて亡くなります。享年42歳。
- 【1571年】、「北条氏康」は、「三国同盟」が崩壊してから、関係が悪化していた「武田信玄」との同盟を復活させるように、と遺言を残して病死。享年57歳。
- 【1573年】、「武田信玄」は、「西上作戦」とよばれる「織田信長」との決戦直前に危篤におちいり、信濃国・駒場で病死。享年53歳。
- 今川家は、【1569年】に「武田信玄」に攻められ、事実上の滅亡。
- 北条家は、【1590年】に「豊臣秀吉」に攻められ、事実上の滅亡。
- 武田家は、【1582年】に「織田信長」に攻められ、滅亡。
三家は「戦国大名」としては滅亡したものの、それぞれに子孫を現代に伝えています。
「今川義元」と「武田信玄」、そして「北条氏康」の関係を、以下のリンク記事で、くわしい家系図にまとめました。
また、以下の記事では「今川義元の先祖と子孫」についても「家系図」で解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「今川義元」と「武田信玄」は、「義兄弟」。「今川義元」の妻が「武田信玄の姉」
2,「今川義元」と「北条氏康」も「義兄弟」。「北条氏康」の妻が「今川義元の妹」
3,「甲相駿三国同盟」を締結したときに、
義元の娘が「信玄の息子・義信」に嫁ぎ
信玄の娘が「氏康の息子・氏政」に嫁ぎ
氏康の娘が「義元の息子・氏真」に嫁いだ
以上となります。
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