この記事では「今川義元が、桶狭間で死ななかったら、天下統一ができたかどうか」について、わかりやすく、短く、カンタンに検証・解説しております。
皆さんは、影の名将「今川義元」が、「もしも桶狭間の戦いで、織田信長に勝利していたら、歴史はどうなっていたのだろうか?」と、疑問に思ったことはありませんか?
これを読めば「今川義元が天下を取ることができたのかどうか」という「歴史のIF」について、カンタンに理解できます。
もしも「今川義元」が「桶狭間の戦い」で勝利していたら、「上洛して京都を支配はできただろうけれど、天下統一は難しかっただろう」と、筆者は考えています。
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この記事を短く言うと
1,「桶狭間の戦い」で、「今川義元」は上洛(京都へ進軍)するつもりだった、と言われている。しかし実際には「織田信長」を倒そうとしただけで、そのまま上洛するつもりはなかった。
2,そもそも、なぜ上洛する必要があるのかというと、上洛して京都を支配すれば、一気に勢力拡大することが出来るから。
3,もしも今川義元が「上洛」に成功していたとしても、「天下統一」は難しかっただろう。そのためには「兵農分離」などの改革を、もっと推し進めなくてはいけないだろう
今川義元は上洛(京都へ進軍)するつもりで「織田信長」を攻めたのか?
今川義元は、「上洛(京都へ進軍)」するつもりで、「織田信長」を攻めたわけではない、と考えられます。
つまり一気に上洛するつもりはなく、あくまでも「織田信長を倒して尾張国を侵略する」ことが目的だったのです。
【永禄三年(1560年)5月19日】、「桶狭間の戦い」が勃発。
この戦いで「今川義元」は、「2~4万」の軍団をひきいて、尾張国の「織田信長」を攻めています。
これまでの説によれば、「今川義元」はこの「2~4万」の軍団で、一気に尾張国を通過し、京都まで進軍するつもりだった、と言われてきました。
しかし、今川義元が京都を侵略するためには、美濃国「斎藤義龍」、南近江「六角承禎」、そして畿内の「三好長慶」を倒さなくてはいけません。
美濃国「斎藤義龍」の兵力は2万。
近畿地方を中心に11カ国を支配していた天下人「三好長慶」は、「桶狭間の戦い」の前後に、「5~6万」の兵力を動員できています。
どう考えても、これらの勢力を一度の出陣で粉砕することはできません。
今川義元は「一気に上洛するつもりで尾張国を攻めた」のではないと考えられます。
やはり「尾張国」だけを攻撃して、領地を広げることが目的だったのでしょう。
そもそも、なぜ「上洛(京都へ進軍)」しなくてはいけないの?
上洛、つまり「京都」を支配することで、他国を侵略する大義名分が手に入るのです。
つまり、「上洛すれば、一気に勢力拡大することができる」ということです。
しかも「京都」は、当時から日本最大の都市。
つまり「人と金」が集まる「一大商業都市」だったのです。
京都を支配すれば、それはすなわち「日本最大の資金源を手に入れる」ということでもあるので、やり方によっては、軍資金が沢山手に入ったはず。
さらに、京都には「天皇」と「征夷大将軍」がいます。
京都を支配するということは、「天皇」と「征夷大将軍」を味方につけるということを意味します。
この頃の「天皇」と「征夷大将軍」は、弱体化し、何の力も持っていませんでした。
この両者を武力で保護して、その保護の見返りに「命令」を出させることができれば、天下統一が現実的に可能となります。
つまり、「天皇」や「征夷大将軍」から、各地の戦国大名に、このように命令させるのです。
「今川義元の家来となって、その天下統一を助けよ」
これに対して、全国の大名・戦国武将たちは、なんだかんだと言い訳して、結局は従わないでしょう。
それこそが狙いだったのです。
「天皇」や「征夷大将軍」の命令に従わなかった者たちは、「逆賊」です。つまり「悪者」です。
「悪者」ならば、退治しなくてはいけません。
命令に従わないものは、今川義元の圧倒的な軍事力で滅亡させる。
すると、その「逆賊」の領地が今川義元のものとなり、さらに勢力が拡大します。
しかも「今川義元」の攻撃・侵略行為には、「天皇・征夷大将軍の命令」という、正当な理由があるため、全国の武将たちも協力しなくてはいけなくなります。
協力しない武将たちは、次に攻め滅ぼされる標的となってしまいます。
これを繰り返すことで、今川家は、一気に天下を取ることが出来るはずなのです。
三好長慶はそれを行う前に、敵勢力との乱戦に巻き込まれて病死したため、結局は天下統一できませんでした。
織田信長は、この作戦で越前国の「朝倉義景」に降伏するようすすめたものの、無視されたため「朝倉家」を滅ぼしています。
つまり「京都を支配する」ということは、「全国統一」するために、もっとも効率の良い方法だったのです。
そのため、「天下を狙う勢力」は、こぞって京都を目指しました。
中には「北条氏康」や「上杉謙信」のように、最初から京都を狙っていいない勢力も有りましたが、今川義元は間違いなく京都を目指していたと考えられます。
今川義元がもしも上洛できていたら「天下統一」が出来たのだろうか?
今川義元が「上洛」に成功して、「京都」を制圧していたとしても「天下統一」は、かなり難しかったと思います。
なぜなら、今川義元の軍団では、織田信長のように、長期間にわたって京都を支配することができなかった、と考えられるからです。
先ほど説明したように、今川義元の軍団は「寄親・寄子制度」によって集められた軍団です。
この軍団は、「土着」、つまり地元の土地を支配することで、その農作物で生活していた軍なのです。
そのため、農作業の繁忙期には、地元へ戻らなくてはいけないのです。
「兵農分離」
織田信長は、この「農作業の繁忙期には、地元へ帰らなくてはいけない」という、土着兵の弱点を克服するために「兵農分離」を行いました。
すなわち「兵士は戦いのみを行う専門集団」
そして「農民は、農作業のみを行う専門集団」
そうして、その役割を明確に区別したのです。
信長は「お金」で「戦い専門の傭兵たち」を雇い入れました。
その傭兵集団は、農作業をしなくてもいい集団なので、長期間にわたって京都へ居続けることができたのです。
この「傭兵集団」は、「危なくなったらすぐに逃げ出す」という弱点がありました。
対して「寄親寄子の軍」は、逃げ出すことが、ほとんどありません。
当然です。
逃げ出したりしたら、家に戻った瞬間に、ご近所さんから責められ続けます。
「お前の家の奴は、大変なときに逃げ出した」
と・・・。
信長はこの「危なくなったらすぐ逃げ出す」という「傭兵集団」の弱点を、「鉄砲」などの最新兵器で補いました。
それも父「織田信秀」から引き継いだ「優れた経済センス」によるものでした。
今川義元も優れた「経営者」「経済をよく知る武将」でしたが、織田信長ほどの優れた「経済運営の能力」があったとは思えません。
義元が上洛に成功したとしても、「大内義興」のように、10年ほど京都を制圧したのち、周辺勢力に圧されて、帰国を余儀なくされていたのではないでしょうか。
ただ、義元の軍師「雪斎」が生きていたら、その優れた外交手腕で、周囲の敵と和睦をしまくって、勢力維持ができたかもしれません。
もしも「今川義元」が「桶狭間の戦い」に勝利していたら?
もし「今川義元」が「桶狭間の戦い」に勝利していたら、織田信長は一時的に「義元」に降伏し、その部下となっていたでしょう。
歴史家「磯田道史」さんが「英雄たちの選択」というテレビ番組で、もしも今川義元が「桶狭間の戦い」に勝利していたら・・・、を予測していました。
それによれば、「織田信長」が死なずに降伏した場合
「今川義元」は、「織田信長」や「徳川家康」を部下にして、美濃国など京都への侵略に先陣として利用していただろう
とのことです。
「義元が、信長や家康を先陣にして、美濃国や近江国など、京都への道を制圧して確保する。これを10年続ければ、京都へ進軍することも不可能ではない」
とも言っていました。
ただし、野心的な織田信長が、「今川義元」におとなしく従っていたとは思えません。
おそらく「今川義元」が、何かしらの理由で弱体化した機会に、信長は義元を裏切って独立していたでしょう。
その前に、義元が「信長」を、なんらかの罪で処刑していたら、支配体制も盤石になったかもしれません。
もしも「今川義元」が「桶狭間の戦い」に勝利していたら、「織田信長を部下にして、京都をめざして戦っていた」と考えられます。
ただ、今川義元は【1560年】の「桶狭間の戦い」のとき、すでに「42歳」。
当時の平均寿命を考えれば、それほど長く天下に君臨できたとは思えません。
10~20年くらい生きることができたかどうか、と思います。
その後は、義元の愚鈍な長男「今川氏真」という災厄が待っています。
今川家の栄華は、それほど長くは続かなかったかもしれません。
「今川義元の凄さ」を、もっとよく知るために、おすすめのマンガ『センゴク外伝~桶狭間戦記~』
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まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「桶狭間の戦い」で、「今川義元」は織田信長を倒したあと、そのまま上洛(京都へ進軍)するつもりだった、と言われている。しかし実際には「織田信長」を倒そうとしただけで、そのまま上洛するつもりはなかった。
2,そもそもなぜ上洛する必要があるのか。京都を支配すれば、飛躍的に勢力拡大が出来るから。
3,もし今川義元が「上洛」に成功していたとしても、「天下統一」は難しかっただろう。「兵農分離」などの改革が、もっと必要だった。
以上となります。
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ありがとうございました。
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