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今川焼き×今川義元の関係を史料から解説|家紋説と今川橋説の真相

※当サイトはアフィリエイトプログラムに参加しています。この記事は2026年4月時点の史料・学術情報・公的機関公表データをもとに作成しています。

結論からお伝えします。今川焼きの名称と戦国大名・今川義元との間に、史料上の直接的な関連は確認されていません。今日もっとも有力とされるのは、江戸時代中期の安永年間(1772〜1781年)に、現在の東京都千代田区にあった「今川橋」のたもとで売り出されたことが名前の由来とする説です(出典:Wikipedia「今川焼き」)。一方で、今川義元の家紋「二つ引両」を由来とする説も語られてきましたが、史料上の裏付けは乏しいとされます。本記事では諸説をやさしく整理いたします。


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目次

今川焼きと今川義元の関係とは?結論と3つの有力説

「今川焼き」と聞いて、桶狭間の戦い(1560年)で織田信長に討たれた戦国大名・今川義元を連想される方は多いと思います。ここではまず、今川焼きと今川義元の関係について、語られている代表的な3つの説を整理いたします。

内容の要点編集部評価
①家紋モデル説今川義元の家紋「二つ引両」をモデルとする説史料上の確実な傍証を確認できていません
②今川橋由来説江戸・神田の今川橋付近で売り出されたため「今川焼き」と呼ばれたとする説江戸後期の文献から裏付けがあり、現在もっとも有力です
③今川橋+今川家つながり説今川橋を架けた名主・今川善右衛門が今川一族の末裔だった可能性を示す説確証はありませんが、ロマンとして語られる説です

結論として、現時点では「②今川橋由来説」が最有力ですが、「①家紋モデル説」も江戸〜昭和にかけてしばしば語られてきました。次の章から、Q1〜Q4の質問に簡潔にお答えしたうえで、それぞれの説をやさしく検証していきます。


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Q1〜Q4|よくある質問にやさしくお答えします

Google検索でよく寄せられる4つの質問について、まず40〜60字で端的にお答えし、そのうえで詳しい根拠を補足いたします。

Q1.今川焼きと今川義元の関係は?

歴史上の学術的な裏付けとして、今川焼きと今川義元の間に直接的な関係は確認されていません。名前の由来は江戸の今川橋付近とする説が有力で、今川義元の家紋を由来とする説については、史料上の裏付けとなる傍証が確認できていないため、あくまで一つの伝承として語られています。

ただし、「今川」という姓そのものは室町幕府・足利将軍家の血筋に連なる名門に由来し、名主・今川善右衛門と戦国大名・今川義元の今川家との血縁関係については、現存する史料からはその裏付けを確認できていません。詳しくは後述いたします。

Q2.今川焼きはなぜ今川?

江戸・神田にあった「今川橋」付近で売り出されたためです。安永年間(1772〜1781年)に、橋のたもとの店が販売したことにちなみ、「今川焼き」と呼ばれるようになったとする伝承があります。

この点は『江戸名所図会』などにも今川橋が描かれており、当時の江戸町人にとって「今川」は地名としてもよく知られた呼び名でした(出典:東京都立図書館)。

Q3.今川義元はなぜすごいのでしょうか?

駿河・遠江・三河を治めた「海道一の弓取り」と称された名門当主だからです。分国法「今川仮名目録追加」整備や領国経営、外交手腕で東海地方に強大な勢力を築きました。

かつては「公家かぶれ」といった評価がなされることもありましたが、近年の戦国時代研究においては、東海地方を治めた戦国大名としての統治能力や軍事能力が再評価されています。徳川家康(当時は松平元康)を人質として育てた「家康の師」的存在でもあります。

Q4.織田信長が今川義元を破ったのは何の戦い?

1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」です。尾張に侵攻した今川義元の本陣を、織田信長が少数で奇襲し討ち取った日本史上有数の番狂わせです。

織田信長(長興寺蔵)
Wikipediaコモンズ」より引用

戦場は現在の愛知県名古屋市緑区〜豊明市あたりとされ、奇襲説・正面攻撃説など諸説あります。この一戦で東海の覇権が今川家から織田家へ移り、結果として徳川家康の独立につながりました。

4つの質問の概要が整理できたところで、ここからは「家紋モデル説」と「今川橋由来説」をくわしく見ていきます。


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説①|今川家の家紋「二つ引両」にまつわる伝承について

まず一つ目の説、今川焼きが今川義元の家紋「二つ引両」をかたどったとする説を検証いたします。

今川義元
引用元「Wikipediaコモンズ」より

今川焼きとは、つぶあんなどを薄い小麦粉生地で挟んで丸く焼き上げた、ご存じの和菓子です。

今川焼き
Wikipediaコモンズ」より引用

「今川」と耳にすれば、1560年・桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られた戦国大名・今川義元を真っ先に思い浮かべる方が多いでしょう。そのため「今川焼きは今川義元の家紋・二つ引両のデザインを写したもの」という説が、古くからまことしやかに語られてきました。

二つ引両紋の画像は、以下のとおりです。

二つ引両
Wikipediaコモンズ」より引用

確かに、まんまるの形は今川焼きと同じです。しかし、まんまるの輪郭をもつ家紋はほかにも数多く存在します。「丸に違い鷹の羽」「丸に三つ柏」など多数の家紋が円形で、二つ引両だけが今川焼きのモデルだと断定するのは難しいというのが、編集部の見解です。

【筆者考察】家紋モデル説を経営者という独特の視点で見てみると、これは「ブランド連想を逆算した後付けストーリー」の典型に見えます。和菓子屋さんが「うちの今川焼きは戦国の名門・今川家の家紋に由来します」と語れば、それだけで商品に物語が宿ります。事実かどうかとは別に、商品名に戦国時代の名門である今川家の家紋を結びつけることで、当時の顧客に対して商品に歴史的な重みを感じさせるネーミング戦略であったとも考えられます。

とはいえ、二つ引両は足利将軍家・今川家・吉良家など武家のなかでも特別な格式をもつ家紋ですから、江戸の人々にとって「丸い焼き菓子=引両紋」の連想が起きやすかった可能性はあります。「諸説あります」というスタンスで受け止めるのが妥当でしょう。


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説②|東京都千代田区「今川橋」由来説が有力とされる理由

続いて、現在もっとも有力とされる「今川橋」由来説を見ていきます。

今川橋とは、現在の東京都千代田区岩本町一丁目あたりに存在した橋で、江戸時代の天和年間(1681〜1684年)に、神田と日本橋を分ける龍閑川(りゅうかんがわ)に架けられたものです(出典:千代田区観光協会「千代田の人々(今川善右衛門)」)。

そして安永年間(1772〜1781年)に、この今川橋のたもとで丸い焼き菓子が売り出され、橋の名にちなんで「今川焼き」と呼ばれるようになった、というのが今日の主流説です(出典:Wikipedia「今川焼き」)。

龍閑川は戦後に埋め立てられ、今川橋そのものも昭和25年(1950年)ごろまでに姿を消しましたが、現在も「今川橋交差点」として地名に名を残しています。神田駅東口から徒歩3分ほどの場所には「今川橋由来碑」が植え込みのなかに立てられています。

千代田区岩本町一丁目周辺の地図は、以下のとおりです。

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