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今川義元と今川焼きは何か関係あるの?その名は「橋」に由来していた

この記事では、今川義元と今川焼きの関係について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば今川義元と今川焼きの関係を、カンタンに理解できます。

 

今川焼きは、今川義元の家紋のデザインがモデルとなったともいわれているのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,今川義元と今川焼きの関係とは?

今川焼きは、今川義元の家紋である【二つ引両】の形をマネしてつくられた、という説がある。

 

2,今川焼きという名前が、東京都千代田区の橋に由来するとは?

今川焼きは、東京都千代田区岩本町にあった今川橋で売り出された焼き菓子なので、今川焼きと呼ばれたという説もある。

 

3,今川焼きの名前の由来となった今川橋、その今川橋の名前は、どこからきたのか?

今川橋は、今川焼きが売り出される100年ほど前に、今川前右衛門という人がつくった橋なので、今川橋と名付けられた。

目次

今川義元と今川焼きの関係とは?実は今川家の家紋がモデルになっていた

人気の焼き菓子・今川焼きは、戦国武将・今川義元が使っていた家紋・二つ引両ふたつひきりょうの形がモデルとなっている、という説があります。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

今川焼きとは、ご存知の通り、つぶあんが入った丸い焼き菓子のことです。

《今川焼き》
「引用元ウィキペディアより」

 

今川と耳にして真っ先に思い浮かべるのが、【1560年】、桶狭間の戦いで織田信長に討ち果たされた戦国武将・今川義元でしょう。

 

実はこの今川焼きは、今川義元が当主をつとめた名門・今川家の家紋・二つ引両紋のデザインが利用されたという説があるのです。

 

二つ引両の画像を、以下の貼り付けておきます。

《二つ引両》
「引用元ウィキペディアより」

 

確かに、まんまるの形は、今川焼きと同じですが、まんまるな形の家紋は他にも数多くありますので、ちょっと信ぴょう性に乏しい気がしますね。


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今川焼きの名前は、東京都千代田区の橋の名前に由来していた

もう一つの説が、現在の東京都千代田区岩本町一丁目にかつて存在していた橋・今川橋に由来するという説です。

 

今川橋とは、かつて存在していた龍閑川にかかっていた橋で、【江戸時代・天和年間(1681~1684年)】に造られたものです。

 

千代田区岩本町一丁目の地図を、以下に貼り付けておきます。

今はすでに埋め立てられてしまいましたが、この地域にはかつて龍閑川という川が存在していたのです。

 

その龍閑川にかかっていた今川橋の近くで、江戸時代・安永年間【1772~1781年】に、焼き菓子が売りに出されました。

 

今川橋の近くで売っていたため、その焼き菓子は今川焼きと呼ばれたそうです。

 

この今川橋に由来する説が、もっとも可能性が高いと考えられます。

 

ちなみに、この今川橋という名前は、今川善右衛門という人の名前をもとに付けられたものだそうです。

 

今川善右衛門と今川義元には、何か関係があるのでしょうか?


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今川善右衛門いまがわぜんえもんとは、いったい何者なのか?

今川善右衛門とは、江戸時代の天和年間(1681~1684年)に活躍した名主なぬし(土地の代表者のこと)です。

 

今川橋の完成に力を尽したため、出来上がった橋は、今川善右衛門の名をとって今川橋と名付けられたのでした。

 

この今川善右衛門と今川義元のあいだに、何かしらの関係があるのでしょうか?

 

結論から言ってしまうと、わかりません。調査しましたが不明でした。

 

ただ、今川義元の息子・今川氏真を通じて、今川家は【1868年】の明治維新まで続いています。

 

今川家は260年以上も続いているため、どこかで今川氏真の子孫が、今川善右衛門と繋がっている可能性は、否定しきれません。


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今川氏真は、徳川幕府で高家こうけという、領地は少ないながらも高い身分の家柄をあたえられています。

 

この今川氏真の子孫が、あの忠臣蔵に登場した悪役・吉良上野介きらこうずけのすけです。

 

→→→→→【今川義元・氏真の子孫】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【今川義元の年表】についてくわしくはこちら


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今川義元の家紋・二引両紋と足利家の関係とは?

今川焼きのモデルとなった家紋・二つ引両、実は【1333年】に室町幕府を開いた足利尊氏あしかがたかうじら足利家の家紋でもあるのです。

《足利尊氏》
「引用元ウィキペディアより」

そのため今川焼きではなく、足利焼きという名前になっていても、おかしくなかったかもしれません。

 

実は今川家は、室町幕府を開いて代々征夷大将軍をつとめた名門の中の名門・足利家の分家・吉良家のそのまた分家なのです。

 

そういう関係で、今川家が使っていた二つ引両という家紋は、本家・足利家から与えられたものだったと考えられます。

 

つまり、もしも二つ引両紋が、今川焼きのデザインの基礎となったのなら、今川焼きではなく、足利焼きでもおかしくなかったはず。

 

ところが、実際には足利焼きなどという呼び名は存在していません。(今川焼きは、各地でそれぞれ異なる名前で呼ばれている。おやき・小判焼き・回転焼き、など)

 

やはり今川焼きという名前は、今川義元の家紋ではなく、今川橋という販売された場所に由来するのではないでしょうか。

 

余談ですが足利尊氏は、2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】の主人公・北条義時の子孫でもあります。

 

→→→→→【今川義元の家紋】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【北条義時の子孫】についてくわしくはこちら

 

→→→→→【足利尊氏の子孫と家系図】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,今川焼きは、今川義元の家紋である二つ引両の形をマネしてつくられた、という説がある。

 

2,今川焼きは、東京都千代田区岩本町にあった今川橋で売り出された焼き菓子なので、今川焼きと呼ばれたという説もある。

 

3,今川橋は、今川焼きが売り出される100年ほど前に、今川善右衛門という人がつくった橋なので、今川橋と名付けられた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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