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結論からお伝えします。今川焼きの名称と戦国大名・今川義元との間に、史料上の直接的な関連は確認されていません。今日もっとも有力とされるのは、江戸時代中期の安永年間(1772〜1781年)に、現在の東京都千代田区にあった「今川橋」のたもとで売り出されたことが名前の由来とする説です(出典:Wikipedia「今川焼き」)。一方で、今川義元の家紋「二つ引両」を由来とする説も語られてきましたが、史料上の裏付けは乏しいとされます。本記事では諸説をやさしく整理いたします。
今川焼きと今川義元の関係とは?結論と3つの有力説
「今川焼き」と聞いて、桶狭間の戦い(1560年)で織田信長に討たれた戦国大名・今川義元を連想される方は多いと思います。ここではまず、今川焼きと今川義元の関係について、語られている代表的な3つの説を整理いたします。
| 説 | 内容の要点 | 編集部評価 |
|---|---|---|
| ①家紋モデル説 | 今川義元の家紋「二つ引両」をモデルとする説 | 史料上の確実な傍証を確認できていません |
| ②今川橋由来説 | 江戸・神田の今川橋付近で売り出されたため「今川焼き」と呼ばれたとする説 | 江戸後期の文献から裏付けがあり、現在もっとも有力です |
| ③今川橋+今川家つながり説 | 今川橋を架けた名主・今川善右衛門が今川一族の末裔だった可能性を示す説 | 確証はありませんが、ロマンとして語られる説です |
結論として、現時点では「②今川橋由来説」が最有力ですが、「①家紋モデル説」も江戸〜昭和にかけてしばしば語られてきました。次の章から、Q1〜Q4の質問に簡潔にお答えしたうえで、それぞれの説をやさしく検証していきます。
Q1〜Q4|よくある質問にやさしくお答えします
Google検索でよく寄せられる4つの質問について、まず40〜60字で端的にお答えし、そのうえで詳しい根拠を補足いたします。
Q1.今川焼きと今川義元の関係は?
歴史上の学術的な裏付けとして、今川焼きと今川義元の間に直接的な関係は確認されていません。名前の由来は江戸の今川橋付近とする説が有力で、今川義元の家紋を由来とする説については、史料上の裏付けとなる傍証が確認できていないため、あくまで一つの伝承として語られています。
ただし、「今川」という姓そのものは室町幕府・足利将軍家の血筋に連なる名門に由来し、名主・今川善右衛門と戦国大名・今川義元の今川家との血縁関係については、現存する史料からはその裏付けを確認できていません。詳しくは後述いたします。
Q2.今川焼きはなぜ今川?
江戸・神田にあった「今川橋」付近で売り出されたためです。安永年間(1772〜1781年)に、橋のたもとの店が販売したことにちなみ、「今川焼き」と呼ばれるようになったとする伝承があります。
この点は『江戸名所図会』などにも今川橋が描かれており、当時の江戸町人にとって「今川」は地名としてもよく知られた呼び名でした(出典:東京都立図書館)。
Q3.今川義元はなぜすごいのでしょうか?
駿河・遠江・三河を治めた「海道一の弓取り」と称された名門当主だからです。分国法「今川仮名目録追加」整備や領国経営、外交手腕で東海地方に強大な勢力を築きました。
かつては「公家かぶれ」といった評価がなされることもありましたが、近年の戦国時代研究においては、東海地方を治めた戦国大名としての統治能力や軍事能力が再評価されています。徳川家康(当時は松平元康)を人質として育てた「家康の師」的存在でもあります。
Q4.織田信長が今川義元を破ったのは何の戦い?
1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」です。尾張に侵攻した今川義元の本陣を、織田信長が少数で奇襲し討ち取った日本史上有数の番狂わせです。

「Wikipediaコモンズ」より引用
戦場は現在の愛知県名古屋市緑区〜豊明市あたりとされ、奇襲説・正面攻撃説など諸説あります。この一戦で東海の覇権が今川家から織田家へ移り、結果として徳川家康の独立につながりました。
4つの質問の概要が整理できたところで、ここからは「家紋モデル説」と「今川橋由来説」をくわしく見ていきます。
説①|今川家の家紋「二つ引両」にまつわる伝承について
まず一つ目の説、今川焼きが今川義元の家紋「二つ引両」をかたどったとする説を検証いたします。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
今川焼きとは、つぶあんなどを薄い小麦粉生地で挟んで丸く焼き上げた、ご存じの和菓子です。

「Wikipediaコモンズ」より引用
「今川」と耳にすれば、1560年・桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られた戦国大名・今川義元を真っ先に思い浮かべる方が多いでしょう。そのため「今川焼きは今川義元の家紋・二つ引両のデザインを写したもの」という説が、古くからまことしやかに語られてきました。
二つ引両紋の画像は、以下のとおりです。

「Wikipediaコモンズ」より引用
確かに、まんまるの形は今川焼きと同じです。しかし、まんまるの輪郭をもつ家紋はほかにも数多く存在します。「丸に違い鷹の羽」「丸に三つ柏」など多数の家紋が円形で、二つ引両だけが今川焼きのモデルだと断定するのは難しいというのが、編集部の見解です。
【筆者考察】家紋モデル説を経営者という独特の視点で見てみると、これは「ブランド連想を逆算した後付けストーリー」の典型に見えます。和菓子屋さんが「うちの今川焼きは戦国の名門・今川家の家紋に由来します」と語れば、それだけで商品に物語が宿ります。事実かどうかとは別に、商品名に戦国時代の名門である今川家の家紋を結びつけることで、当時の顧客に対して商品に歴史的な重みを感じさせるネーミング戦略であったとも考えられます。
とはいえ、二つ引両は足利将軍家・今川家・吉良家など武家のなかでも特別な格式をもつ家紋ですから、江戸の人々にとって「丸い焼き菓子=引両紋」の連想が起きやすかった可能性はあります。「諸説あります」というスタンスで受け止めるのが妥当でしょう。
説②|東京都千代田区「今川橋」由来説が有力とされる理由
続いて、現在もっとも有力とされる「今川橋」由来説を見ていきます。
今川橋とは、現在の東京都千代田区岩本町一丁目あたりに存在した橋で、江戸時代の天和年間(1681〜1684年)に、神田と日本橋を分ける龍閑川(りゅうかんがわ)に架けられたものです(出典:千代田区観光協会「千代田の人々(今川善右衛門)」)。
そして安永年間(1772〜1781年)に、この今川橋のたもとで丸い焼き菓子が売り出され、橋の名にちなんで「今川焼き」と呼ばれるようになった、というのが今日の主流説です(出典:Wikipedia「今川焼き」)。
龍閑川は戦後に埋め立てられ、今川橋そのものも昭和25年(1950年)ごろまでに姿を消しましたが、現在も「今川橋交差点」として地名に名を残しています。神田駅東口から徒歩3分ほどの場所には「今川橋由来碑」が植え込みのなかに立てられています。
千代田区岩本町一丁目周辺の地図は、以下のとおりです。
【筆者考察】筆者も神田駅近くの今川橋交差点を何度か通った経験があります。以前は吉野家「神田今川橋店」があり、橋の面影が一切ない場所だったため「なぜ今川橋店なのだろう」と不思議に感じていました。あとから今川焼きの名前の由来とつながる場所だと知り、地名に刻まれた歴史の力を改めて実感したのを覚えています。
江戸の人々にとって、今川橋は神田と日本橋をつなぐ生活動線の一部であり、「今川」は地名として身近な存在でした。橋のたもとで売られたヒット商品が地名で呼ばれるのは、現代でいう「○○橋プリン」「○○駅メロンパン」と同じ感覚で、自然な命名と言えます。
さらに今川焼きをもっと深掘りしたい方は、こちらの関連記事もあわせてどうぞ。
▶ 今川義元・氏真の子孫を家系図でやさしく整理|吉良上野介とのつながり
▶ 今川義元の家紋「二つ引両」の意味と足利家との関係
つぎは、その今川橋の名の由来となった「今川善右衛門」とは何者なのか、今川義元との関係に迫ります。
今川善右衛門とは何者か|今川義元との血縁の可能性
今川橋の名の由来となった人物・今川善右衛門(いまがわぜんえもん)は、江戸時代の天和年間(1681〜1684年)に活躍したこの地の名主(土地の代表者)でした(出典:千代田区観光協会)。橋の架設に尽力したことから、出来上がった橋に彼の姓「今川」が付けられたと伝わります。
では、この今川善右衛門は、戦国の今川義元と血縁があったのでしょうか。結論からいえば、現存する史料からは確認できません。『江戸名所図会』にも由来碑にも、今川義元との直接的な血縁関係は記されていないのです。
ただし、関係を完全否定するのも難しい事情があります。今川義元の嫡男・今川氏真は桶狭間後に大名としての領国は失いましたが、徳川家康のもとで生き延び、江戸幕府で「高家(こうけ)」という、領地は少ないものの家格の高い家柄を与えられました。今川家はそのまま明治維新(1868年)まで存続しています。
260年以上続いたこの今川家のどこかで、傍系・分家・婿養子といった形で、今川善右衛門と血脈がつながっていた可能性は、史料がないだけで完全には否定しきれません。
【史料比較】『江戸名所図会』と千代田区観光協会の記載では、今川善右衛門の名は、史料により「全右衛門」と表記される例も見られ、江戸期の名主の記録における表記の揺れが確認できます。「同一人物の異表記」とみるのが穏当です。
ちなみに今川氏真の子孫からは、忠臣蔵の悪役として有名な吉良上野介(吉良義央)も出ています。今川家・吉良家・足利家は同族関係にあり、「今川」という姓は江戸時代を通じて武家社会で特別な響きを保っていました。
今川義元の家紋・二つ引両と足利家の関係とは?
「家紋モデル説」をもう一歩深く理解するために、今川家の二つ引両がどこから来た家紋なのかを押さえておきましょう。
二つ引両は、1336年に室町幕府を開いた足利尊氏ら足利将軍家の家紋でもあります。

「Wikipediaコモンズ」より引用
今川家は、この足利将軍家の分家である吉良家のさらに分家として始まった家系です。「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と語られるほど、足利一門のなかでも特別な地位を与えられていました。そのため、本家・足利家の二つ引両を家紋として用いることが許されていたのです。
もしも今川焼きが本当に二つ引両をモデルにしているなら、「足利焼き」という名でも不思議ではなかったはずです。しかし実際には、「足利焼き」という呼び名は確認されていません。やはり、今川焼きの名は家紋ではなく「今川橋」という地名に由来すると考えるのが、現時点で最も自然です。
ちなみに足利尊氏は、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時の子孫でもあります。家紋ひとつをたどると、鎌倉〜室町〜戦国〜江戸の歴史が一気につながるのは、編集者として何度味わっても面白い瞬間です。
足利尊氏や北条義時の家系をもっと深掘りしたい方は、こちらが便利です。
▶ 北条義時の子孫はどこへ続いた?鎌倉幕府滅亡後の家系をたどる
▶ 足利尊氏の子孫と家系図|室町将軍家のその後
今川焼きの全国の呼び名と分布|大判焼き・回転焼き・あじまん
今川焼きは、地域ごとに呼び名が驚くほど異なる和菓子です。ニチレイフーズが2025年11月に公表した47都道府県調査(1万4057人対象)によると、もっとも勢力が強いのは「今川焼」で19エリアを制覇、全体の約6割が「今川焼」と回答したと公表されています(出典:ニチレイフーズ ニュースリリース)。
| 呼び名 | 主な勢力圏 | 備考 |
|---|---|---|
| 今川焼 | 関東・北陸を中心に19エリア | 全国最大勢力 |
| 大判焼き | 東海・四国の一部 | 「大判型」が名前の由来 |
| 回転焼き | 九州全県・近畿の一部 | 九州は全県制覇 |
| あじまん | 山形県ほか | 商品ブランド名が定着 |
| 甘太郎焼 | 埼玉・千葉・神奈川・茨城・群馬前橋など | 店舗ブランド由来 |
| あづま焼/あずま焼 | 静岡県浜松市・磐田市 | 地域固有の呼称 |
このように、地域や店のブランドによって呼び名が大きく異なるのも今川焼きの面白さです。逆にいえば「今川焼き」という名は、江戸由来の言い方が全国に広がった結果であり、戦国大名・今川義元との関係はますます薄いと考えられます。
【筆者考察】経営者の視点で見ると、九州が「回転焼き」全県制覇というのは興味深い現象です。商品の機能(回転して焼く器具)を名前にしたほうが、ご当地のお客様には伝わりやすかったのでしょう。一方、関東は「今川橋」というローカルブランドを名前として残しました。商品名は「物語派」と「機能派」に分かれる、というマーケティングの古典的セオリーが、和菓子1つで観察できます。
大河ドラマで描かれた今川義元と史実の今川家
今川義元は大河ドラマでもおなじみの戦国大名です。編集部が視聴した範囲で、近年の主な作品と演出傾向を整理いたします。
| 作品 | 放送年 | 編集部メモ |
|---|---|---|
| 『どうする家康』 | 2023年 | 野村萬斎さんが演じ、優雅で品格ある「大将軍」像を描写 |
| 『信長 KING OF ZIPANGU』 | 1992年 | 桶狭間直前の油断と威厳の対比が印象的 |
| 『風林火山』 | 2007年 | 武田・北条・今川の三国同盟を冷静な政治家として演じ分け |
| 『徳川家康』 | 1983年 | 幼少期の家康を養育する保護者的描写!盟友・成田三樹夫さんの演技は圧倒的 |
かつての大河ドラマでは、今川義元はお歯黒を塗った公家風の姿で描かれ、「文弱の貴族大名」イメージが定着しました。しかし近年の研究と『どうする家康』のような作品では、駿河・遠江・三河を治め、家康の人格形成にまで影響を与えた東海の大物として再評価されています。
「今川焼き」を片手に大河ドラマを見直すと、義元という人物の立体感が変わって見えてくるはずです。
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大河ドラマで義元の人物像をアップデートしたあとは、編集部の独自考察で「今川」というブランドの本質を一緒に見ていきましょう。
編集部の独自考察|「今川」という名のブランド力
ここまで整理した内容をもとに、筆者の独自考察を3点お伝えいたします。
考察①「今川」は当時としても希少な名門の姓だった
今川という姓は、室町幕府・足利将軍家の分家である吉良家、そのまた分家として始まった家系の呼び名で、当時としてもかなり珍しい姓です。「将軍家が出せなければ吉良から、吉良が出せなければ今川から」という序列意識があったと伝わるほどで、徳川御三家のような位置づけを期待された家でした。経営者目線でいえば「ブランドの希少性管理」がしっかりされていた家、と言えます。
考察②今川範忠と「天下一苗字」の伝承
今川義元の曽祖父にあたる今川範忠は、永享の乱の戦功により「天下一苗字」として将軍家から認められたという伝承があります。事実だとすれば、今川という姓は単なる名字ではなく、家格そのものを背負ったブランドになったことになります。これにより、戦国期に「今川」を名乗れる人物は限られており、姓と一族が極めて強く結びついていたと考えられます。
考察③今川橋を架けた今川さんが、今川一族の末裔だったとしたら
江戸の今川橋を架けた名主・今川善右衛門が、もし足利一門・今川家の末裔だったとしたら、今川焼きという名は単なる地名由来を超えて、武家の姓が町人文化のなかに息づいた事例ということになります。今川義元と今川焼きが直接結びつく史料はありませんが、今川橋を架けた名主・今川善右衛門と、戦国大名今川家の関係性についても、同族である可能性を証明する史料は確認できません。戦国時代の名門今川家の姓と、江戸の地名に由来する町人文化が、今川焼きという菓子を通じて結びついていると解釈することもできます。
考察④地名は商品ブランドの最強の保管庫である
今川橋という橋は失われましたが、「今川」という名は、商品名と地名の二つの形で後世に伝わっています。経営者の視点でみると、これは「物理資産は失われても、ブランド名が言葉として残れば文化資本は継承できる」という事例です。今川焼きは単なる和菓子ではなく、江戸の町人が育てた「言葉の文化財」なのだと、筆者は考えます。
ここまでで諸説と独自考察を整理しました。最後にまとめと参考資料を確認していきましょう。
まとめ|今川焼きと今川義元の関係を3行で振り返る
本日の記事のポイントを、シンプルに整理いたします。
- 今川焼きと今川義元の直接の関係は史料から確認できず、家紋モデル説は傍証に乏しいというのが諸説の現状です
- 今川焼きの名前は、東京都千代田区岩本町にあった今川橋付近で安永年間に売り出されたことに由来する説が有力です
- 今川橋の名は、天和年間に橋の架設に尽力した名主・今川善右衛門に由来し、今川家との血縁関係は史料からは確認できません
本日は「レキシル」へお越しくださいまして、誠にありがとうございました。今川焼きを召し上がるとき、ふとこの記事を思い出していただけたら、編集部としてこれ以上の喜びはございません。
参考資料
- 千代田区観光協会「千代田の人々(今川善右衛門)」https://visit-chiyoda.tokyo/app/history/detail/12
- 東京都立図書館『江戸名所図会』デジタル展示https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/
- ニチレイフーズ ニュースリリース「47都道府県の呼び名 勢力図マップ」(2025年11月28日)公式リリース
- Wikipedia「今川焼き」記事URL
- Wikipedia「今川義元」「今川氏真」「吉良氏」「二つ引両」(補助参照)
- NHK大河ドラマ公式情報『どうする家康』『風林火山』『信長 KING OF ZIPANGU』『徳川家康』
レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析
歴史学者ではありませんが、一次史料・学術書・自治体公開資料を徹底調査し、歴史をわかりやすく整理することを得意としています。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験から史実と演出の違いを比較し、経営者経験を踏まえて歴史上の決断を現代ビジネスに接続して解説します。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も足を運んでいます。神田駅東口・今川橋交差点も通行経験あり。
最終更新日:2026年4月30日
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