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今川義元と徳川家康の仲と関係とは?義元・家康を育てた超天才軍師とは

この記事では「今川義元と徳川家康の2人が、いったいどういう関係なのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

「今川義元」と「徳川家康」、戦国時代の名将であるこの二人が、どういう関係なのか、はっきりと分からずに、モヤモヤした気分になったことはありませんか?

 

これを読めば「義元と家康の関係」を、カンタンに理解できます。

 

「今川義元」と「徳川家康」は、「同じ師匠から教えを受けた先輩と後輩」そして「主君と部下」、さらに「保護者と人質」という関係なのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,今川義元徳川家康は、「主君と部下」であり「宗主国の君主と、属国の幼い殿様」または「同じ師匠から教えを受けた兄弟子と弟弟子」という関係でもある。

 

2,義元と家康は、「太原雪斎」という天才軍師から英才教育を施された。太原雪斎は「三国同盟」で「武田信玄」「北条氏康」「上杉謙信」などの名将たちを封じ込めた戦国一の天才軍師。

 

3,「今川義元」と「徳川家康」は、【1549年】に「家康」と「織田信広」の人質交換が行われた直後に出会った。そして【1560年】に「桶狭間の戦い」で今川義元が戦死すると、家康は今川家を裏切って独立した

 

4,今川義元は、「徳川家康」を自分の一族と同じように大切に扱った。「太原雪斎」の英才教育を受けさせたのも、息子「今川氏真」の部下として仕えさせようとしたから。家康が「今川家の人質として苦労した」という話は、嘘。

今川義元と徳川家康の関係は、今でいう「先輩と後輩」の間柄?

今川義元と徳川家康は、「同じ師匠から学んだ先輩と後輩」という関係性がありました。

 

二人は非常に複雑な関係です。

 

「今川義元」は主君であり、「徳川家康」は部下という関係でもあったのです。

 

今川義元は、尾張国の武将「織田信秀」と戦う三河国の武将「松平広忠」へ、援軍を送っていました。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

そのとき、「今川義元」は「松平広忠」へ、さらに協力する保証を求めます。

 

保証、つまり「松平広忠は今川義元を裏切らない」という証拠として、広忠の息子「竹千代(徳川家康)」を人質として預かる約束をしたのです。

 

これにより、三河国「松平広忠」は、駿河国「今川義元」に臣従し、属国となることが確定します。



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「松平広忠」はその直後に、家臣に暗殺されてしまうのですが、それでも今川義元は属国「三河」の幼い当主「徳川家康」を保護します。

 

なぜ今川義元は、そんなにまで「徳川家康」を保護しようとしたでしょうか?

 

理由は簡単です。

 

「三河国の国主・松平広忠の正当な後継者」である「松平竹千代(徳川家康)」を手元に置いて、手懐けるれば、「今川義元」が「三河国」を支配する正当な理由となるからです。

 

それだけではありません。三河の正当な国主「徳川家康」を手元においておけば、三河国に住んでいる「家康の家来たち」つまり「三河武士」は、今川義元に逆らえません。

 

もし逆らったら、三河武士の主君である「徳川家康」が殺されてしまいかねないのですから。

 

こうして「今川義元」と「徳川家康」は、「保護者と人質」「宗主国の主と、属国の主」という関係にもなったわけです。

 

「宗主国の主と、属国の主」をわかりやすくいえば、「親分の国の王様(義元)」と「子分の国の王様(家康)」。「義元と家康」は、そういう関係なのです。

 

そして幼い「家康」を自らの手元に置いて、英才教育を施します。

 

「義元」は、将来「徳川家康」を自分の息子「今川氏真」の部下にしようとしていたのです。

 

義元は「家康」に、自分の師匠でもあった天才軍師「太原雪斎」の教育を受けさせます。

 

これにより、家康はとても優秀な武将へと成長していくのです。

 

つまり、「今川義元」と「徳川家康」は、ともに「太原雪斎」の弟子ということ。

 

兄弟子「今川義元」、弟弟子「徳川家康」。

 

二人は「太原雪斎」の英才教育により、ともに歴史に名を刻む名将へと成長したのでした。



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義元と家康!二人の天才を育てあげ、「謙信」「信玄」「氏康」を封殺した戦国一の天才軍師「太原雪斎」とは?

「太原雪斎」とは、幼かった「今川義元」の教育係をつとめた僧侶であり、今川義元の軍師を務めた武将でもありました。

 

今川義元は、父「今川氏親」の五男として誕生しました。

 

当時、たくさんの兄弟がいると、「家督争い」が起こる危険性があったため、長男以外の子どもたちは、そのほとんどが「他家へ養子入り」したり、「出家」したりしていたのです。

 

「今川義元(幼名・芳菊丸)」も、出家して「栴岳承芳(ばいがくしょうほう)」と名乗ります。

 

そして、「今川義元」は出家した先の寺「善徳院(現在の臨済寺)」で、師「太原雪斎」と出会うのです。

 

義元は、兄「今川氏輝」「彦五郎」が急死すると、兄「玄広恵探(げんこうえたん)」と家督争いをすることになります。

 

「今川義元」は、師「太原雪斎」や母「寿桂尼」の援助を得て、家督争いに勝利。

 

今川家の家督を継承します。

 

「太原雪斎」は、その後も今川義元の軍師・参謀として、今川家の「軍事・内政・外交」に天才的な力を発揮していきます。



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中でも「太原雪斎」がなしとげた最大の功績は「甲相駿三国同盟」でしょう。

 

雪斎は、「今川義元」「武田信玄」「北条氏康」の三者に同盟を締結させ、今川家の後方の安全を確保。

 

更には、「武田信玄」と「北条氏康」を協力させることで、軍神「上杉謙信」の勢力拡大を防ぎ、その力を封じ込めることに成功します。

  • 「竹中半兵衛」
  • 「黒田官兵衛」
  • 「片倉小十郎景綱」
  • 「太田道灌」
  • 「山本勘助」
  • 「宇佐美定満」

戦国時代に数々いる「軍師」と呼ばれる武将たち。

 

筆者は個人的に、「今川義元」と「徳川家康」という逸材を育て上げ、「三国同盟」を締結して「謙信」「信玄」「氏康」という名将のなかの名将を封殺した「太原雪斎」こそ、最高の天才軍師であると考えています。

 

雪斎は「桶狭間の戦い」の前に急死します。

 

もしも「雪斎」が生きていたら、もしかすると「今川義元」は、「桶狭間」で死なずに済んだかもしれません。



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義元と家康の出会いと別れをまとめて解説!「桶狭間の戦い」で暗転した運命

「義元」と「家康」は、【1549年】に家康が人質として駿府へ送られたときに出会い、【1560年】に「桶狭間の戦い」で別れることとなります。

 

家康が生まれた【1543年】頃、家康の父「松平広忠」は、「今川義元」の協力を得て、尾張国の「織田信秀」と戦っていました。

 

広忠は、義元に援軍を出してもらうために、息子「竹千代(徳川家康)」を、人質として義元の手元に送ることとなりました。

 

しかし、竹千代を今川義元のもとへ送る役目をつとめていた者が、突然「松平広忠」を裏切り、「織田信秀」のもとへ「竹千代(家康)」を送り届けてしまうのです。

 

これは、護衛をつとめていた「戸田康光」という武将が、「松平家は、今川家よりも織田家に味方したほうが良い」と判断したからでした。

 

これにより、「竹千代」を人質に取られた「松平広忠」は、織田信秀から、「自分に味方せよ」と脅されるのです。

 

ところが、「広忠」は、あくまでも「今川義元」に臣従します。



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「竹千代」は、織田家で人質生活をおくっていたこのときに、「織田信秀」の息子「織田信長」と出会ったのでした。

 

このとき、今川義元の軍師「太原雪斎」は、「竹千代(家康)」を救うため、「織田信秀」の長男で「織田信長」の兄に当たる「織田信広」を捕縛します。

 

そして「織田信広」と「竹千代」の人質交換を実現し、「竹千代」を救出。

 

1549年】、ようやく「竹千代」は、今川義元の手元で保護されることとなるのです。

 

その後、「竹千代」は今川義元から親族として扱われ、太原雪斎の英才教育を受けて成長。

 

何不自由なく生活した「竹千代」は、今川義元から一文字をもらって「松平元信」と名乗ります。(その後、「松平元康」へ、そして「徳川家康」へと改名した)

 

1560年】、成長した「松平元信」は、「桶狭間の戦い」の先陣として、「織田信長」がひきいる織田軍団と激突。

 

今川義元は、織田信長に討ち取られてしまいます。

 

家康は、どさくさ紛れに、故郷であり本拠地の「岡崎城」へ帰還。

 

今川家と縁を切り、独立を果たすのでした。

 

1561年】には、「織田信長」と同盟を締結し、今川家とは完全に縁を切ってしまいます。

 

家康はこの「54年後」の【1615年】、「大坂の陣」で「豊臣家」を滅ぼし、天下を完全に手に入れたのでした。

 

1549年】に義元と家康は出会い、【1560年】に「桶狭間の戦い」で永遠の決別をしてしまったのです。



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「徳川家康」がついた大嘘!「今川義元の人質になって苦労した」という話は大嘘だった!

「徳川家康は、今川義元の人質として、苦労の多い生活を強いられていた」と言われていますが、これは家康が広めた嘘だと考えられます。

 

家康は、【1605年】に息子「秀忠」へ征夷大将軍の職をゆずり、隠居してしまいました。

 

その隠居先は、人質生活をおくっていた「駿府」。

 

家康はよく、「人質として苦労した」と言われています。

 

しかし、実際には「今川義元」から、今川一族として扱われ、姪である「瀬名姫(築山殿)」との結婚を許され、立派な鎧まで与えられ、天才参謀「太原雪斎」の英才教育をほどこされ、何不自由なく「駿府」で生活していました。

 

それにもかかわらず、家康は義元が死ぬと今川を裏切って「義元の仇」である「信長」と同盟を締結したのです。

 

家康にとって駿府は、とても穏やかに生活できた安住の地だったのでしょう。

 

だから隠居城として駿府城を択んだのです。



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「家康は人質として苦労した」

 

というのは、今川を裏切った家康の嘘。

 

家康が人質になって、三河国にいた家康の家来たちは苦労していましたが、家康は全く苦労せず、平穏な日々を今川義元から与えられていたのです。

 

この後ろめたさがあったためか、家康は「義元」の息子「氏真」を引き取り、高家という身分の高い家柄として引き立て、明治維新まで「今川家」を大切にしています。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,今川義元徳川家康は、「主君と部下」「宗主国の君主と、属国の幼い殿様」「同じ師匠から教えを受けた兄弟子と弟弟子」という関係。

 

2,義元と家康は、「太原雪斎」という軍師から教育を施された。雪斎は「三国同盟」で「信玄」「氏康」「謙信」たちを封じ込めた天才軍師。

 

3,「義元」と「家康」は、【1549年】に「家康」と「織田信広」の人質交換が行われた直後に出会った。【1560年】に「桶狭間の戦い」で義元が戦死すると、家康は今川家を裏切って独立した

 

4,義元は、「家康」を大切に扱った。「雪斎」の英才教育を受けさせたのも、息子「氏真」の部下として仕えさせようとしたから。家康が「人質として苦労した」という話は、嘘。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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