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今川義元のエピソードを簡単にわかりやすく解説!桶狭間の予知夢とは

この記事では「今川義元の【予知夢】の逸話」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

実は、「今川義元」が「桶狭間の戦い」で亡くなる直前に、「不思議な予知夢」をみていた、という逸話をご存知でしょうか?

 

これを読めば「今川義元がみた不思議な予知夢の逸話」を、カンタンに理解できます。

 

「今川義元」は「桶狭間の戦い」で亡くなる直前に、「自らが殺した兄の亡霊」から警告を受けていたのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,今川義元がみた予知夢とは?

今川義元は、「桶狭間の戦い」の直前に、兄「玄広恵探(げんこうえたん)」から「出陣してはいけない」と言われる夢をみている・・・という逸話がある。

 

2,今川義元がみた夢に出てきた兄「玄広恵探」とは誰?

義元は、異母兄「玄広恵探」と「花倉の乱」と呼ばれる家督争いを戦い、勝利。兄「玄広恵探」を自害へと追い込んでいる

 

3,その他「今川義元の逸話・エピソード」は?

  • 「桶狭間の戦いの直前、突然馬が暴れて振り落とされた」
  • 「死の間際に宴会をしていた」
  • 「首を取られる直前、敵将の指を食いちぎった」
  • 「義元の、まるで公家のような衣装は、今川家の権威をアピールするためだった」

今川義元の逸話「桶狭間の戦い」直前の【悪夢】

今川義元は「桶狭間の戦い」で亡くなる直前、実の兄「玄広恵探(げんこうえたん)」から、「出陣するな!今川家が滅びるぞ!」と注意される「予知夢」をみています。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

義元は数万の大軍団をひきいて、尾張国「織田信長」を討伐するために出陣する直前、不思議な夢をみました。

 

実の兄「玄広恵探」が、夢に現れてしきりに

「出陣するな!今川家が滅びる!今回の出陣はやめよ!」

と叫び続けるのです。



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それに対して今川義元は、こう応えます。

「私の宿敵である貴様が、どうして私の身を心配するのだ?

貴様を殺した私が滅びるならば、貴様からすれば怨みを晴らす良い機会ではないか!

そのような言葉に惑わされると思っているのか?」

 

すると「玄広恵探」は、こう切り返します。

「敵味方の感情など、どうでもよい。

私はそなたの身を案じているのではなく、今川家の滅亡を恐れているのだ。

出陣するな!出陣するな!出陣するな!」

そこで今川義元は目を覚まします。

 

兄「玄広恵探」の言葉に、言いしれぬ不安を覚えた義元でしたが、それを振り払うようにして、本拠地「駿府」から「尾張国」へ出陣。

 

すると行軍の途中、「藤沢」という場所へ差し掛かったところで、義元は突然なにかに驚いたように、刀に手をかけます。

 

なんと今川軍の行列を見物する沿道の人々の中に、死んだはずの兄「玄広恵探」がいたのです。



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今川義元が、ふと気がつくと、「玄広恵探」の姿はどこにもありませんでした。

 

義元はゆっくりと、愛刀から手を離します。

「永禄三年五月十九日、今川義元を討った際に、その手にあった刀」

「織田尾張守信長」

義元が兄「玄広恵探」の亡霊を斬ろうとして手をかけた愛刀は、「桶狭間の戦い」のあと織田信長によって、この文字を刻まれて、今に伝わっています。

 

この逸話は、もちろん後世の創作だと考えられます。「当代記」という文書に残された逸話です。

 

「今川義元」の愛刀「左文字」については、以下のリンク記事で、さらに詳しくご説明しております。



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亡霊として現れた兄「玄広恵探」!義元が兄を殺した経緯を解説

兄「玄広恵探」は、弟「今川義元」と兄弟でありながら、「今川家」の家督を争って殺し合った「宿敵」という関係です。

 

1536年】、今川義元の兄で今川家当主だった「今川氏輝」が急死。氏輝の後継者として指名されていた、義元の兄で氏輝の弟「彦五郎」も同時に急死します。

 

これにより、今川家では「家督争い」が勃発します。

 

父「今川氏親」の側室の子だった「玄広恵探」と、正室「寿桂尼」の息子だった「今川義元」が、今川家当主の座を争ったのです。

 

「花倉の乱」

 

この家督争いは、敗北した「玄広恵探」の最期の地「花倉城」の名をとって「花倉の乱」と呼ばれました。

 

こうして「今川家」の家督を継承した「今川義元」は、それまで中堅企業でしかなかった今川家を、日本屈指の大企業へと成長させていくのです。



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その他「今川義元の逸話・エピソード」をご紹介

今川義元には数々のエピソードがありますが、どれもこれもが「愚将」であることを物語るものばかりです。

 

「落馬」

義元が尾張国へ侵攻した際、「沓掛(くつかけ)城」から最前線の「大高城」へと向かう途中、突然落馬します。

なにかしらの不安を覚えた義元でしたが、そのまま出陣します。

その身に降りかかる災いを事前に知らせようとする何かが、馬を暴れさせたのでしょう。

しかしそれを気にすることなく、義元は信長に討たれるのでした。

 

「死の間際の宴会」

義元は、「桶狭間の戦い」で討ち果たされる直前、戦場で「宴会」を行ったと言われています。

酒宴を開いたのは、義元が油断したからではありません。

戦場で宴会を行うのは、戦わずに勝利しようとする名将が、よく使う手なのです。

1590年】、「小田原征伐」で「豊臣秀吉」が余裕のある姿を、敵将「北条氏政」に見せつけて降伏をうながすために、宴会をおこなっています。

義元には、秀吉と同じ狙いがあったはず。

戦わずして、織田信長に降伏をうながそうとしたのです。

ところが、このスキを突いて信長軍は義元を急襲したのでした。



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死の間際の激戦

信長から急襲された今川義元は、織田軍の「服部小平太一忠」の膝を刀で斬りつけて撃退。

次に襲いかかってきた「毛利新助良勝」に首を斬られたのですが、そのとき「毛利良勝」の指を食いちぎっています。

 

お公家さんのような姿

今川義元は「化粧」に「お歯黒」をして、馬ではなく「輿(こし)」に乗り、まるでお公家さんのような姿だったと言われています。

しかしこれは後世の創作とも言われています。

事実であったとしても、当時「武将が化粧をする」ことは、身なりを整えるための常識でした。

また、「輿」に乗ることは、今川義元が「足利将軍家」から許された特権だったので、今川家の権力を誇示するために馬ではなく輿をつかったと考えられています。

実際、今川義元は「落馬した」という逸話があるうえに、桶狭間から逃げようとする際に、馬に乗っていたと、「織田軍の人間」が証言しています。

「今川家」を急拡大させて「今川家の最盛期」を呼び込んだ手腕を見れば、今川義元が名将であることは明らかです。

しかし「桶狭間の戦い」で、圧倒的に有利な状況であるにも関わらず敗北したため、後世に「愚将」として評価されない事態となってしまったのです。

 

「今川義元」が「なぜ、お公家風の衣装を身に着けていたのか」について、以下のリンク記事で、更に詳しく解説しております。



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苦労人「今川義元」!生まれた直後に寺へ出された「残酷な理由」

今川義元は「苦労人」です。わずか4歳でお寺に出家させられています。

 

父「今川氏親」には、後継者である「氏輝」のほかにも

  • 「彦五郎」
  • 「玄広恵探」
  • 「今川義元」
  • 「氏豊」

など、5人の息子がいました。

 

氏親は「氏輝」と「彦五郎」を残して、その他の子は「出家」させるか、他家の養子に出しています。

 

「家督争い」

 

当時は兄弟同士の家督争いが多く、それを防ぐために、父親は後継者以外の子を「出家」させたり「養子」に出したりするのが一般的でした。

 

徳川家康は、後継者に次男「秀康」ではなく、三男「秀忠」を指名しています。

 

その理由は「秀康」が「双子」だったためだという説があります。

 

双子の兄弟同士で家督争いが起こることを恐れて、「秀康」を「豊臣秀吉」「結城家」へと養子に出しています。



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氏親は、「氏輝」と「彦五郎」だけを残し、他の子供達は出家・養子としています。

 

今川義元も、出家させられて修行をしているのです。

 

義元は「家督争い」という、骨肉の争いを未然に防ぐために、出家して俗世間から隔離された生活を強いられたのでした。

 

名門「今川家」の子供でありながら、京都の寺へと押し込められたその少年期は、かなりの苦労をしたのかもしれません。

 

決して「温室育ち」などではなかったと考えられます。

 

しかし、その辛い境遇が、今川義元の人生で、最大の転機をもたらします。



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「太原雪斎(たいげん せっさい)」

 

義元の師となったこの「太原雪斎」は、まさに戦国一の天才軍師でした。

 

内政・軍事・外交に手腕を発揮し、今川家の最盛期をつくりあげたのが、この太原雪斎。

 

義元は太原雪斎から英才教育をほどこされ、次の転機を待ちます。

 

そして兄「氏輝」「彦五郎」が、都合よく同時に急死。

 

その後は、兄「玄広恵探」と「今川家」の家督を争い、勝利。

 

今川家を「東海道一の大勢力」へと押し上げるのでした。

 

兄二人が、同時に急死。

 

もしかすると今川義元は、「開きそうもない自らの運命」を、「暗殺」という「強引な方法で、こじ開けた」のかもしれません。

 

骨肉の争いを防ぐために、子どもたちを出家させた「今川氏親」の狙いは、三人の子が亡くなったことで、見事に外れたのでした。

 

余談ですが、今川氏親には「氏輝」「彦五郎」「今川義元」「氏豊」「玄広恵探」のほかにも、「瑞渓院」という娘がいます。

 

「瑞渓院」は義元の妹にあたり、「北条氏康」に嫁いで、「北条氏政」を産んでいます。

 

「今川義元」の「功績」や「年表」について、以下のリンク記事で、詳しくご説明しております。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,今川義元は、「桶狭間の戦い」の直前に、兄「玄広恵探」から「出陣してはいけない」と言われる夢をみたという逸話がある。

 

2,義元は、兄「玄広恵探」と「花倉の乱」で戦い勝利。「玄広恵探」を自害へと追い込んでいる

 

3,「桶狭間の戦いの直前、馬が暴れて振り落とされた」

「死の間際に宴会をしていた」

「敵将の指を食いちぎった」

「義元の、公家のような衣装は、今川家の権威をアピールするため」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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