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武田信玄の強さはどのくらいか?信長・謙信など他の戦国武将と比較してみた!

「武田信玄」といえば、誰もが知っている名将ですが、「信玄がどれくらい強かったのか」については、あまり知られていないのではないでしょうか。

「武田信玄の強さ」について、「なぜ強かったのか」、そして「どれくらい強かったのか」を、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では「武田信玄の強さ」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

今は「信玄の強さ」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、「武田信玄」に詳しくなれます。

この記事を読んで、「信玄の強さ」についての疑問を、スッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,「武田信玄」は、本当に強かったのか?

武田信玄」は、本当に強かった。戦国の覇者「織田信長」を恐れさせ、野戦の達人と呼ばれた「徳川家康」に完勝してしまったほど。その強さは、戦国時代トップクラスだった。

 

2,「武田信玄の強さ」は、どれくらいのものだったのか?

「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・伊達政宗などが、束になったとしても、武田信玄にはかなわない」といわれるほど、信玄は強かったと考えられる

 

3,「武田信玄」が「強かった理由・強さの秘密」とは何か?

信玄の強さの理由は、「勝つ見込みのない戦いをしないという姿勢」、「孫子の兵法を熟知していたこと」、「騎馬隊に代表される強力な軍団」、「優れた武田家臣団」、「情報と忍者を重視したことなどがあげられる

武田信玄の「強さ」は、どれくらい凄かったのか?

「武田信玄」の強さが、どれほど凄かったのか、「エピソード」や「戦績」をつかって解説いたします。

魔王「織田信長」や天下人「徳川家康」も恐れた名将「武田信玄」

「武田信玄」の強さは、間違いなく本物でした。

2020年】の大河ドラマ「麒麟がくる」にも、俳優「石橋凌」さん演じる「武田信玄」が登場しましたが、その強さは際立っていました。

「信玄」は、日本全国が戦争をくりかえしていた戦国時代において、トップクラスの名将だったのです。

武田家の家紋「武田菱」 「引用元ウィキペディアより」 クリックすると拡大できます

 

《武田信玄》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

戦国時代を制覇した「織田信長」が、生涯にわたって恐れ続けたのが「武田信玄」です。

「信玄」の強さは凄まじく、「野戦の達人」と呼ばれて後に天下を取った名将「徳川家康」に、何もさせずに完勝してしまったほどです。

「武田信玄の強さ」は本物です。


「武田信玄」について、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。

 

「麒麟がくる」などの「大河ドラマを無料で視聴する方法」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております



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武田信玄の「戦績」

諸説ありますが、武田信玄の生涯戦績は

「72勝49勝3敗20分」

といわれています。

信玄は生涯に「72度」も戦い、ほとんど敗北したことがないのです。

「織田信長」は生涯に「100度」も戦い、敗戦は「20回」ですから、「武田信玄」がどれほど強いのかがよくわかります。

ただし、そんな武田信玄も生涯に「3度の敗北」を経験しています。

その3度の敗北のうち、2度は「村上義清」という信濃国の武将によるものです。

残り1度の敗北は、誰によるものなのか、諸説あります。

「村上義清」に敗北したという説もあれば、遠江国の名城「高天神城」を攻撃した際の敗戦だ、という説もあり、はっきりしていません。

「72戦49勝」ということは、勝率が「68%」ということになります。これは当時としては、驚異的な数字といえます。


「織田信長の有名な戦い」について、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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「信玄」の初陣

「甲陽軍鑑」という歴史書には、「武田信玄」は初陣で、難攻不落だった敵の城をカンタンに落城させたと記されています。

1536年】、武田信玄は父「武田信虎」とともに8千の軍団をひきいて、信濃国の「海ノ口城(うんのくちじょう)」を攻撃します。

敵は、猛将「平賀源心」と2千の城兵。

36日におよぶ城攻めにもかかわらず、「平賀源心」は粘り強く抵抗し、ついに武田軍は撤退します。

ところがこのとき、16歳だった「武田信玄」は退却の途中で、わずか【300人】の軍団だけをひきいて、突然Uターン。

なんと信玄は、300の軍だけで、「海ノ口城」を攻撃し始めたのです。

勝利に酔いしれて油断していた「平賀源心」と城兵は、信玄の攻撃に全く何もできずに敗退。

「平賀源心」は討ち取られてしまったのでした。

ただ、この逸話は、現代では「信玄を偉大に見せるため、わざと大げさに話をつくりあげた」という説もあり、信ぴょう性には乏しいという見方もあります。

大河ドラマ「風林火山」では、若き「武田信玄」が、「山本勘助」が守る「海ノ口城」を陥落させたというストーリーになっていますが、実際には「山本勘助」がこの戦いに参加したという事実はありません。



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「三方ヶ原の戦い」で「徳川家康」に何もさせずに完勝

「武田信玄」には、のちに「野戦の達人」と呼ばれることとなる天下人「徳川家康」に、何もさせずに完勝してしまった、という逸話があります。

1573】年、「足利義昭」の協力要請を受けて、「織田信長」討伐を目指す「武田信玄」は、遠江国・浜松城の「徳川家康」に行く手を阻まれます。

このとき、武田信玄の軍団は「2万5千」、対する徳川家康の軍団は「1万1千」。

2倍以上の軍団をひきいてたものの、信玄の軍団は長旅で疲れ、しかも「家康」を相手にして、余計な時間を使わけにはいかない状況でした。

堅固な「浜松城」に籠城されては、時間がかかってしまう。

かといって、「浜松城」を攻撃せずに素通りしては、「徳川家康」に背後を攻撃され、甚大な被害が出る。

そこで信玄は、「浜松城」の前をわざと素通りして見せて、家康を城からおびき出し、無防備になった家康軍を殲滅する作戦を考え出します。

「三方ヶ原」という台地におびき出された家康軍は、「信玄」の軍に待ち伏せされて、数時間の猛攻を受けた後に崩壊。

「徳川家康」は恐怖のあまり、馬の上で汚物を漏らしながら浜松城へ逃げ帰ったといいます。

家康はこのときの敗戦を忘れないために、逃げ帰った直後の自らの姿を絵師に描かせて、その絵を大切に持ち歩いたといいます。

三方ヶ原の戦いで敗北し逃げ帰った徳川家康肖像:徳川美術館所蔵、wikipediaより、パブリックドメイン

この絵は、「しかみ像」と呼ばれて、現在は「徳川美術館」に保管されています。



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ピーク時には「7カ国」まで勢力を拡大

信玄は、極めて貧しかった「甲斐(山梨県)」の領主でした。

「貧乏な国の領主」という立場から、最終的には「中部地方の大部分を制覇する」までに勢力を拡大させているのです。

当時、「甲斐国」の周りは強敵だらけでした。

  • 越後(新潟県)の「上杉謙信
  • 相模(神奈川県)の「北条氏康
  • 駿河(静岡県)の「今川義元
  • 三河(愛知県)の「徳川家康」
  • 美濃(岐阜県)の「織田信長」

信玄はこれらの強敵たちと、ときには争い、ときには協力しながら、広大な領地を侵略していくのでした。

このことからも、信玄の強さがどれほど凄まじいものだったのかが、よくわかります。

信玄が支配した地域は、ピークには「7カ国」におよびました。

一覧にすると以下のとおりです。

  • 甲斐(山梨県)
  • 信濃(長野県)の大部分
  • 駿河(静岡県中央部)
  • 上野(群馬県)の西半分
  • 遠江(静岡県西部)の一部
  • 三河(愛知県東部)の一部
  • 美濃(岐阜県南部)の一部

「【1570年】時点での戦国武将の勢力図・版図」
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます



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「信長・秀吉・家康・政宗」が束になっても「信玄」には勝てない

甲斐国は盆地であったため洪水が多く、当時は耕作に向かない土地柄でした。

そのため「甲斐」はとても貧しく、領主であった「武田信玄」の力も、それほど強くなかったのです。

それにも関わらず信玄は、甲斐国の領主となってから【30年間】の戦いで、領地を大幅に拡大させることに成功しているのです。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・伊達政宗

彼ら戦国時代の名将と呼ばれる人物たちが、たとえ束(たば)になったとしても

武田信玄ひとりに惨敗するだろう

この言葉が誰のものなのかは忘れてしまったのですが、有名な人物が残した言葉だったはずです。

筆者もこの「信長・秀吉・家康・政宗が協力しても、信玄にはかなわない」という言葉を聞いて、「そのとおり」と納得しました。

武田信玄は、戦国時代を制覇した「信長・秀吉・家康」などとは、比べ物にならないほどの強さを誇った「名将の中の名将」だったのです。


「織田信長の領地の石高」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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武田信玄が強かった「4つの理由」

信玄が強かった理由は、4つあると考えられます。

  • 「巧みな兵法」
  • 「騎馬隊などの強力な軍団」
  • 「優れた家臣団」
  • 「情報と忍者を重視」

「勝つ見込みのない戦いはしない」

信玄は「勝つ見込みのない戦いを行わない」武将でした。

逆に言えば、「勝つ見込み(勝ち目)を生み出すことにかけては天才的な人物」だったのです。

信玄が「武田家」の家督を継承し、「武田家のトップ」に就任した直後、それまで同盟を締結していた信濃国の武将「諏訪頼重(すわ よりしげ)」が、信玄を裏切りました。

これに激怒した信玄は、「諏訪頼重」を相手に戦いを開始しようとしました。

しかし、家督を継承した直後で、まったくの準備不足だった武田軍には、少しも勝ち目がありませんでした。

そこで信玄は、「勝ち目」を生み出すために「離間の計(りかんのけい)」を使います。

信玄は「諏訪頼重」の親戚「高遠頼継(たかとお よりつぐ)」を裏切らせて、自分の味方に引き込んだのです。

これにより「諏訪頼重」の力は半減。逆に「信玄」の力は一気に大きくなります。

力の差がありすぎたためか、「諏訪頼重」はその後、ほとんど戦うこともなく信玄に降伏し、切腹させられています。

信玄の戦い方は、基本に忠実です。

「どうやって敵から裏切り者を出させるのか」

ということを徹底的に重視しているのです。

敵の内部分裂(離間の計)を起こさせてから、戦いを開始するという基本を決して外さないのです。



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「孫子の兵法」と「風林火山」

「孫子の兵法」をご存知でしょうか?

戦争は国家の一大事だから、滅亡の可能性や、勝利する可能性など、くれぐれも考え抜いてから、慎重に行いなさい」

という一文から始まる【2500年前】の兵法書。それが「孫子の兵法」です。

その中に「風林火山」という一文があります。

  • 疾きこと風の如く(風のようにすばやく動き)
  • 静かなること林の如く(林のように静かに)
  • 侵略すること火の如く(攻撃するときは火のようにジワジワと、迅速にスキのないように)
  • 動かざること山の如し(山のように焦らずに動かない)

信玄は、現代でも利用されている有名な兵法書「孫子の兵法」の一文であるこの「風林火山」を旗印にしていました。

今でこそ「兵法書の代名詞」のようにいわれている「孫子の兵法」ですが、戦国時代の当時、「孫子の兵法」はそれほど有名ではありませんでした。

戦国時代に有名だった兵法書といえば2つありました。

  • 天才軍師「太公望」が残した兵法書「六韜(りくとう)
  • 天才参謀「張良」の師「黄石公」が残した兵法書「三略(さんりゃく)

ところが信玄は、当時マイナーだった「孫子の兵法」を旗印としたのです。

幼い頃から勉強好きだったという信玄は、「孫子の兵法」の一文を旗印とすることで、敵に自分の強さをアピールしようとしたのでしょう。

「俺はお前達とは違って、六韜と三略だけじゃなく、『孫子の兵法』まで研究しているんだぞ」

というわけです。



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「孫子の兵法」には、こんなことが記されています。

「絶対に勝利できるまで準備を整えてから戦え」

信玄は、この「孫子の兵法」の教えを忠実に守ったのです。

忍者に情報を集めさせたり、敵から裏切り者を出させたり、とにかく事前準備に全力をそそいで、絶対に勝てる状態になってから戦いを開始しました。

数多くの兵法書を研究し尽くしていたことが、「武田信玄」の強さの秘密だったのかもしれません。

信玄の戦い方や兵法は、武田四名臣の一人「高坂昌信」によってまとめられ、「甲陽軍鑑」という書籍となって、現代にも伝えられています。

 

ちなみに、「風林火山」には続きがあります。

  • 知り難きこと影の如く 【影のように密かに】
  • 動くこと雷霆(らいてい)の如し 【動くときは激しい雷のように】

本当は「風林火山影雷」となるはずだったのですが、信玄はそのうち4つのみを厳選し「風林火山」としたようです。


「武田信玄」と「織田信長」についてくわしくは、以下のリンク記事で、解説しております。



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「騎馬隊などの強力な軍団」

武田信玄の軍といえば、戦国最強とよばれた「武田騎馬隊」が有名です。

信玄が支配していた「甲斐」と「信濃」は、山岳地帯であるため、良質な馬の生産地でした。

「甲斐」と「信濃」の人々は、その馬を幼い頃から乗りこなしていたのです。

そんな「甲斐・信濃」の兵士たちによって組織されたのが、日本最強と呼ばれた「武田騎馬隊」。

「甲斐・信濃」は山岳地帯だったので、そこで生まれ育った者たちは足腰が強く、強靭な肉体を誇っていたといいます。

「織田信長」が育った「尾張国」の人々は、木曽川などの河川で船を使って楽な生活していたため、身体が鍛えられず、「尾張国の兵士は弱い」と噂されるほどだったといいます。

それに比べて「武田信玄」の軍団は、心身ともに強く、馬を利用したすばやい移動を得意としていたため、負け知らずだったのです。

名将だらけの「武田家臣団」

武田信玄は、人を見る目に優れており、しかも人材育成の達人でした。

武田家には「武田二十四将(たけだにじゅうししょう)」と呼ばれる、数多くの名将がいました。

その中でも、「武田四名臣」と呼ばれた名将は、今もその名をとどろかせています。

  • 山県昌景(やまがた まさかげ)
  • 馬場信春(ばば のぶはる)
  • 高坂昌信(こうさか まさのぶ)
  • 内藤昌秀(ないとう まさひで)

彼らはもともと、身分の低い武士でした。

しかし信玄にその才能を見いだされて、育てられ、武田家のその後を支える柱となるまでに、成長を遂げたのです。

信玄は「人を育てること」に、とても優れていました。

信玄が強かったのは「人材を育てあげ、優れた家臣団をつくりあげることが得意だったから」という点もあげられるのではないでしょうか。

ちなみに「武田四名臣」のなかでも、「山県昌景」は特に優れていたらしく、信玄が戦うときには、いつも別働隊を任せられていました。

「山県昌景」は武田軍団の精鋭部隊「赤備え(あかぞなえ)」をひきいて、ほとんど負け知らず。

その「赤備え」は、徳川四天王の一人「井伊直政」や、「真田幸村(信繁)」に引き継がれて、戦国時代に活躍しています。


「武田信玄の家臣団」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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信玄は「情報と忍者」を重視

「武田信玄」は情報を重視することで有名な武将でした。

信玄は「三ツ者」や「素破(すっぱ)」と呼ばれる忍者たちに、情報収集をさせていたのです。

信玄は「甲斐」という山の中にいながらも、日本全国の情報に精通していたといいます。

情報を重視することが、どれほど大切なことなのかは、「織田信長」が「今川義元」を討ち果たした「桶狭間の戦い」をみれば、よくわかります。

兵力差「4万」対「3千」という、圧倒的に劣勢だった「織田信長」は、「今川義元」がどこにいるのかを忍者「梁田政綱」に調べさせ、ピンポイントで「今川義元」だけに集中砲火を浴びせかけて、勝利をもぎ取ったのです。

おそらく「織田信長」は、情報を重視する「信玄」の戦い方を参考にしていたのでしょう。

戦国武将『できる男』の意外な結末」という書籍に、「武田信玄」が情報を重視していたことを物語るエピソードが記されています。

1572年】、武田信玄は「浜松城」に籠城する「徳川家康」を攻撃した。

「攻者3倍の法則」といって、城を攻める者は、守る者の3倍の兵力がないと勝利できないという法則がある。

「徳川家康」は「8千」の兵力で籠城したため、信玄は約3倍の「2万5千」をひきいて攻撃しようとした。

ところがここで、新しい情報が入ってきた。

織田軍から「3千」の援軍が徳川軍に加入し、「浜松城」の兵力は「1万1千」になったという。

この情報を得た「武田信玄」は、浜松城攻めの作戦を即座に変更。

家康を城からおびき出すことで、「三方ヶ原の戦い」において大勝利した。

もしも信玄が、「織田の援軍3千人」という情報を知らなかったら、浜松城を無理に攻撃して、敗北していたでしょう。

また「武田信玄」は、領地の「甲斐・信濃」の各地に「狼煙台」を設置して、上杉軍が越後から進軍してきたら、即座に出陣できる体制を整えていたといいます。

情報とは、未来を予測するための重要なツールです。

信玄はその「情報」というものの価値を、誰よりも知り抜いており、そのため「忍者」をつかって最新の情報を次々と収集していたのです。


「桶狭間の戦い」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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「信玄」の強さを「他の戦国武将」と比較してみた

ここでは「武田信玄」と同じ時代を生きた「戦国武将」と、信玄の強さを比較してみました。

「織田信長」と、どちらが強かったの?

結論をいえば、「織田信長」よりも「武田信玄」のほうが、圧倒的に強かったといえます。

さきほど解説した通り、「織田信長」はそれほど強くありません。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

1572年】、「武田信玄」は「西上作戦」と呼ばれる京都への進軍作戦を開始。「織田信長」を追いつめています。

ところが信玄は【1573年】、病死してしまいました。

「信玄」の死によって、「織田信長」は窮地を脱したのです。

「武田信玄」は、生粋の軍人でした。

幼い頃から兵法書を研究し、戦い方を熟知した、例えていうなら「軍団をひきいる将軍」だったのです。

それに対して「織田信長」はというと、軍人というよりも、「経営者」または「商売人」でした。

信長は「信玄」のような戦いの専門家ではなく、それよりも「領地の経営」や「組織改革」や「金儲け」を得意とする「商売人」だったのです。

「軍人」と「商売人」

この両者が戦って、どっちが勝つのか、結果は見えています。

しかし「信長」は、その才能で得た莫大な資金をつかって、「鉄砲」や「鉄甲船」などの最新兵器を次々と導入し、「信玄」もかなわないほどの勢いで、一気に勢力を拡大していきます。

「織田信長」は、その生涯に渡って、徹底的に「武田信玄」を恐れていました。

「武田信玄」が亡くなっても、その息子「武田勝頼」を怖がり続けたほどです。

1582年】、「織田信長」はついに「武田勝頼」を滅ぼします。

その喜び方は、「勝頼の首を足蹴にする」というほどに、異常なものだったようです。

「武田家」が滅びたことで、「信長」は油断します。

武田家が滅びた3ヶ月後、信長は護衛をほとんど連れていない状態で、京都「本能寺」に宿泊。

そこで部下の「明智光秀」に裏切られて、命を落とすこととなるのです。

おそらく20年以上も気を使い続けた宿敵「武田信玄・勝頼」が亡くなったことで、気が緩んだのでしょう。

歴史家「磯田道史」先生は、この「信長」の油断を厳しく指摘しています。

「織田信長は大したことない!!

こんなところで油断するなんて!!」

それほど信長は「武田信玄」を怖がっていたのです。


「武田信玄」と「織田信長」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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「上杉謙信」と、どっちが強かったの?

「武田信玄の強さ」について長々と解説しておきながらなんですが、結論からいえば「武田信玄」よりも「上杉謙信」のほうが強かったと、筆者は思っています。

「上杉謙信」といえば、「武田信玄」と「川中島の戦い」で5回も戦った名将です。

《上杉謙信》
「引用元ウィキペディアより」
画像をクリックすると拡大できます

「上杉謙信」の生涯戦績は、諸説あるものの

「70戦43勝2敗25分」

といわれています。

戦績だけみれば、「武田信玄」と互角でしょう。

「第四次・川中島の戦い」をご存知でしょうか?

1561年】におこなわれた戦国時代屈指の激戦です。

この戦いは「引き分け」といわれています。

しかし「信玄」はこの戦いで、圧倒的に有利だったにも関わらず、「上杉謙信」から勝利を奪えなかったのです。

この戦いでの両者の軍勢は、以下のとおりです。

  • 武田軍「2万」
  • 上杉軍「1万3千」


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そして、両者が本陣をおいた位置にも違いがありました。

  • 武田軍の本陣は、「海津城」という城の中
  • 上杉軍の本陣は、敵地のど真ん中にあった「妻女山」という山頂

謙信は敵を誘い出すために、「妻女山」という敵地のど真ん中に本陣をおいたのです。自殺行為です。

さらに謙信は、このとき全力を出してはいませんでした。

なんと「上杉軍」の本隊である「2万人」の軍団を、本拠地である越後国「春日山城」においてきていたのです。

謙信は別働隊の「1万3千」のみを連れて、武田信玄と対したのです。

これも「自分をわざと不利な状況に置くことで、敵を誘い出す」という、謙信による命がけの罠でした。

  • 「謙信が、自分たちよりも圧倒的に少ない【1万3千】の軍団しか連れてきていない」
  • 「敵が、自分たちの領地のど真ん中にある『妻女山』という不利な位置に、わざわざ陣取ってくれている」

これほどの好条件であったにも関わらず、武田信玄は「謙信」を相手にして「引き分け」に持ち込まれたのです。

「第四次川中島の戦い」の結果は、両者とも「3千~4千」の死傷者を出しています。

ところが武田信玄はこの戦いで、名将とよばれていた弟「武田信繁」と、軍師「山本勘助」を失っています。

それに対して「上杉謙信」は、この戦いで有名な武将をまったく失っていません。

戦いの結果、武田信玄は「川中島」周辺の支配権を獲得したものの、「北信濃へのさらなる侵略」と、「日本海への到達」という夢は絶たれてしまいました。



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ちなみに、この戦いは「謙信の罠だった」という説もあります。

どういうことかというと、謙信は本拠地「越後・春日山城」に、主力軍「2万人」を残していました。

これは「武田信玄」からすれば、悪夢でした。

なぜなら、謙信がひきいた別働隊「1万3千」が、信玄がひきいる武田軍の本隊「2万」をひきつけている間に、上杉軍本隊「2万」が信玄の本拠地「甲斐国」を攻撃してしまう可能性があったからです。

「第四次・川中島の戦い」ですが、実は始まった当初から、「武田信玄」はすでに「上杉謙信」の罠にひっかかっていたのです。

ところが、ここから「信玄」のねばりが光ります。

信玄は、戦いの天才「上杉謙信」を相手にして、なんとか「引き分け」に持ち込み、「謙信」を撤退させます。

そうすることで、謙信の作戦を封じこめたのです。

「第四次・川中島の戦い」は、「引き分け」といわれています。

しかし戦略・戦術ともに「上杉謙信」のほうが上回っていたと、筆者は思っています。

それを「信玄」が、なんとか「引き分け」へ持ち込んだというのが、真相なのではないでしょうか。

余談ですが、日経大学の「海上知明」先生は著書のなかで、上杉謙信のことを

「世界史上最強の武将」

と呼んでいます。

逆にいえば「武田信玄」は、「世界史上最強の武将」とまで評価された「上杉謙信」と引き分けるほどの名将だった、とも言えます。

憲政史研究家「倉山満」先生は、こんなことをおっしゃっておられます。

「あの【上杉謙信】を相手にして、たった2倍の兵力しかなかったのに、「第四次・川中島の戦い」で、引き分けに持ち込んだ【武田信玄】はスゴイ」

筆者もそう思っています。

「上杉謙信は、世界の歴史を見渡しても、誰もかなわないほどに、あまりにも強すぎた。

そんな上杉謙信と互角に戦った武田信玄はスゴイ」

というわけです。


「上杉謙信の強さ」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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『武田信玄』について「ひとこと」いいたい

「武田信玄が病死しなかったら、天下が取れていた」と、よくいわれます。

はたして本当にそうなのでしょうか?

病死しなかったら、信玄は信長に勝利できていたのでしょうか?

信玄はたしかに強かったです。

「織田信長」と戦っていたら、間違いなく「信玄」が勝利していたでしょう。

しかし「天下」が取れていたかというと、それはかなり難しかったと思います。

信長は、当時最大の貿易港だった「堺」という地を支配していました。

鉄砲の生産が盛んで、鉄砲を撃つために必要な黒色火薬の原料である「硝石(しょうせき)」の輸入港だった「堺」は、信長の支配下にあったのです。

それに対して、信玄の領地「甲斐」は山国で、鉄砲や硝石を手に入れることが難しい状況でした。



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もしも「信玄」が京都を支配したとしても、信長がその豊富な資金で長期戦をおこなっていたら、どうなっていたでしょうか?

鉄砲を駆使して「信玄」を相手にゲリラ戦などで戦っていたら、「信玄」も京都を長く支配することはできなかったと思います。

信長が次々と勝利できた理由は、戦争に強かったからではありません。

その豊富な資金で最新兵器を次々と導入できたから、だと思います。

信長の「物量作戦」を相手にしては、名将「武田信玄」といえども勝利を重ねることは難しいでしょう。

一度や二度は勝利できたとしても、全勝は難しいです。

そして資金や物資の乏しい信玄は、一度の敗北が命取りとなるのです。

連戦連勝の「武田信玄」でしたが、実は「一度も負けるわけにはいかなかった」という事情があったのです。

「信玄」が天下を取れたかどうか・・・。

筆者は、「信玄の天下取りは、かなり難しかった」と思っています。

東京大学の教授「本郷和人」先生が、こんなことを言っています。

「織田信長は堺という貿易港を支配していたため、鉄砲や火薬を大量に手に入れることができた。

しかし信玄は鉄砲・火薬などの最新兵器を手に入れられなかったため、信長を相手にしても勝てなかったのではないか」

一回限りの戦いでならば、信玄が勝利する可能性が高いと思いますが、長期戦となると物資が豊富な信長のほうが有利かもしれません。

強いだけでは、天下は取れないのです。


「織田信長の強さの秘密」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「武田信玄」は、本当に強かったのか?

武田信玄」は、本当に強かった。戦国の覇者「織田信長」を恐れさせ、野戦の達人と呼ばれた「徳川家康」に完勝してしまったほど。その強さは、戦国時代トップクラスだった。

 

2,「武田信玄の強さ」は、どれくらいのものだったのか?

「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・伊達政宗などが、束になったとしても、武田信玄にはかなわない」といわれるほど、信玄は強かったと考えられる

 

3,「武田信玄」が「強かった理由・強さの秘密」とは何か?

信玄の強さの理由は、「勝つ見込みのない戦いをしないという姿勢」、「孫子の兵法を熟知していたこと」、「騎馬隊に代表される強力な軍団」、「優れた武田家臣団」、「情報と忍者を重視したことなどがあげられる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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よろしければ、以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


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