この記事では「お化粧」に「お歯黒」と、まるでお公家さんのような格好をしていた武将「今川義元」について、「お公家さんだったのか?」という点を、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「なぜ今川義元が、お公家さんのようにお化粧をして、お歯黒をしていたのか」を、カンタンに理解できます。
「今川義元」は「自らが高い身分にいることを自慢するために、お公家さんの格好をしていただけ」なのです。
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この記事を短く言うと
1,今川義元が「お公家さんのように、お化粧・お歯黒をしていた理由」は、「自らが、とても身分の高い家柄であることを自慢するため」だった
2,今川義元は「お公家さんのような格好」をしていたが、お公家さんではなく、名門の武家出身。武士のトップ「足利家」の分家であり、伝説の武将「源義家」の末裔。
今川義元は、なぜ「お化粧」と「お歯黒」をしていたのか?
「今川義元」が「お化粧」や「お歯黒」をしていた理由は、簡単に言ってしまうと「自分の実家である今川家が、身分の高い家柄であることを自慢するため」です。
今川義元は、「守護大名」と呼ばれる「国主」の家柄よりも、さらに上の身分にいました。
今川家は、通常の「一国の守護大名」とは違って、「駿河(静岡県中央部)」と「遠江(静岡県西部))」という、2カ国を領有する「名家中の名家」だったのです。
- 「駿府」
- 「山口」
- 「一乗谷」
当時これら三都市は「京都のようだ」と言われるほどに、豊かで栄華を極めた大都市だったのです。
義元は本拠地「駿府(すんぷ・静岡市)」に住み、戦乱が起こった京都から逃げてきた「お公家さん達」を保護していました。
自らの栄華を誇るために、義元は「お公家さんたち」をマネして、「お化粧」をして「お歯黒」もして、「自分がとても高貴な身分・家柄であること」をアピールしたと考えられています。
「奥州平泉」
今川義元が生きた「戦国時代」よりも、約【350年】ほど前に、「岩手県平泉市」に存在していた都市が「奥州平泉」です。
「奥州藤原氏」に支配されていた、この「奥州平泉」は、京都にも負けない大都市が存在していました。
そこでは京都をマネして「京都の方言」が使われて、「お公家さんの衣装」が使用されていたという説があります。
今川義元も、自らの身分の高さと、本拠地「駿府」の栄華を自慢するために、「化粧」をして「京言葉」を使っていたのでしょう。
今川義元は「お公家さん」だったのか?
「今川義元」は「お公家さん」ではありません。生粋の「武士」であり、「武家の名門中の名門」の出身です。
今川義元が生まれた「今川家」は、「武家の棟梁」つまり「武士たちのトップ」だった「足利家」の分家でした。
「足利家」とは、室町幕府をつくった征夷大将軍「足利尊氏」の末裔の家です。
「征夷大将軍」・・・「武士たちのトップ」を意味する当時最高の称号です。
今川義元は、この「征夷大将軍」を代々引き継いでいた名門「足利家」の分家「今川家」という名門の当主だったのです。
「足利家」という「武家のトップ」の分家ですから、「お公家さん」なはずがありません。
とはいえ、今川義元の母「寿桂尼(じゅけいに)」は、「中大兄皇子(天智天皇)」とともに「大化の改新」をおこなった「中臣鎌足」の末裔です。
「寿桂尼」は、「中臣鎌足」の血を引く「藤原北家」の末裔「中御門(なかみかど)家」の出身なのです。
そのため、「今川義元」にも「名門のお公家さん」の血が流れています。
ちなみに、今川義元の義弟である「武田信玄」の妻「三条の方」も、「藤原北家」の末裔であり、名門のお公家さん「三条家」の出身です。
今川義元の【先祖】は、「伝説の名将」だった
「今川義元」のご先祖様は、「八幡太郎義家」と呼ばれて崇拝された伝説の名将「源義家」です。
「源義家」とは、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」や、その弟「源義経」の曽祖父にあたる人。つまりは「頼朝・義経」兄弟の「おじいさんのおじいさん」です。
東北地方で起こった戦い「後三年の役」で活躍したのが「源義家」なのです。
「源為義(みなもとのためよし)」
この「源為義」とは、「源義家」の孫であり、「源頼朝」の祖父です。
【2012年】の大河ドラマ「平清盛」で、俳優の「小日向文世」さんが「源為義」を演じていましたが、そのセリフの中で「祖父・源義家」という名前を口にして、自慢していました。
「源為義」が生きていた「平安時代末期」の当時から、「源義家の子孫」であることは、かなりのステータスだったということです。
今川義元も、「源義家」の末裔であることと、武士のトップだった「足利家」の分家であることを誇りとして、自慢していたのです。
余談ですが、今川義元の子孫には「有名人」がいます。
あの「忠臣蔵」で「大石内蔵助」に討ち取られた悪役「吉良上野介」は、今川義元の子孫にあたる人物なのです。
「今川義元」の「子孫」については、以下のリンク記事で解説しています。
今川義元が亡くなったその後!「今川家」はどうなったのか?
名門中の名門「今川家」は、「今川義元」が亡くなった9年後の【1569年】に、「徳川家康」と「武田信玄」の連合軍によって滅ぼされています。
「滅ぼされた」といっても、戦国大名としての「今川家」が滅びただけです。
「今川家」そのものが無くなったわけではありません。
義元の息子「今川氏真(うじざね)」は、その後【1615年】まで生き続けています
「桶狭間の戦い」
【1560年】に、「今川義元」は「織田信長」によって、「桶狭間の戦い」で討ち取られています。
この戦いから、名門「今川家」は没落し始めたのです。
その後、名門「今川家」が、当時のような力を取り戻すことはありませんでした。
今川家の滅亡後、「今川氏真」は、今川家を滅ぼした「徳川家康」によって保護され、「江戸幕府」で「高家」という高い身分を与えられました。
「今川家」は【1868年】の明治維新まで存続し、今川家の本家は、明治維新の直後に断絶しています。
とはいえ、今川家の分家は、現在でも各地に子孫を残しています。
どうやら「今川義元」の命日には、子孫の方々が法要に参列したり、お供え物をしたりしているようです。
「今川義元」の「お墓の場所」について、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
以上となります。
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ありがとうございました。
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