嘉納治五郎はオリンピック招致に成功していた!幻の1940年東京五輪とは

「嘉納治五郎」と「オリンピック」の関係が、すぐにわかる記事をご用意いたしました。

実は「1940年」開催予定の「東京オリンピック」招致に成功していたのです!

しかし、東京オリンピックは中止となり、開催されていません。

「1940年東京オリンピック」はなぜ中止されたのでしょうか?


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この記事を短く言うと

  1. 嘉納治五郎先生は、アジア初の「国際オリンピック委員」。
  2. 嘉納先生は、「1940年東京オリンピック」の招致に成功していたが、死の2ヶ月後に中止された
  3. 中止となった「東京オリンピック」は、「田畑政治」らの活躍により、戦後19年「1964年大会」で実現した

嘉納治五郎とオリンピックの関係

嘉納治五郎(かのう じごろう)

≪嘉納治五郎≫
「引用元ウィキペディアより」

「柔道の父」「日本の体育の父」と呼ばれた「嘉納治五郎」先生と、「オリンピック」は、どういう関係なのでしょうか?
一言でいってしまうと、「嘉納治五郎」先生は、「IOC(国際オリンピック委員会)」の委員を務めたお方。そして「東京」で「オリンピック」を開催するという夢を実現した人物です。
嘉納治五郎先生が、「オリンピック」に対して残した功績を、短く解説いたしますと、こんな感じです。

 

・1909年、アジアではじめての「IOC(国際オリンピック委員会)」の委員になる

・1912年、日本人が始めて参加したオリンピック「ストックホルム大会」に、「金栗四三」「三島弥彦」を率いて日本選手団団長として参加した。

・1936年、IOC総会で、「1940年開催の東京オリンピック」招致に成功した

 

嘉納治五郎先生・・・実は「1940年開催」の「東京オリンピック」を、招致することに成功していたのです。


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実はオリンピック招致に成功していた!幻の1940年大会!

東京オリンピックは「1964年(昭和39年)」、戦後19年で開催されています。
しかし実は、その24年前、「1940年」にも、「東京オリンピック」が開催されるはずだったのです。

開催の権利を返上・・・・。1940年に招致に成功していた「東京オリンピック」は、結局開催されることはありませんでした。その理由は「日中戦争」。中華民国との間で「支那事変」が起こり、その後「日中戦争」が激化。そのため、オリンピックどころではなくなり、日本は開催する権利をIOCに返上したのでした。

この「1940年東京オリンピック」を実現するために奔走したのが「嘉納治五郎」先生。

嘉納治五郎先生は、開催地を決定する投票の直前、スピーチで

「日本が遠いという理由で、オリンピックが来ないのならば、日本がヨーロッパのオリンピックに出る必要はない」

と演説しています。

これにより、「東京36票」「ヘルシンキ27票」で、1940年大会は「東京」に決定。あわせて1940年札幌オリンピックも決定。

しかし結局「東京」は権利を返上して、「ヘルシンキ」に権利を譲ることになります。そのヘルシンキもまた、「第二次世界大戦」の激化で、オリンピック開催ができず、中止に追い込まれています。


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1964年東京オリンピック招致!田畑政治が引き継いだ夢

嘉納治五郎先生は、「東京オリンピック」開催の2年前、1938年5月に「エジプト・カイロ」から帰国する船の中で病死なさいます。横浜港に上陸した嘉納先生の棺には、「五輪旗」がかけられていました。

嘉納先生は、カイロで「1940年東京オリンピック」の開催を確認していたのです。

しかし、結局戦争は激化。嘉納治五郎先生が亡くなられた2ヶ月後に「東京オリンピック中止」を閣議決定。

その後「朝日新聞」の社員で、日本水泳の監督でもあった「田畑政治(たばた まさじ)」さんが、嘉納治五郎先生の意志を継ぎ、東京オリンピック招致を目指します。

その甲斐あって、日本は戦後わずか19年「1964年」に、「東京オリンピック」の招致に成功するのでした。


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『嘉納治五郎』先生について「ひとこと」言いたい!

嘉納治五郎先生といえば、「柔道」を創始した「格闘家」というイメージが強いと思います。
しかし嘉納先生は、「格闘家」としてよりも「教育者」としてのほうが有名ですし、実績もたくさん残しておられるのです。

東京高等師範学校(現在の筑波大学)で、合計25年も「校長」を務めています。

オリンピックへの日本参加を推し進めたのも嘉納治五郎先生です。

教え子であった「金栗四三」が、世界に通用する「マラソンランナー」を育成するためにたちあげたお正月の風物詩「箱根駅伝」・・・・その第一回大会には、嘉納先生がかつて校長を務めていた「東京高等師範学校」が参加していました。

そして昭和の終わり頃まで「筑波大学」と名を変えても参加を続けています。

そこにはもしかしたら、教え子「金栗四三」が志した「世界に通用するマラソンランナーの育成」を後押ししようと、今は亡き「嘉納治五郎」先生の意志が働いていたのかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 嘉納先生とオリンピックの関係は、嘉納先生がアジア初の「国際オリンピック委員」になったことから始まっている
  2. 嘉納先生は、1940年東京オリンピックの招致に成功していたが、後に開催する権利を返上している
  3. 嘉納先生の死後2ヶ月で、オリンピックは中止となっているが、田畑政治の活躍により、1964年東京オリンピックは実現した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「嘉納治五郎の生涯年表と経歴をわかりやすく解説!実は東大出身だった」の記事はコチラ
「【嘉納治五郎とは】その功績をわかりやすく解説!何をした人なの?」の記事はコチラ
「嘉納治五郎の子孫を家系図の画像つき解説!子も孫も柔道の達人だった」の記事はコチラ

 

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