「柔道の父」こと「嘉納治五郎(かのう じごろう)」の【功績】が、この記事ですぐわかる!
実は「嘉納治五郎」先生、「柔道」を創始した「格闘家」というだけではなかった!
「日本の体育の父」と呼ばれ、日本選手団のオリンピック初参加を実現させた人物!
嘉納治五郎先生がいなかったら、北京・リオでの「銀メダル」はなかった
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 嘉納治五郎先生は、「柔道を生み出した」だけではなく、「日本アスリート界」を育て上げたまさに「日本体育の父」
- 嘉納先生がいなかったら、今の日本スポーツ界はなかっただろう
- 嘉納治五郎先生は、批判や敗北を恐れず、挑戦し続けることで、次の世代による栄光を支えた
嘉納治五郎の功績を、短くで解説
嘉納治五郎(かのう じごろう)
「柔道の父」と呼ばれている「嘉納治五郎」先生。
その功績を短く解説いたしますと、以下の通りです。
・「柔道」という格闘技を生み出した
・講道館を設立した
・教育者として、数々の人材を育成した
・東京高等師範学校(現・筑波大学)、哲学館(現・東洋大学)で、校長や講師を務めた
・「灘中学校・高校」「弘文館」「弘文学院」などの設立に尽力した。
・東洋で最初の「IOC(国際オリンピック委員会)」の委員となった。
・日本の「オリンピック参加」を実現した。(嘉納治五郎先生は、ストックホルムオリンピックの日本選手団団長)
・幻に終わった「1940年東京オリンピック」の招致に成功した。(戦争激化で開催の権利は返上された)
これらは、ほんの一部にすぎません。
嘉納治五郎先生の功績は、その他にも数限りなく存在するのです。
「嘉納治五郎」先生の「子孫」と「家系図」について、よろしければ以下のリンクをご利用くださいませ。
「柔道の父」だけでなく、「日本の体育の父」だった
「嘉納治五郎」先生というと、「講道館」を設立し、「柔道」を生み出した「格闘家」というイメージがあるかもしれません。
しかし、その最大の功績は「日本スポーツ界を育て上げたこと」なのではないでしょうか。
東洋初の「IOC委員」となり、「三島弥彦」や、教え子の「金栗四三」を「ストックホルムオリンピック」に参加させた功績は、その後の日本のオリンピックでの功績を支える、まさに「開拓者」としての偉大なものです。
確かに「三島弥彦」「金栗四三」ともに、「ストックホルムオリンピック」で結果を出すことはできませんでした。
しかし、その「チャレンジ精神」は、弟子「金栗四三」に引き継がれ、金栗にあこがれてマラソンを始めた「円谷幸吉」は、1964年東京オリンピックのマラソンで、見事に「銅メダル」を獲得しています。
嘉納治五郎の「強さ」とは?最強説を検証
「柔道の父」と呼ばれた嘉納治五郎先生。
柔道家・格闘家としてのその「強さ」は、果たしてどれほどのものだったのか、気になるところです。
結論からいえば、柔道家・格闘家としての強さでいえば、現在の「柔道金メダリスト」に比べたら、それほどではないと思います。
「柔道の父」といわれると、思わず「なでるように人を投げ飛ばす」感じの「達人」や「神業」を思い浮かべてしまいます。しかし現実的に考えて、「嘉納治五郎・最強説」はありえないと思います。
とはいえ、当時から嘉納治五郎先生の技術が優れたものであるということは、誰もが知っていたと考えられます。
実は「嘉納治五郎」先生には、ある船に乗っていた時、現役軍人である「ロシア人」に戦いを挑まれ、投げ飛ばした・・・という逸話があるのです。
嘉納治五郎先生の身長は「158cm」弱という、極めて小柄なもの。体重はおそらく「60kg」前後だったでしょう。
大柄なロシアの現役軍人を投げ飛ばしたということは、かなりの技術を持っていたということです。
その神業は、当時から尊敬を集め、恐れられていたことがうかがえますね。
ただ、「格闘家としての強さ」や「柔道の強さ」で言ったら、弟子の「西郷四郎」や「横山作次郎」たち「講道館四天王」や、グレイシー柔術の師「前田光世」、柔道の神「三船久蔵」のほうが上なのではないでしょうか。
教育者として多くの功績を残した「嘉納治五郎」先生。自分を強くするよりも、弟子たちを強くする技術のほうが、優れていたのではないでしょうか。そうでなくては、これほど柔道が普及するはずがありません。弟子たちを大切に育て、自分自身を超えさせたからこそ、弟子たちにより柔道が世界に普及したのでしょう。
嘉納治五郎がいなかったら、どうなっていた?
もしも「嘉納治五郎」先生がいなかったら、どうなっていたでしょうか?
当然ですが、「金栗四三」と「三島弥彦」による「ストックホルムオリンピック」参加はありえません。
そのため、彼らのあとに続く競技者は、生まれていなかったかもしれません。
日本の短距離は、欧米選手には勝てない・・・・と長く言われ続けてきました。しかし、三島弥彦が「1912ストックホルムオリンピック」で惨敗してから約100年。「2008北京」と「2016リオデジャネイロ」の「4×100mリレー」で、日本は見事に「銀メダル」を獲得しています。
三島弥彦というパイオニア(開拓者)を、嘉納治五郎先生がストックホルムに送り出していなかったら、100年後のこの栄光はありえません。
また、嘉納治五郎先生は、幻に終わった「1940東京オリンピック」の招致にも成功しています。
この招致成功がなかったら、田畑政治が成し遂げた「1964東京オリンピック」の招致や、「2020東京オリンピック」もなかったでしょう。
もちろん、柔道が「オリンピック競技」となることもなかったはずです。それ以前に「柔道」が生まれていません。
ざっと見てみても、嘉納治五郎先生の功績が、いかに偉大であるかがわかります。
嘉納治五郎先生は、批判を浴びようとも、強い意志をもって、「日本スポーツ界の開拓者」となったのです。
嘉納治五郎先生が、招致に成功していた「1940年・東京オリンピック」について、以下のリンク記事で解説いたします。
『嘉納治五郎』先生について「ひとこと」言いたい!
嘉納治五郎先生は、東京高等師範学校の生徒であった「金栗四三」に対して
「黎明の鐘(れいめいのかね)となってくれ」
と言って、ストックホルムオリンピックのマラソン参加を要請しています。
「黎明の鐘(れいめいのかね)」とは、物事の始まりを示す鐘のことです。
先程も申しましたが、嘉納治五郎先生は周囲からの批判を恐れることなく、積極的に「オリンピックへの参加」を推し進めています。
自らが弟子に教えた「黎明の鐘」に、嘉納治五郎先生自身もなっているのです。
ストックホルムオリンピックでは、参加した教え子「金栗四三」も、「三島弥彦」も、惨敗しました。
しかし、嘉納先生は金栗や三島を、ただの一言も責めることはありませんでした。
「お前たち二人が、それぞれの種目で敗れたからといって、日本人が弱いということではない。
君たちにはまだまだ将来がある。
しっかりやるんだぞ」
と、笑顔で語り、かえって二人を励ましたといいます。
惨敗という結果を受けて、嘉納治五郎先生への批判が凄まじいものであったことは、想像にかたくありません。
そして、その「惨敗」という結果を、嘉納治五郎先生は、早くから予想していました。オリンピック参加を嫌がる「金栗四三」に対し、嘉納先生は
「日本の勝利は難しい。」
と言っているのですから。
嘉納先生はそれでも、惨敗が後の日本の栄光につながると、信じていました。
批判と敗北を恐れず、立ち向かった嘉納治五郎先生。
「柔道の父」と呼ばれて讃えられていますが、それにとどまらず、やはり「日本体育の父」という言葉がふさわしい、まさに「先駆者」であったとおもいます。
嘉納治五郎先生が残された「名言」について、以下のリンク記事で解説させていただきます。よろしければお役立てくださいませ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 嘉納治五郎先生は、「柔道を生み出した」だけではなく、日本のスポーツ会を成長させた、まさに「日本体育の父」
- 嘉納先生がいなかったら、今の日本スポーツ界はないし、東京オリンピックもなかった
- 失敗や敗北を恐れずに挑戦したからこそ、日本は成長し、スポーツで結果を出すことができた
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「嘉納治五郎」関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
これらの記事でも「嘉納治五郎」の「逸話」や「功績」を簡単に理解できるように、極めてわかりやすく解説させていただいております。
コメント