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【新渡戸稲造とはどんな人?】その生涯と最期を世界一わかりやすく解説

かつて五千円札の肖像画だった作家「新渡戸稲造」の生涯と最期が、この記事だけですぐわかる!

作家であり、教育者でもあった「新渡戸稲造」。

国際連盟・事務次長」や「大学教授」をつとめた新渡戸。

何より最大の功績は、世界的大ベストセラー「武士道」を記して、日本を世界に知らしめたことでしょう。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

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この記事を短く言うと

  1. 「新渡戸稲造」とは、「教育者」「作家」であり、世界的なベストセラー「武士道」を書いた人物
  2. 「新渡戸稲造」は、1862年「盛岡市」で誕生し、1933年にカナダの都市「ビクトリア」で亡くなった
  3. 「新渡戸」は、札幌農学校(現在の北海道大学)を卒業し、アメリカへ留学。その後、数々の教育機関につとめ、ついには「国際連盟」の「事務次長」をつとめた
  4. 「武士道」という本は、日本人の「道徳」と「価値観」がどのようなものであるかを、わかりやすく解説したものである

新渡戸稲造とは何をした人?世界的大ベストセラー作家だった

新渡戸稲造(にとべ いなぞう)

《新渡戸 稲造》
「引用元ウィキペディアより」

言わずとしれた「5000円札」の肖像画となっていたお方ですね。

そんな新渡戸稲造は、いったいなにをした人なのか。それ短く解説すると、以下の通りとなります。

・教育者として、数々の学校で「教授」などをつとめた。

・「武士道」という書籍を英語で出版し、ベストセラーとなった。「武士道」はその後世界中で読まれることとなる。

・「国際連盟」の「事務次長」をつとめ、世界平和に貢献した。

何よりも大きな功績は、名著「武士道」を生みだし、世界中に「日本人とは何か」を知らしめたことです。

「武士道」とはどういう本なのか・・・。短くカンタンに説明すると

「日本人が、どのような価値観をもっているのか」

を「シェイクスピア」「ユリウス・カエサル」「アリストテレス」「ソクラテス」などの世界中で知られた有名人を例にあげて、わかりやすく解説している本なのです。

「日本人の価値観」・・・・「日本人は何を尊んでいるのか」・・・それを外国人向けに解説した本が「武士道」なのです。この本は当初「英語」で出版され、のちに「日本語」でも出版されるようになりました。



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生涯と最期

新渡戸稲造の「生涯」を、年表で簡単に「かいせつ」いたします。

 

1862年(文久2年)南部・盛岡藩の藩都であった「盛岡」で誕生。父親は「盛岡藩・南部家」の勘定奉行「新渡戸十次郎」。母は「せき」。祖父は「三本木原(現在の青森県十和田市)」の開発に力をつくした「新渡戸傳(にとべ つとう)」。

1871年(明治4年)叔父「太田時敏」の養子となって上京。敬愛していた母「せき」とは、このときが永遠の別れとなる

1873年(明治6年)「東京外国語学校・英語科」に入学

1877年(明治10年)叔父「太田時敏」が、資金援助できなくなったため、衣食住が保証されていた「札幌農学校(のちの北海道大学)」に入学。

「札幌農学校」を卒業後、東京大学へ進学。

1880年(明治13年)稲造が敬愛していた母「せき」が亡くなる。

1882年(明治15年)農商務省につとめる。

同年11月、「札幌農学校」の「予科」教授となる



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1884年(明治17年)「渡米」・・・「ジョンズ・ホプキンス大学」へ入学

1886年(明治19年)のちに妻となる「メアリー・エルキントン」と出会う

1889年(明治22年)「 ジョンズ・ホプキンス大学」名誉文学士号を授与される

1891年(明治24年)「メアリー・エルキントン(日本名・萬里子)」と結婚。

同年、帰国して「札幌農学校」の教授に就任

1897年(明治30年)札幌農学校を退職

1900年(明治33年)『武士道』を英語で出版。「ブシドー・ザ ソウル オブ ジャパン」

1901年(明治34年)「台湾総督府」の民政部「殖産局長心得」に就任する

1903年(明治36年)「京都帝国大学」法科大学教授に就任する

1906年(明治39年)「第一高等学校」の校長に就任

同年、「東京帝国大学」の農科大学教授にも就任



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1916年(大正5年)「東京植民貿易語学校」の校長に就任

1917年(大正6年)「拓殖大学」の学監に就任

1918年(大正7年)「東京女子大学」の初代学長に就任

1920年(大正9年)「国際連盟」の事務次長に就任(国連設立のときに、「武士道」の作者であり、当時から世界的に有名だった「新渡戸稲造」が選ばれた)

1926年(大正15年)「国際連盟」の事務次長を退任

同年 貴族院議員に就任

1928年(昭和3年)「東京女子経済専門学校」の初代校長に就任

1929年(昭和4年)「拓殖大学」の名誉教授に就任

1933年(昭和8年)「カナダ」の「バンフ」で開かれた「太平洋会議」に出席

同年10月15日午後8時30分頃、カナダ「ビクトリア」市で亡くなる。死因は「出血性脾臓炎」

享年71歳。

新渡戸稲造の最期の地「ビクトリア市」と、故郷「盛岡市」は、現在「姉妹都市」の関係になっています。



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新渡戸稲造の家系図と子孫!

新渡戸稲造の子孫は、今も続いているのでしょうか?

「新渡戸稲造」と妻「メアリー」の間に生まれた息子「遠益(とおます)」は、幼くして亡くなっています。その他に実子はいないため、二人の直径子孫は存在しない事となります。

ただ、とあるアイドルさんが、新渡戸稲造の系列であることがわかりました。

以下に家系図をご用意いたしましたので、ご覧くださいませ。

《新渡戸稲造の家系図》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

新渡戸稲造とメアリーは、「遠益」が亡くなったあと、姉の息子「孝夫」と、姉の孫「こと」を養子に迎えています。



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新渡戸稲造とメアリーの養子「孝夫」と「こと」によって、その子孫が今も続いています。息子「新渡戸彰敏(別名・新渡戸誠)」さんは「英語学者」として活躍。

「武子」さんと「英倫」さんには「幸子」さんというお嬢様がおられます。

稲造の姉の子孫が「グラビアアイドル」として活動をしておられたようです。彼女の名前は「アクア新渡戸」さん。彼女は結婚後、2018年にはお嬢様を出産されたということですから、新渡戸稲造と同じ系列の末裔が、1人ふえたということになります。

稲造の父「十次郎」も祖父「傳(つとう)」も、「青森県東部」の開発に力をつくして名を残した人物。

青森県では、孫「稲造」よりも、祖父「傳」さんや父「十次郎」さんのほうが有名になっています。



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『新渡戸稲造』について「ひとこと」言いたい!

新渡戸稲造の最大の功績といえば「武士道」を記したことでしょう。

この「武士道」を読んだアメリカ大統領「・ルーズベルト」は、日本人に好感を持ち、「日露戦争」のときに、日本とロシアの講和を仲裁。日本の勝利をアシストしたと言われています。

「我、願わくば太平洋の架け橋とならん」

これは新渡戸稲造は残した言葉ですが、その言葉通り、彼は日本とアメリカの間をつなげる、強力なパイプとなったと言えるでしょう。

日本が外相「松岡洋右」によって「国際連盟」を脱退し、アメリカと関係が悪化したとき、新渡戸稲造は必死に関係修復にかけまわっています。

国際連盟の事務次長をつとめていた「新渡戸稲造」。祖国「日本」が国際連盟を脱退したことは、新渡戸にとっては痛恨事でした。

国際連盟を脱退した約半年後、新渡戸稲造はカナダで病死します。新渡戸が亡くなった8年後、日本はアメリカと開戦。彼が望んだ「平和の架け橋」とは全く逆方向へ、日本とアメリカは向かうこととなってしまうのです。



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新渡戸稲造が記した「武士道」に話を戻しましょう。

新渡戸稲造は著書「武士道」のなかで

「武士道の精神は、衰退してしまった」

と言って、悲しんでいます。しかし、それと同時に

「武士道の精神を守り、そしてその精神にしたがい、人生に応用していくことが、我々『武士』の末裔に残された使命である」

とも言っています。

新渡戸稲造が「武士道」を記してから、100年以上が経過しました。

果たして今、日本人に「武士道精神」は残されているのでしょうか?

残念ながら、その99%が衰退してしまったと言わざるを得ないでしょう。

周辺諸国から、戦後70年を経過してなお「敗戦国」であることを理由に「反省」と「謝罪」を求められつづけ、その求めに応じてもなお「誠意が足りない」と言われて、世界に「日本は非道な国である」と広められ続けても、なにもできずにただただ「遺憾」と繰り返すのみ。

もしも日本人に「武士道の精神」が生きているのならば、「名誉」を傷つけられて、黙っていられるはずがないのです。「名誉」とは、新渡戸稲造が著書「武士道」のなかで「この世で最高の善」と断言したものです。

しかし日本人は押し黙ったまま、何の抵抗もできず、戦勝国「アメリカ」に与えられた「憲法9条」という「あしかせ」を、大事に守りつづけ、抵抗する力をみずから放棄する始末。「憲法」をあたえたアメリカですら、70年もの間、一文字も憲法をかえない日本に、なかば呆れているのが現実です。

これでは『武士道の精神』など、残っているとはお世辞にもいえないでしょう。



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しかしインターネットが普及し、手に入れられる情報量が爆発的に増えたおかげで、日本人の知識量はかつてないほど増大しました。そのため日本がいかに誇りを失ってしまったのかを痛感し、集団で声を挙げるようになっています。そんな日本人は徐々に、誇り・意地を取り戻しつつあると言えるのではないでしょうか。

「憲法9条を守れ」という意見に「おかしい」という異論をたたきつけ、みずからの「血」と『力』で、国土国民を守ろうとする意志を、最近の日本人は示しはじめたと言っていいと思います。

異常な国々にまわりを囲まれた日本ですが、おそらく「自前の軍隊」をもって国を守れるようになるためにはまだ、数十年の時間がかかるでしょう。

その時に備え、また、失われた誇りを取り戻すためにも、今こそ新渡戸稲造の「武士道」を読み直すべき時なのではないでしょうか。

みずからに「武士の血」が流れていることを自覚し、再び立ち上がり、戦う意志を示すことが、「武士道」復活の第一歩となるはずです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 新渡戸稲造とは、明治期に活躍した「教育者」であり、名著「武士道」を記した作家でもある
  2. 新渡戸稲造は「札幌農学校(北海道大学)」を卒業後、アメリカへ渡り、その後「国際連盟」の「事務次長」として、世界平和に貢献した
  3. 新渡戸の記した「武士道」とは、英語で記された本であり、日本人の「価値観」や「道徳」について、海外の人々に向けてわかりやすく解説した本である。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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