「維新三傑」の一人「木戸孝允(きどたかよし)」、別名「桂小五郎(かつらこごろう)」。
彼が名乗った「数々の名前」や「生い立ち」を、まとめてわかりやすく解説いたします。
「桂小五郎」はどうして「木戸孝允」へと改名したのか?
「木戸」の苗字は殿様からもらったものなのです
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この記事を短く言うと
・「桂小五郎」と「木戸孝允」は同一人物。名前が変わっただけ
・木戸孝允は、和田小五郎・桂小五郎・木戸貫治・木戸準一郎・木戸孝允・新堀松輔・広戸孝助など、数々の名前を名乗っていた
・名前が変わったのは、養子入りなどの事情が重なったため
桂小五郎と木戸孝允の違いとは?
桂小五郎(木戸孝允)
桂小五郎は長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として誕生。
7歳で向かいの桂家の養子となり、長州藩の武士の身分と禄を得ます。
10代に入ってからは、藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受け、「長州藩の若き俊英」として注目され始め、また、吉田松陰に山鹿流兵学を学び、「事をなすの才あり」と評されます。
剣術を習い、腕を上げた小五郎は実力を認められ、剣術修行を名目とする江戸へ留学。
江戸では三大道場の一つ、剣客斎藤弥九郎の道場「練兵館」に入り、免許皆伝を得てわずか入門1年で塾頭に。
その頃、ペリーの再度の来航に大いに刺激され、実際にペリー艦隊を見聞もしています。
そして、剣術だけでなく、西洋兵学、砲術、造船術、英語等最先端の技術を学び、藩政府中枢で頭角を現すとともに、薩摩、水戸、越前諸藩の尊攘派の志士と広く交わり、尊王攘夷運動に奔走。
禁門の変で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走し、長州藩が朝敵となったため、京都にいた小五郎も京都を脱出し但馬の出石に潜伏。
その後、高杉晋作らの長州藩討幕派がクーデターに成功し、藩の実権を掌握すると帰藩し、薩長同盟を締結することに成功。
以後、討幕派の一代表として活躍します。
この頃、桂姓から木戸姓に改名。
明治維新後は、木戸孝允と名乗ります。
木戸は「五箇条の御誓文」を起草し、新政府の参議となり、版籍奉還、兵制改革、廃藩置県等の近代的国家を建設する諸改革に指導的役割を果たし、岩倉具視を団長とする欧米視察団にも参加。
明治10年(1877年)西南戦争が勃発した年、かねてから重症化していた木戸の病気が悪化します。
明治天皇の見舞いも受けますが、京都の別邸で朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め
「西郷もいいかげんにしないか」
と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後に、木戸はこの世を去ります。享年45。
位階勲等は贈従一位勲一等。
桂小五郎(木戸孝允)が使用した別名一覧
桂小五郎は何度も改名しています。
和田家に生まれた小五郎・・・和田小五郎(8歳まで)
- 桂小五郎(8~33歳まで)
- 木戸貫治(33歳・・・木戸の姓は第二次長州征伐前(1865年)に、藩主・毛利敬親から賜った)
- 木戸準一郎(33~36歳まで)
- 木戸孝允(36歳以降・1868年)孝允という名前は、元々桂家当主としての諱(いみな)でした。
それ以外にも、幕府から命を狙われ潜伏していた頃には
- 「新堀松輔」
- 「広戸孝助」
などの名前を使っていました。
死亡後は雅号・「松菊」から「松菊木戸孝允」「木戸松菊」あるいは「松菊木戸公」とも呼ばれます。
また、小五郎は剣術の達人であったにもかかわらず、生涯で人を斬ったことはありません。
自身に危険が及ぶような状況になると、脇目もふらず逃げたとか。
それ故、「逃げの小五郎」という異名もありました。
小五郎は常に幕府から命を狙われていましたが、その高いリスク管理能力により、維新後も生き延びたのでしょう。
なぜ何度も改名したのか?
その時々で理由は様々です。
・和田家から桂家へ養子に行ったため、苗字が変わった
・藩主・毛利敬親から「木戸」姓を賜ったため、姓を変えることとなった
・明治維新で諱(孝允)を名乗るようになった
・幕末に命を狙われていた時期に、偽名を名乗っていた
異なる事情により名前を使い分けざるを得なかったと思います。
坂本龍馬も脱藩の罪から逃れるため、「才谷梅太郎」という変名を使っていました。
『木戸孝允』について、レビュー(評論)!
維新三傑の一人「木戸孝允」・・・個人的な印象で恐れ入りますが、江戸幕府を倒した「西郷隆盛」や、明治新政府で実質的な首相を務めた「大久保利通」に比べると、若干存在感が乏しい気がします。
まぁ・・・英雄「西郷隆盛」と、大政治家「大久保利通」では、さすがに相手が悪いとは思いますが・・・。
「吉田松陰」・・・明治新政府で活躍する、後に「元勲」と呼ばれる方々は、だいたいこの「吉田松陰」先生の指導を受けています。木戸孝允も、藩校で松陰先生からの指導を受けています。
もしも「吉田松陰」先生が生きて明治新政府に参加していたら、「西郷隆盛」「大久保利通」以上の存在感を発揮していたのではないでしょうか。
長州藩は、明治維新の時点で「吉田松陰」先生も、「久坂玄瑞」も「高杉晋作」も「吉田稔麿」も「入江九一」も、「松下村塾四天王」は誰もが亡くなっていました。人材不足だったのです。
木戸孝允は確かに優れた人物でしたが、人材欠乏の長州藩の中では、西郷隆盛・大久保利通と渡り合うに足らなかった気がします。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・桂小五郎は西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新三傑」です。長州藩を代表する政治家で、維新新政府では木戸孝允と名乗り、参議という要職で近代国家を建設する役割を果たしています。
・桂小五郎は何度も改名しています。潜伏用の偽名や「逃げの小五郎」という異名ももっていました。
・養子に行ったり、藩主から姓を賜ったり等その時々の事情の理由で改名しています。
桂小五郎・木戸孝允は長州閥を代表する政治家です。
長州藩士として幕末の多難な時期を持ち前のリスク管理能力で乗り切り、明治新政府では近代国家を建設する指導者としての役割を果たします。
以上となります。
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