「徳川家康」の妻「瀬名姫(築山殿)」の「母親」は誰なのか。
「今川義元」の妹が「瀬名姫」の母親?
それとも「井伊直虎」の遠縁にあたる「佐名姫」が「瀬名姫」の母親なの?
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瀬名姫の母親は、誰?
瀬名姫・・・徳川家康の正室にして、家康の嫡男「松平信康」の母。
1579年に発生した「信康事件」又は「築山事件」と呼ばれる反乱未遂によって、家康に殺害された悲劇の姫。
そんな瀬名姫・・・・実は母親が誰なのかがはっきりしていません。
一時期、日本最強の大名であった「今川義元」・・・瀬名姫は、その姪であるという説もあります。
つまり瀬名姫の母親は、「今川義元の妹」・・・・
しかし別の説では、「井伊直虎」の大叔母が、瀬名の母親であるとの説も・・・。
2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」では、井伊直虎の大叔母「佐名姫」が、瀬名姫の母であるという設定が採用されています。
「今川義元の妹」・・「井伊直虎の大叔母」・・・どちらが瀬名姫の母親なのか?
実は不明です。
これは、拙者の勝手な推測でしかないのですが・・・おそらく瀬名姫の母親は「今川義元の妹」なのではないでしょうか。
理由は簡単で、「家康を一族に取り込むためには、今川家の血を引く姫を嫁がせるのが一番」だから
今川義元は、幼い家康を非常に高く評価していました。
元服(成人式)には自ら豪華な鎧を送ったり、自らの師でもある「太原雪斎」という名将を家康の師にしたり。
家康を息子・氏真の補佐役にしようとしていたという説があります。
家康を取り込む・・・・そのためには自らの「姪」を送り込むのが一番でしょう。
まぁ・・・瀬名の母親は、「今川義元の義理の妹」だという説もあるので、もしかしたら「今川義元の妹」「井伊直虎の大叔母」・・・両方正解なのかもしれませんけども・・・。
「瀬名姫殺害事件の真相」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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母親の最期とは?
瀬名姫の母親・・・最期は悲惨なものだったみたいです。
1560年、今川義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に敗死。
そのどさくさに紛れて、家康は故郷である「岡崎城」を占拠。
1562年には、今川家の宿敵である「織田信長」と「清洲同盟」を締結。
今川家の城を攻撃し、敵対関係を明らかとします。
今川義元の息子・今川氏真はこれに激怒。
家康の妻「瀬名姫」の父「関口親永」は、娘婿「家康」の不祥事を受けて、責任を追求され切腹。
瀬名姫の母親も、一緒に自殺したと言われています。
娘婿のせいで自刃・・・。
瀬名姫は、さぞ家康を恨んだことでしょう。
その後、瀬名姫も処刑されそうになります。
しかし家康による「鵜殿長照の息子たち」と、人質交換が成功したため、無事岡崎城へ引き取られます。
ただ、今川家の血を引く瀬名姫をよく思わないものたちが、家康家臣団に多かったため、彼女は「築山御殿」へ軟禁されたのでした・・。
「信康と瀬名姫の最期」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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瀬名姫の最期
瀬名姫こと築山殿の最期とは、どんなものだったのでしょうか?
瀬名姫は1579年8月29日、家康の家臣「野中重政」「岡本時仲」に殺害されました。
場所は現在の「静岡県浜松市中区富塚」
殺害された理由は宿敵「武田勝頼」との内通を疑われて・・・。
しかし、実際には瀬名姫が内通をするとは思えず・・・後世、家康の妻殺害を正当化するための創作と思われます。
この半月後、瀬名姫の息子「信康」が切腹させられていますが、発狂しかねない瀬名姫という不安要素を先に除いた・・・とも言われています。
その無残な最期から、「瀬名姫の呪い」というものが噂され、殺害犯の「野中重政」にも呪いが降り掛かったと言われています。
両親を死なせ、それでも夫についてきた瀬名姫・・・。
あまりにも無残な最期です。
「瀬名姫の呪い」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・瀬名姫の母親は、「今川義元の妹」
・母親は、家康が今川家を裏切った罪で自害した
・瀬名姫は、信康事件の影響を受けて、家康の家来に殺害された
以上となります。
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