この記事では「足利義輝」と名刀【三日月宗近】について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「三日月宗近」について、カンタンに理解できます。
「三日月宗近」は、現在「東京国立博物館」に所蔵されているのです。
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この記事を短く言うと
1,「足利義輝」と「三日月宗近」の伝説とは?
「足利義輝」は、「永禄の変」で「三日月宗近」や「大典太光世」などの名刀を使って、三好軍と死闘を演じたという伝説がある。
2,「三日月宗近」は、現在どこにあるのか?
「三日月宗近」は、「北政所」や「徳川秀忠」の手を渡り歩き、現在「東京国立博物館」に所蔵されている
3,「天下五剣」とは、「三日月宗近(みかづきむねちか)」の他に何があるのか?
「鬼丸国綱(おにまるくにつな)」、「大典太光世(おおでんたみつよ)」、「数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)」、「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」
「足利義輝」と「三日月宗近」の伝説
室町幕府13代将軍「足利義輝」には、名刀「三日月宗近」を保有していたという説があります。
【1565年】、「足利義輝」が、「三好三人衆」や「三好義継」に暗殺される事件が起こります。
これが、後世において「永禄の変」と呼ばれる政変です。
この時、「足利義輝」は「三日月宗近」や、その他にも数々の名刀を、畳に刺し、刀が刃こぼれするたびに、別の刀に取り替えて、戦い続けたという逸話があります。
激戦の末に、足利義輝は討ち死に。
その死は京都に住む人々を悲しませ、葬儀には数万人が押し寄せたと言われています。
その後、「三日月宗近」がどうなったのかは不明です。
ただし、この「足利義輝と三日月宗近」の逸話は、それを裏付ける資料がないため、「後世の創作」とも言われています。
本物の「三日月宗近」は、今どこにあるの?歴代の所持者とは
「三日月宗近」は、現在「東京国立博物館」が所蔵しています。
三日月宗近とは、平安時代の刀工「三条宗近」という人がつくった名刀です。
いつ作られたものなのかは、はっきりしていませんが、「11~12世紀頃」に作られたものだろうと考えられています。
「日野富子」の兄「日野勝光」の孫にあたる「日野内光」が、【1527年】の「恵勝寺合戦」で、「三日月宗近」を奮って戦った末に戦死したと言われています。
「足利義輝」の逸話が本当なら、その後は「足利将軍家」に渡ったと考えられます。
この「恵勝寺合戦」では、「足利義輝」の父「足利義晴」が参戦していました。
もしかすると「三日月宗近」は、持ち主である「日野内光」が亡くなったあと、12代将軍「足利義晴」の手に渡ったのかもしれません。
その後、「三日月宗近」は、義晴の子「足利義輝」の手に渡ったということになります。
「日野内光」が亡くなった後、「三日月宗近」が表舞台に登場するのは、「豊臣秀吉」の正室「北政所」が所有していた記録からです。
「三日月宗近」は、「北政所」から「徳川秀忠」へと譲られて、その後は「徳川将軍家」が代々所有し続けることとなります。
「日野内光」が亡くなってから、どのような経緯で「北政所」に渡ったのかは不明です。
しかし、おそらくですが、「永禄の変」で「足利義輝」が戦死すると、「三日月宗近」は「三好義継」か「三好三人衆」などの「義輝を暗殺した犯人」の手に渡ったのでしょう。
その後「三好三人衆」は、義輝の弟である「足利義昭」や「織田信長」に駆逐されています。
おそらくこの時、「三日月宗近」は「足利義昭」の手に渡ったのでしょう。
兄「義輝」の形見ですので、「義昭」は「三日月宗近」を大切にしたと考えられます。
その後、「義昭」は「豊臣秀吉」の家来となっているので、そのときに「義昭」から「秀吉」へと「三日月宗近」が贈られたのでしょう。
そして「秀吉」の死後、「三日月宗近」は正室「北政所」へ
つまり「三日月宗近」は
- 「日野内光」
- 「足利義晴」
- 「足利義輝」
- 「三好義継・三好三人衆」
- 「足利義昭」
- 「豊臣秀吉」
- 「北政所」
- 「徳川秀忠」
- 「徳川将軍家」
という順番に、渡り歩いたと考えられます。(「足利義晴」から「豊臣秀吉」までの赤い文字で表した人物は、「所持していた」ことがはっきりしない人たちです。)
その後、「三日月宗近」は「徳川家達」から、「犬養毅」らの手に渡った後、「東京国立博物館」へと寄贈。
現在も「東京国立博物館」が所蔵し、国宝に指定されています。
一説によると、「尼子家」の猛将「山中鹿之介幸盛」も、「三日月宗近」を保有していたと言われています。
「山中鹿之介」といえば、三日月に対して「我に七難八苦を与えたまえ」と言った伝説で有名です。
おそらく「三日月に対して祈った」伝説と、「三日月宗近」という名刀の相性が良かったため、「山中鹿之介が三日月宗近を愛刀としていた」という説が生まれたのでしょう。
もう一度申しますが、「三日月宗近」は「日野内光」が戦死したあと、誰の手に渡ったのかがハッキリしていません。
もしかすると、「足利義輝」が持っていたという説も、創作かもしれないのです。
三日月宗近と「天下五剣」
「三日月宗近」は、【天下五剣】と呼ばれる五つの名刀の1つに数えられています。
「天下五剣」とは
- 「三日月宗近(みかづきむねちか)」
- 「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」
- 「鬼丸国綱(おにまるくにつな)」
- 「大典太光世(おおでんたみつよ)」
- 「数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)」
の5つの名刀のことです。
- 「天下五剣」のなかで、最も美しいと評される「三日月宗近」
- 猛将「源頼光」が「酒呑童子」を斬り倒した名刀「童子切安綱」
- 北条時宗の父「北条時頼」に取り付いた鬼を斬り、鎌倉幕府を滅ぼした「新田義貞」から「足利尊氏」へ渡ったという「鬼丸国綱」(北条時頼ではなく、北条時政であるとする説もある)
- 加賀百万石の「前田家」と「徳川家」のあいだを行ったり来たりした名刀「大典太光世」
- 「北条時頼」へ「立正安国論」を説いた日蓮宗の開祖「日蓮上人」の愛刀「数珠丸恒次」
「三日月宗近」と「童子切安綱」は、現在「東京国立博物館」が所蔵。
「鬼丸国綱」は皇室に保管されています。
「大典太光世」は、加賀百万石前田家の遺物を管理する「前田育徳会」が所蔵。
「数珠丸恒次」は「兵庫県尼崎市」の「本興寺」が所蔵しています。
三日月宗近の作者「宗近」の「狐」伝説
「三日月宗近」の作者「宗近」には、「狐」とともに名刀を作った、という逸話があります。
一条天皇から「守り刀」をつくるようにと命じられた刀工「三条宗近」は、いくら打っても良い刀が作れず、途方に暮れます。
そこで「稲荷明神」へ行き、お祈りを捧げようとします。
「稲荷明神」へ行く途中、不思議な子供が現れ、「三条宗近」にこう言ったのです。
「ご安心ください。私がともに相槌(あいづち)を打ちますから」
その子供は、そう言うとフッと姿を消してしまいます。
宗近は不思議な心地を抱きながらも、刀の制作を開始。
すると、子供に化けていた「稲荷明神」が現れ、宗近に協力し始めたのです。
これにより誕生した刀が、あまりにも見事なものだったため、三条宗近は「稲荷明神」への感謝を込めて「小狐丸(こぎつねまる)」と名付けたのでした。
もちろんこの逸話は、後世の創作でしょう。
「小狐丸」は現在、大阪府東大阪市の「石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)」が所蔵しています。
4月・10月には一般公開されるのだとか。
また、不思議なことなのですが、奈良県天理市の「石上神社」にも、「小狐丸」という名前の刀が存在しています。
おそらく「石切剣箭神社」にある「小狐丸」が、「三条宗近」の作だと思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「足利義輝」は、「永禄の変」で「三日月宗近」や「大典太光世」などの名刀を使って、三好軍と死闘を演じたという伝説がある。
2,「三日月宗近」は、現在「東京国立博物館」に所蔵されている
3,「天下五剣」とは、「三日月宗近」、「鬼丸国綱」、「大典太光世」、「数珠丸恒次」、「童子切安綱」
以上となります。
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