幕末に幕政を独裁した大老井伊直弼。
桜田門外の変は歴史の教科書にも出る、あまりにも有名な事件です。
今回は井伊直弼について書きたいと思います。
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この記事を短く言うと
・幕府の大老・井伊直弼は、「日米修好通商条約」を勝手に締結した上に「安政の大獄」という弾圧を起こして暗殺された
・墓所は、東京世田谷の「豪徳寺」
・お墓が彦根にない理由は、単純に「江戸(東京)で亡くなった」ため、近くの豪徳寺へ埋葬した
井伊直弼の墓所はどこ?
井伊直弼の墓所は東京世田谷にある「豪徳寺」です。
井伊家の菩提寺は「彦根・龍潭寺」ですが、豪徳寺もまた井伊家の菩提寺です。
1633年に世田谷領が彦根藩の管轄となると、彦根藩主・井伊直孝が井伊家菩提寺として伽藍などを整備しました。
寺号は、井伊直弼の先祖で、井伊直政の息子・井伊直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」から取って、豪徳寺という事になりました。
なぜ地元・彦根の龍潭寺ではないのか?
江戸城・桜田門外の変で亡くなったので、彦根・龍潭寺には埋葬されず、豪徳寺に埋葬されました。
殺されたときに流した血がしみこんだ土は彦根に運ばれ、天寧寺(彦根市里根町)に埋められ、供養塔が建てられました。
水戸市・妙雲寺には慰霊碑がたてられ、井伊家の領地だった栃木県佐野市・天応寺にも祀られています。
井伊直弼の死因は?
井伊直弼は幕末の譜代大名。
近江彦根藩の第15代藩主。
第13代藩主井伊直中の14男として生まれます。
兄弟が多かった上に庶子であったこともあり、養子の口もなく32歳まで部屋住みとして過ごします。
ところが、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、直亮の死去を受け家督を継いで彦根藩主となりました。
その後、幕政に参加し、黒船来航や将軍後継ぎ問題等の、非常に多難な時期に幕府の大老に就任します。
直弼44歳の時のことでした。
アメリカ公使ハリスが神奈川沖まで軍艦でやってきて、即時通称条約の調印を強く要求した際、直弼は朝廷の勅許を待たずして、日米修好通商条約を締結してしまいます。
また、将軍後継ぎ問題では、「一橋(徳川)慶喜」擁立派を押さえて14代将軍を「徳川慶福(家茂)」に定めました。
こういった、直弼の独裁的な政治に、大名・公卿・志士たちが一斉に反発。
直弼は幕府権力を守るために、安政の大獄で彼らを大弾圧するのです。
これに反発した水戸浪士ら18名により桜田門外で襲撃され、暗殺されます。
直弼は駕籠に乗っている状態で銃撃を受け、右太ももから腰にかけて銃弾が貫通し、動けなくなったところを、駕籠の外から刀で刺されます。
虫の息となっていた直弼は駕籠から引きずり出され、斬首されてしまったのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・井伊直弼は幕府の大老として、日米修好通商条約の無勅許締結、安政の大獄を断行し、反発を買います。その結果桜田門外で暗殺されます。
・井伊直弼の墓所は東京世田谷にある「豪徳寺」です。
・江戸城・桜田門外でなくなったので、豪徳寺に埋葬されました。
幕末は暗殺が横行し、数多くの志士達が殺されました。
しかし、暗殺が歴史を回天させた例はありません。
唯一の例外が桜田門外の変です。
井伊直弼が殺されることにより幕府の権力が弱まり、その後の歴史が大きく音を立てて動き始めます。
以上となります。
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