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吉田松陰の死因とは?最後の言葉とどこで処刑されたかを簡単に解説

長州藩の天才・吉田松陰よしだしょういんの死因や最期の様子を、わかりやすく解説します。

幕末明治に活躍する偉人を、数多く育てた吉田松陰。

彼は幕府のお偉いさんを暗殺しようとし、斬首刑で亡くなります。

最期の様子は、武士らしく見事だったそうです

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 吉田松陰は、斬首刑で亡くなった。斬首した処刑人の名前は、山田浅右衛門やまだあさえもん
  2. 処刑された場所は、伝馬町牢屋敷てんまちょうろうやしき。現在の東京都中央区立十思公園じっしこうえん
  3. 真の死因は「暗殺計画暴露」。本当は死ななくてもよかったが大老井伊直弼に危険視され、処刑された
  4. 辞世の歌は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

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目次

吉田松陰の死因と、どこで処刑されたかを解説

長州藩・吉田松陰の死因は『斬首刑』でした。

処刑が行われた場所は、伝馬町牢屋敷てんまちょうろうやしき。現在の東京都中央区立十思公園じっしこうえんです。

処刑した執行人は、山田浅右衛門やまだあさえもんです。

吉田松陰
引用元ウィキペディアより

最後はとても落ち着いた様子で、それを見届けた小幅高政と処刑人・山田浅右衛門やまだあさえもんの証言が残っています。

死罪の宣告を受けた吉田松陰を長州藩代表として判決に立ち会った小幅高政。

高政は松陰の様子をこのように言っています。

「髪の毛や髭はぼうぼう伸びていましたが、その眼光は鋭く光りまるで別人のようでした。

その姿に一種の凄味さえ感じました。

死罪を申し渡され礼すると、くぐり戸から出ていきました。」

次に処刑人・山田浅右衛門やまだあさえもんの証言では

「刑場の場に現れた松陰は実に悠々としていて、役人に【御苦労様】とあいさつして端座をした。

その堂々とした態度に役人も感嘆し、首を打たれる瞬間まで落ち着いていた彼は真にあっぱれであった。」

とのことです



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最後の言葉(辞世の句)と、その意味を解説!

吉田松陰が最期に残したのは、辞世の句でした。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

意味は以下の通り

「私の身は、たとえ武蔵国の野に朽ち果てても、日本の国難である今、日本という国を思う魂だけは、残り続ける」

その「残された大和魂」を受け継いだ、松陰の弟子たちは、即行動に出ます。

高杉晋作山田顕義が四境戦争(第二次長州征伐)で幕府軍を撃破。

伊藤博文山県有朋が新政府を築き上げました。

松陰は自分がいなくなっても、自分の意志を受け継いだ者が、行動を起こすとわかっていたのかもしれません。



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本当の死因!実は処刑されないはずだった

安政の大獄で処刑された吉田松陰。

松陰は尊王攘夷の思想を持っており、倒幕を唱えていました。

その思想が危険だと、幕府は思い取り調べをしましたが、安政の大獄とは関係がないということで無罪となる予定でした。

しかし、松陰はみずから老中・間部詮勝の暗殺計画を暴露します。

これに幕府の老中たちは、流罪にしようと考えましたが、松陰は

「自分を処刑にするのが妥当である」

と言い出します。

これを聞いた大老井伊直弼は怒り、松陰の望みどおりに処刑することを決断。

これによって松陰は処刑されることとなるのです。

吉田松陰の思惑どおりに動いてしまった幕府。

その死は幕府へのささやかな反抗だったのかもしれません。



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吉田松陰について、ひとこと言いたい

「至誠にして動かざるもの未だこれ有らざるなり」

吉田松陰が胸に刻んでいた孟子の一節です。

「真心をもって接し、動かなかったものは、未だに一人もいない」

吉田松陰は、もしかしたら、自らを取り調べた幕府の人間たちに対して、老中暗殺を暴露し、誠を尽くすことで、彼らの良心を動かそうとしたのかもしれません。

しかし、彼らを動かすには、あまりにも時間が足りませんでした。

とはいえ、その至誠と覚悟は、彼を処刑した山田浅右衛門すらも感心させました。

その至誠の態度は、150年後の現在においても、人を動かしてやまない魅力にあふれています。

  • 「圧倒的教育者」
  • 「圧倒的先導者」

吉田松陰には、偉人たちを超えた何かがある気がしてならないのです。

余談ですが、吉田松陰を処刑した山田浅右衛門は、代々処刑を生業としていた一族の者です。

人気マンガ「地獄楽」にも、山田浅右衛門は登場しています。


まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 吉田松陰の死因は、斬首刑
  2. 真の死因は「暗殺計画暴露」・・・元々処刑の予定ではなかった
  3. 辞世は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
  4. 誠を尽くした吉田松陰だが、その弟子たちは「明治維新」を成し遂げる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (6件)

  • 吉田松陰、ニホンの大和魂を持った、立派な人生でした。弟子の素晴らしさは、師匠で決まり、師匠の素晴らしさは、弟子の使命ですね。師弟不二が一切を成し遂げる、

    • この度は当サイトをご利用いただきありがとうございました。
      また、貴重なコメントを頂きましたことにも、心より御礼を申し上げます。
      おっしゃること、ごもっともと存じます。
      吉田松陰先生と、松下村塾の弟子たちの人生には、私も学ばせていただいております。
      またよろしければ、ぜひぜひ当サイトをお役立てくださいませ。
      ありがとうございました。

  • もう半世紀近く前になると思います。
    私の卒論の表題は「私塾」(日本一短いのではと自負しているが)の中で、吉田松陰(先生)も取り上げました。
    感想として、吉田松陰先生で始まる文章に好感を持っていましたが、すぐに吉田松陰となったり、松陰先生となったりしていることに違和感を感じます。
    私としては、吉田松陰先生は、以下吉田松陰とか、先生とか断わって統一してほしかった。先生から呼び捨ては、なんとも。

    松陰先生には違和感があります。私自身、恩師を名前で呼ぶことはありません。確かに親しみはあるのですが、〇〇先生と姓で呼びます。門下生は松陰先生と呼んでいたとは思えないのですが。

    武田鉄矢が、安倍首相が「吉田松陰」と呼び捨てにしたことを怒ったとありましたが、自身は龍馬と呼び捨てにしています。坂本龍馬は龍馬、吉田松陰は先生と呼べ。塾を開いていない人物は呼び捨て、塾を開いたら先生ということかな?幕末に塾を開いた人が、全員先生と呼ばれていない気がするが、

    • 貴重なご意見をありがとうございます。
      検討してみます。
      いつもお言葉をいただきありがとうございます。

  • 家人が言う「お父さん、ストーカーと思われているで」と。「今まで投稿したら返事があったんやろ、5日もないってありえへん」と言う。私が、「今まで通り、翌日に返事出来ない」と書いてあった。「1日に2回でも構わないとも言われていた」と言うと、「京都の人かも知れんやん」と言われて考えた。額面通りに受け取るのは、間違いかもしれない。

    折角、高校で使う教科書までネットで購入したので、幕末の人物についてだけは投稿しようと思います。

    心も萎えているので、今まで通りのパターンはやめて投稿します。

    誤字だけにします。
    ①文中に「小幅高政」は、「小幡高政」の誤りです。

    ②《最後の言葉!その意味、、、》の下は吉田松陰が最期とある。最期で統一すべきです。

    ③4行目に「長州征伐」とあるが、令和の現在というか、それ以前から「征伐」という言葉自体ありません。「長州 
     征討」です。

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