天璋院篤姫とともに「大奥」へ入った教育係「幾島(いくしま)」の「生涯」と「最期」は、どのようなものだったのか?
わかりやすく解説いたします。
西郷隆盛と篤姫の連絡係として奔走し、「江戸城総攻撃」を阻止。
江戸100万人の命を救う大活躍をし、最期は東京で亡くなった。
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幾島とは誰のことなのか?
幾島
天璋院篤姫が13代将軍「徳川家定」に輿入れする際、篤姫とともに「大奥」へ入った女性。
2018年の大河ドラマ「西郷どん」では「南野陽子」さんが演じておられます。
大河ドラマ「篤姫」では女優「松坂慶子」さんが、大河「翔ぶが如く」では「樹木希林」さんが演じておられました。
この「幾島」という女性・・・そもそも何者なのでしょうか?
幾島はもちろん実在の女性
薩摩藩士「朝倉孫十郎景矩」と、その妻「民」の娘として「幾島」は誕生しました。
その後、近衛忠煕に仕え、次には篤姫とともに大奥入り。
彼女は篤姫やその養父「島津斉彬」の指示によって情報収集などの「工作活動」を行っていたようです。
工作活動のために、資金を次々とバラ撒きまくって、周囲からは「女丈夫」と呼ばれ、女傑として評判でした。
単なる「お付の侍女」というわけではなく、やり手の「スパイ」といった女性だったのです。
幾島の生涯と最期
「幾島」の生涯と最期を、ざっくりと解説いたします。
生い立ち
「朝倉景矩」と「民」の娘として誕生した「幾島」
島津斉宣の娘「郁姫(別名・島津興子)」(島津斉彬の叔母)が、京都・五摂家の公家「近衛忠煕」に嫁ぐ際に、「藤田」と名乗って共に京都へ。
1850年、「郁姫」が亡くなっても、そのまま「近衛忠煕」に仕え続けています。
大奥へ
薩摩藩11代藩主「島津斉彬」の養女「篤姫」が、13代将軍「徳川家定」に嫁ぐことが決まった際に、「篤姫」の格式を上げるため、輿入れ前に「近衛忠煕」の養女となることが決定
近衛家にいた「藤田」は、「幾島」と改名し、篤姫に仕えて「大奥」へ入る際の教育係を務めました。
相当に厳しい教育だったようですね。「西郷どん」「篤姫」「大奥」・・・どのドラマでも「鬼」のように「篤姫」を指導する「幾島」が描かれています・・・。
篤姫の輿入れに際して、「幾島」は近衛家の家士「今大路孝由」の養女となり、自らの格式をあげてから大奥に入っています。
大奥で与えられた身分は「老女」・・・かなり高い身分です。
幾島は大奥で、篤姫と本国・薩摩の連絡係を務め、西郷隆盛を介して情報を島津斉彬に届ける・・まさに内部工作員の役割を務めています。
この幾島の工作活動で養われた能力が、後に江戸の街とその100万人の町民を、戦火から救うこととなるのです。
江戸城無血開城
1864年、幾島は体調不良により、翌1865年頃に大奥から身を引いています。
1868年、いつの間にやら幾島は大奥へ返り咲き
そして「篤姫」の使者として、「戊辰戦争」で江戸に進軍する「新政府軍」を率いる参謀「西郷隆盛」と連絡を取ります。
幾島は「西郷隆盛」へ、篤姫「攻撃中止と徳川慶喜の助命」の嘆願書を届けたのでした。
これが功を奏し、江戸城無血開城が実現
篤姫と西郷・・・双方と面識があった「幾島」の功績です
最期
1870年5月26日、幾島は東京で亡くなります。
享年63歳
墓所は東京杉並区和泉の「大円寺」
幾島の活躍!篤姫と西郷を繋げ、大惨事を回避した
戊辰戦争
新政府軍が江戸に向かって進軍・・・その軍の実質的責任者が「西郷隆盛」でした。
そこにある日、一人の女声が駆け込んできます。
幾島です
幾島は長年ともに工作活動をした盟友「西郷隆盛」へ、篤姫からの「江戸城総攻撃中止」と「徳川慶喜の助命嘆願」を届けたのでした。
西郷と幾島は、篤姫が大奥へ入った直後、ともに工作活動をしていた間柄。気心知れた仲だったのかもしれません。
これが功を奏し、徳川慶喜は助命され、謹慎処分
幾島の活躍で江戸は無傷で温存され、明治新政府は「江戸復興」という難題を避けることが出来たのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・幾島とは、薩摩藩士「朝倉孫十郎景矩」の娘にして、天璋院篤姫付きの老女
・篤姫が大奥へ入った際に同行し、工作活動を行っていた
・戊辰戦争では、西郷隆盛へ篤姫の「江戸攻撃中止」と「慶喜助命」の嘆願を届けている
以上となります。
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「徳川家定」「篤姫」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
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