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篤姫とはどんな人か?死因と最期の様子からわかる性格と信念を解説!

薩摩藩から徳川家定に輿入れした『篤姫』。

篤姫は単なるお嫁さんではありませんでした。

その激動の生涯にスポットライトをあててみましょう!


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この記事を短く言うと

・篤姫は、大らかで利発・聡明な女性だった

戊辰戦争において、新政府軍「西郷隆盛」に手紙を送り、江戸城総攻撃を思いとどまらせ、「江戸城無血開城」を実現した

・篤姫の死因は「脳溢血」。享年49歳(満年齢47歳)


篤姫とはどんな人?性格や素性は?

篤姫は薩摩島津家の一門である今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女に生まれ、「一子(かつこ)」と名付けられました。

幼少から聡明・利発で、大らかで少々の事には動じなかったため、父「島津忠剛」から、「一子が男子であれば」とその器量を評価されました。

徳川家から「将軍・家定」の結婚相手を求められていた島津家。

一門の女子をよりふさわしい女子とするために、島津本家の当主「島津斉彬」の養女となり「篤子」と名乗ります。

次いで、将軍の嫁は公家から迎えるという慣例に倣い、右大臣・近衛忠煕の養女となります。

その後第13代将軍・徳川家定と結婚。

家定は病弱であったため、健康そのものの篤姫が選ばれたとのことですが、結婚してわずか2年、家定は35歳の若さで亡くなります。

未亡人となった篤姫は「天璋院」と名乗ります。

その後、江戸から明治への激動の時代の中、篤姫は大奥の責任者として最後まで留まります。

明治維新後、生活費は薩摩島津家からは貰わず、あくまで徳川の人間として振舞ったといいます。

そして質素な生活を続けながら、徳川宗家16代家達(いえさと)を養育しました。

彼女の毅然とした性格は、徳川家の後見人格となった勝海舟も称賛しています。

自費で大奥関係者の就職斡旋などをしていたため、亡くなったときの所持金は3円(今の金額にして6万円ほど)だったといいます。

愛犬家で結婚前には「狆」を多数飼っていましたが、夫・家定が犬嫌いだったため大奥入り後は猫を飼っていました。

その猫のエサ代は年間25両だったとか。



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篤姫が残した実績とは?

戊辰戦争が勃発し官軍の江戸総攻撃が目前に迫ります。

篤姫は江戸城大奥の総責任者として、14代将軍・徳川家茂正室の和宮とともに、徳川家存続のために動きます。

自身の出身薩摩藩の家来筋であり、旧知の官軍参謀である「西郷隆盛」に宛てて歎願書(徳川慶喜の助命、徳川家の存続、江戸攻撃中止)を記し、さらに使者を送っています。

篤姫の使者たちは西郷隆盛と面会し、西郷から篤姫に嘆願を受け入れる旨の連絡がありました。

篤姫の歎願は西郷隆盛に心理的影響を与えたに違いなく、江戸城無血開城は篤姫が西郷隆盛に送った嘆願書の功が大きかったと言われています。

歎願受け入れ後、篤姫は幕臣たちに通達を出します。

「江戸城総攻撃は見合わせになったが、もし不心得者がいると徳川家の一大事になる。これまでの努力も無に帰すので、心得違いなく静謐を保つように。」

大奥からの異例の通達でした。

大奥はもとより、幕臣全体への篤姫のリーダーシップがうかがえます。



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3.最期と死因は?

明治時代となり、鹿児島に戻らなかった天璋院は、徳川宗家が駿府(静岡市)転封後は東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしました。

旧幕臣・勝海舟や静寛院宮(和宮)とは度々会い、特に勝とは東京の街に繰り出し、料亭、芸者屋、隅田川の舟遊びなど自由気ままな生活を楽しんでいたようです。

明治16年(1883年)11月13日、徳川宗家邸にて脳溢血で倒れます。

意識が回復しないまま、11月20日に49歳で死去しました。

葬儀の際、沿道には1万人もの人々が集まったとのことです。

そして、徳川将軍家の菩提寺である上野の寛永寺境内にある夫・家定の墓の隣に埋葬されました。

徳川将軍の墓で、夫婦二人の墓が横に並ぶのは、篤姫と和宮の2組だけです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・篤姫は薩摩島津一門の長女に生まれ、将軍徳川家定と結婚します。家定亡き後も毅然とした態度で大奥の責任者としてふるまいます。

・徳川家の存続の為に和宮とともに行動し、西郷隆盛への嘆願書は江戸城無血開城に大きな影響を与えます。

・明治後は故郷に帰らず、東京で徳川家の人として静かに暮らします。脳溢血で突然亡くなった後は、寛永寺の徳川家定の墓の隣に埋葬されます。

幕末から明治への激動の時代を生きた篤姫は、その類まれな器量により、歴史に輝く女性のひとりとして今に語り継がれてきました。

明治後は薩摩に帰るという手もあったかと思いますが、徳川の人として東京に残り、世間から離れひっそりと暮らす。

そんな篤姫には心打たれるものがあります。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

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