江戸城無血開城のあと、新政府軍と「上野戦争」を戦った部隊「彰義隊(しょうぎたい)」について、わかりやすく解説します。
「上野戦争」の戦場「上野公園」の西郷像。どうして「西郷隆盛」像が建てられているのか?
実は「上野戦争」の勝利を記念して、像が建てられたのです。
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この記事を短く言うと
・彰義隊とは、「幕府の降伏」と「江戸城無血開城」に納得しない元「幕府」のサムライ達の集団
・長州藩士「大村益次郎」の指揮により起こった上野戦争で、「彰義隊」は1日で壊滅した
・上野公園の西郷隆盛像は、「上野戦争」の戦勝を記念して建てられた
彰義隊とは何かわかりやすく解説
彰義隊とは徳川慶喜の警護部隊を名目として結成された部隊です。
名前の由来は「義を彰(あきら)かにする」という言葉からきています。「幕府へ忠誠を示す」という「正義」を「彰(あきら)か」にしたかったのでしょう。
徳川慶喜の本家・一橋の家臣である「渋沢成一郎」や「天野八郎」らが結成に関与していました。
鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は上野にある寛永寺にて謹慎を行いました。
その警護と江戸の町の治安維持のために結成された彰義隊は、江戸の民衆に慕われるほど、高い志を持っていた集団だったのです。
しかし、新政府による幕府の解体後、将軍であった徳川慶喜は水戸に蟄居させられます。
これは事実上の将軍の追放を指していました。これにより、彰義隊は強硬派と穏健派に分裂。
強硬派は次第に反政府思想を持つ武力集団へと変わっていく中で、多くの若者や脱藩者が彰義隊に参加。多いときで3000?4000人規模にまで膨れ上がりました。
《上野戦争と彰義隊の最期》
1868年5月、新政府は彰義隊に対して武装解除を行うよう通告を出しますが、彰義隊はこれに従うことなく江戸に留まり続けました。
そして同年7月、新政府軍所属の大村益次郎の指揮により、寛永寺に立てこもる「彰義隊」に対して総攻撃を開始。
「上野戦争」の始まりです。
彰義隊の隊士たちも応戦するなど一進一退を繰り広げていましたが、新政府軍がアームストロング砲による砲撃を行ったことで雌雄を決しました。
戦死者数は彰義隊・およそ200名、新政府軍・およそ100名にまで及びましたが、わずか1日で彰義隊は敗走。
穏健派の彰義隊もまた、この戦いに駆けつけますが、すでに勝敗は決していたため、逃げる隊士たちと合流し退却したといわれています。
上野戦争後、彰義隊側の戦死者の遺体は何日も放置され、遺体を引き取りたいと申し出ても許されることはありませんでした。
また、退却した隊士の中には、会津などの東北、函館へと流れ、会津戦争や戊辰戦争最後の地である箱館戦争に参加するものもいました。
戊辰戦争終結後も新政府によって彰義隊の生存者へ追求が行われ、強硬派であった天野八郎は密告によって投獄され、獄中で病気により亡くなりました。
《西郷隆盛像と彰義隊の関係》
上野公園内には西郷隆盛の銅像が建立されています。
西郷隆盛は西南戦争を起こした逆賊となっていましたが、明治維新の功績が評価され、のちに明治天皇によって名誉回復が実現されました。
また、上野戦争の際には、西郷隆盛は彰義隊鎮圧のため新政府軍として戦っています。
この時、西郷が指揮をとり彰義隊へ攻め込んだ場所が、現在銅像が建てられている場所といわれています。
名誉回復とともに上野戦争での戦勝を祝って建立されたのが、今の「上野公園・西郷隆盛像」であるといえるでしょう。
ちなみに、この銅像に向かって、西郷隆盛の妻「西郷糸子」さんが
「違う」
と叫んで、弟の「西郷従道」に叱られたのは有名な話ですね。
《『彰義隊』について、レビュー(評論)!》
彰義隊・・・元々は「幕府に忠誠を誓った旧幕臣たち」の集団でした。彼らは純粋に、徳川家への忠誠心により、新政府軍に対して最期の抵抗を試みていたのかもしれません。
しかし、お祭り好きな江戸っ子たちは、彰義隊が上野の山に集結したのを見て、お祭り騒ぎと勘違いしたのか、「暴れることができる」と思って上野へ集結。無頼漢たちまで彰義隊に参加してしまっています。
「振り返ったら誰もいなかった」・・・彰義隊の、とある部隊長の証言です。敵に突っ込もうとして突進・・・敵が間近になったところで振り返ると、周囲は全員逃げ出していたということ。上野の山に集まった「彰義隊」は、その大多数が覚悟のない町人の集団だったのです。
しかし、その中には、「徳川家のために最期の忠義を尽くそう」とした、本物の武士もいたはず。
新政府軍と戦い、幕府のために死ぬ・・・そんな最期の「御奉公」を遂げた「武士」達・・・。銅像によって西郷隆盛ばかりが目立っているものの、そんな「名もなき侍」達が、上野の地で最期を遂げたのです。
わずか1日で壊滅したからといって、「彰義隊は弱かった」という評価をするのは、ちょっと早すぎるのかもしれません。
ちなみにこの上野戦争に参戦したといわれているのが、元新選組十番組長・原田左之助です。
原田左之助は、この戦いで負った傷が原因で、【1868年7月6日】に亡くなっています。
享年29歳。
彰義隊への参加が遅かったため、隊の名簿に原田左之助の名前は残っていなかったのだとか・・・。
原田左之助には、上野戦争で死なず、中国大陸で「馬賊」の頭目となり、日清日露戦争の際に帰国。
「俺は原田左之助だ」
と言い残して消えた、という逸話が「愛媛新聞」で掲載されたそうです。
しかし、その逸話が本当かどうか確認できていないみたいです
《まとめ》
いかがでしたでしょうか。
彰義隊について紹介して行きましたが、今回のポイントは、
・彰義隊は徳川慶喜を警護するために結成された部隊であったこと
・上野寛永寺に立てこもった彰義隊だが、新政府軍の猛攻によりわずか1日で退却した
・現在上野公園に建てられている西郷像は、上野戦争での戦勝祝いでもあること
といえるでしょう。
以上となります。
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