MENU

【豊臣秀吉】朝鮮出兵の理由を簡単解説!結果は失敗どころか大成功だった

『は』

豊臣秀吉の「朝鮮出兵」には、当時のアジア情勢・国際政治が大きく影響していました。

1590年】、天下統一を果たした「豊臣秀吉」は全国の大名を朝鮮半島へ送り込みます。

そして、2度にわたる朝鮮出兵は失敗に終わった・・・と言われていました。

しかし実は、朝鮮出兵は結果として「大成功」だったのです。

大成功と断言できる理由それは、「日本が、最強国スペインの植民地にされなかったから」です。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 豊臣豊臣の「朝鮮出兵」だが、秀吉が目指していたのは「朝鮮半島の支配」ではなく、「明国の支配」だった。「朝鮮半島」は通り道でしかなかった
  2. 当時世界最強の国家だった「スペイン」は日本を侵略しようとしていた。その手段として、「明国」を支配下において、明国から日本へ派兵しようと画策していた
  3. 【1588年】の「アルマダの海戦」で「イギリス」に大敗した「スペイン」は、それにより日本侵略の力を失った。そのため「朝鮮出兵」も目的を達成し、秀吉の死もあって撤退した

豊臣秀吉の朝鮮出兵!朝鮮ではなく、「明国」を目指していた

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

「朝鮮出兵」という言葉には、聞き馴染みがあるかと思います。

しかし「豊臣秀吉」が実際に目指していたのは「朝鮮半島」ではなく、当時の中国大陸を支配していた大国「明」・・・つまり「大明帝国」でした。

秀吉はなぜ「明」を目指していたのか。

それは当時の世界情勢が背景にあると思います。



スポンサーリンク


「織田信長」や「豊臣秀吉」が活躍していた戦国時代に、世界規模では「スペイン」が世界最強国だったのです。

スペインが握る世界各地の植民地は、植民地全体の8割に及んでいたのだとか。

そのスペインからの侵略を許していなかったのが、東アジアでは「日本」と「大明帝国」だったのです。

豊臣秀吉が「明」を手中におさめれば、莫大な地域と民衆を確保することが出来ます。それはつまり「圧倒的な武力を確保できる」ということになるのです。

秀吉がなぜ「明国」を侵略しようとしたのか・・・。その理由は「スペインによる日本侵略を未然に防ぐためだった」のではないかと考えられます。



スポンサーリンク


朝鮮出兵は「スペイン」の侵略を防ぐためだった?

最強国「スペイン」の恐るべき侵略方法!「宣教師」は軍事組織だった

世界の大部分を支配していたスペイン。

東アジアでは「ルソン(現在のフィリピン)」に総督府を置いていました。現在でいうところの「現地対策本部」みたいなものですね。

1521年】、スペイン艦隊をひきいた探検家「マゼラン」がフィリピンに上陸しました。世界一周を成し遂げたあの「フェルディナンド・マゼラン」です。

フィリピンでキリスト教の布教をしていた「マゼラン」。しかしその布教活動はあまりに強引で、武力にものをいわせてキリスト教への改宗を迫るやり方は、現地の人々からの反感を買っていました。

イスラム教からキリスト教への改宗を拒んだフィリピン・マクタン島の領主「ラプ=ラプ王」により、マゼランは殺害されるのです。

その後、フィリピンはスペインからの報復を受けました。

1565年】、フィリピンはスペインの植民地支配を受けることになります。

少しさかのぼりますが、実はこのとき日本にはすでに「スペイン」からの使者が送り込まれていました。

1549年】、宣教師「フランシスコ・ザビエル」の来日です。

当時の宣教師の目的は表向き「布教活動」ですが、裏では立派な「軍事組織」を持つ「僧兵軍団」でした。

現地の人間たちの多くをキリスト教に改宗させた後、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、「人民殺戮・強奪・植民地占領」を繰り返していたのです。



スポンサーリンク


「宣教師」に侵略されなかった日本!当時の日本は軍事大国だった

日本にも宣教師を送り込まれているのにも関わらず、なぜフィリピンと違って植民地化されなかったのか。

日本には他の国と比べて、大きく違っていたことがありました。

当時最新の兵器であった「鉄砲」・・・。その「鉄砲」を「コピー」し、「量産」していたことです。

日本の「鉄砲」所持数は、なんと世界全体の半数を占めていたとか。

なぜそんなことが出来たかというと、当時日本の「製鉄技術」が世界最先端だったからです。

日本は「刀剣」をつくる「刀鍛冶」の技術がすすんでいたため、「鉄」を鍛え上げる技がとてもすぐれていたのです。

「堺」「紀伊」「近江」などで生産される「鉄砲」は、世界でも有数の品質を誇っていたのでした。

これにはスペインの宣教師たちも驚いたようです。

「日本に軍事力では敵わない」

とスペイン国王に報告している手紙が残っています。

つまり当時の「日本」は世界有数の「軍事大国」だったのです。



スポンサーリンク


スペインの日本侵略計画!「明国」を支配されたらマズイ?

東アジアでスペインが占領できていなかった国のひとつ、「明」は「鉄砲のコピー」という技術は持っていません。

ですが明国は人口が多いうえに領土も広いので、制圧するには時間がかかります。

余談ですが、スペインは日本の武力を頼りにしていたようで「一緒に明国を奪わないか」と持ちかけています。

手段を選ばないスペイン、おそるべしですね。

仮にスペインと直接対決したとしても、数の上でも武力でも日本の方が圧倒的に上位です。

ところが、スペインが「明国」を植民地として支配下に置くと、話は変わってきます。

なぜなら、「スペインが明国を植民地として支配してしまうと、スペインの兵隊の人数が一気に膨れ上がるから」です。



スポンサーリンク


1274年】と【1281年】の「元寇」こと「文永・弘安の役」で、日本へ攻め込んできた「モンゴル帝国」。しかし実際に日本へ攻め込んできた軍団は「モンゴル帝国」に支配された朝鮮半島の「高麗」と「宋」の人間により構成されていたのでした。

スペインは「モンゴル帝国」と同じように、日本に近い中国大陸・朝鮮半島を支配して、その現地民を兵士として日本を攻撃しようとしていた可能性があるのです。

ここで、スペイン側から見れば「明から日本へ攻め込む」という図式が出来上がったのでしょう。

ところが、逆に日本側から見てみれば「スペインより先に明国を制圧すれば、本土(日本)での決戦は免れる」わけですね。「緩衝地帯」。本土での決戦をしてしまうと、本土が焼け野原となる可能性があるため、本土の一歩手前の地域を支配または同盟友好関係を結ぶことで、本土決戦のリスクを抑える。それが「緩衝地帯」の役割です。現代日本でも「韓国」を緩衝地帯としていますし、中国もまた「北朝鮮」を緩衝地帯としています。

このような理由から、日本は「スペインからの侵略を防ぐには明を制圧したほうがいい」との考えに至ったと思われます。

豊臣秀吉が「明国制圧」を目指した理由はここにあるのではないでしょうか。

「スペインからの侵略を未然に防ぐために、先手必勝で明国を支配してしまう」

その手始めとして「朝鮮出兵」が行われたのです。

《南蛮貿易航路と日本人町》
『引用元ウィキペディアより』

 



スポンサーリンク


出兵は失敗どころか成功していた!実はスペインの侵攻が頓挫していた

スペインを没落させた「エリザベス女王」と「アルマダの海戦」

日本侵略をもくろんでいたスペイン。

しかし実はこのとき、スペインは「日本侵略」どころの騒ぎではない苦境に陥っていました。

スペインが「イギリスやオランダ」の新興国におされて国力を低下させ、もはや東アジアに構っていられなくなった・・・・というのが、その一番の理由です。

「朝鮮出兵」と呼ばれているのは日本の歴史の中で「文禄・慶長の役」(ぶんろく・けいちょうのえき)と呼ばれる2つの戦を指します。

  1. 文禄の役 1592年-1593年(一時休戦)
  2. 慶長の役 1597年-1598年(太閤秀吉の死をもって日本軍の撤退)

スペインは「無敵艦隊」と呼ばれた強力な海軍部隊を持っていました。

当時の世界最大の戦力です。

東アジアを侵略しようとしていたスペインは、【1588年】に「エリザベス女王」ひきいる「イギリス」との間で起こった「アルマダ海戦」で相当な痛手を負い、海軍力を大幅に低下させていました。

《アルマダの海戦》
「引用元ウィキペディアより」

 



スポンサーリンク


スペインを恫喝する「豊臣秀吉」!「対等関係」などあり得なかった

そのことを知っていた秀吉は、【1591年】スペインに対し「日本に臣下としての礼をとれ」と国書を渡し、強気な政治交渉を行なっていました。

世界を制する大帝国「スペイン」に対して、この態度。

すごいです。

しかしスペインはこの秀吉からの高圧的な酷暑に対して、「腹立たしい」と思うものの、無敵艦隊が消滅しているので報復する戦力が残っていませんでした。

そのため秀吉からの国書は放置されていました。

返事を貰えなかった秀吉は、翌年【1592年】に朝鮮へ出兵します。

その事に驚いたのが、ルソン(フィリピン)のスペイン総督府です。

スペイン総督府は、日本軍が海を渡ったと聞いて、日本が「朝鮮・明」を征服した後、いずれスペインの現地拠点である「ルソン」にもその力が及ぶと考えたのでしょう。

日本と友好関係を築こうと、スペインは膨大な贈り物を届けますが、秀吉は首を縦にふりません。

それどころか

「日本に臣下としての礼をとれ。それが嫌なら日本は攻め込むぞ。このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」

と、またしても脅しの書簡を渡してきます。



スポンサーリンク


秀吉からの脅しの書簡を受け取ったスペインの使者は遭難してしまい、秀吉からの手紙はスペイン国王に届けられることなく紛失してしまいました。

またも返事を貰えなかった秀吉は、今度こそ確実に、書簡をスペイン総督府に届けさせます。

3度目です。

なぜ、ここまで強硬な姿勢を貫いたのでしょうか。

その理由は、主に3つあると考えられます。

  1. 国際関係において「対等な関係」というものが存在ないことを、秀吉は知っていたから。
  2. 仮に、中途半端に「対等な関係」を取っていれば、スペインが宣教師を派遣して、日本の内部崩壊が起こっていたかもしれないから。
    (現に、世界のあらゆる国家がその方法でスペインの植民地にされていた)
  3. 秀吉が目指していたのは、あくまで「戦いのない世の中」だったから。

「朝鮮出兵は失敗」と言われていますが、日本の国や人をスペインの侵略から守れたことは大きな成果であると思います。

秀吉は決して侵略のために「朝鮮半島」を行ったのではなく、あくまでも日本を守るためだったのだと強く思いました。



スポンサーリンク


『朝鮮出兵』について「ひとこと」言いたい!

「朝鮮出兵」というとネガティブなイメージですが、その内容を知ると、秀吉は世界をよく見ていたんだなぁ・・・と感心しました。

結果としては敗戦ということですが、明も朝鮮半島もそれぞれに国力が下がってしまいましたので、そこは残念だなとは思います。

しかし、植民地にされていた国を見ると、現代生きている方々は「支配国の人間」と「植民地国の人間」の「混血種」の方ばかりだそうです。

原住民の「純血種」はいないそうです。

その話を耳にしただけで鳥肌がたちます。

『戦争』というものは国民にとって、まったくありがたくないものだと、あらためて再認識しました。



スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 朝鮮出兵で豊臣秀吉が目指していたのは「朝鮮半島の支配」ではなく、「明国の支配」。「朝鮮半島」はあくまでも通り道でしかなかった
  2. 当時最強の国家だった「スペイン」は日本を侵略を計画していた。強国「日本」を侵略するために、スペインは「明国」を支配下において、明国から日本へ派兵しようと画策していた
  3. 【1588年】の「アルマダの海戦」でエリザベス女王ひきいる「イギリス」に大敗した「スペイン」は、日本侵略の力を喪失。それにより「朝鮮出兵」も目的を達成し、撤退した。同時に秀吉も亡くなっていた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



スポンサーリンク


「豊臣秀吉」関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次