皆さんは「斎藤道三の家系図」について、くわしい情報をご存知でしょうか?
筆者も「道三の家系図」について、全然知りませんでした。
この記事では「道三の家系図」を、画像付きで、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「道三の家族・血縁者」について、漠然としか知らなかったとしても、これを読めば、誰かに説明できるほど、「道三の関係者」に詳しくなることができるはずです。
この記事で、「斎藤道三」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。 どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「斎藤道三」は、「織田信長」「明智光秀」「浅井長政」たちと、親戚関係にあった。
2,「道三」の血筋は、現在の「天皇陛下」に受け継がれている。天皇陛下は「斎藤道三」の子孫。
3,道三にとって「織田信長」は娘婿であり、「明智光秀」は義理の甥。道三の二人の子供たちは、信長の家来なっている。
「斎藤道三」の家系図
「斎藤道三」といえば、「織田信長」の義父にあたります。
その「斎藤道三」の家系図をご用意いたしました。
「斎藤道三」は、「織田信長」と「明智光秀」という、時代を代表する二人の名将と関係があるのです。
それだけではありません。
「皇室」
実は現在の「天皇陛下」は、「斎藤道三」の末裔にあたられるお方なのです。
ちなみに、「織田信長」と、その妻「帰蝶」の間に、子供は産まれませんでした。
「帰蝶」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「天皇陛下」は、斎藤道三の子孫だった!
「斎藤道三」の血筋は、現在の「皇室」に受け継がれています。
「斎藤道三」の娘で「稲葉貞通」の妻となった女性。
彼女の末裔が、「天皇陛下」なのです。
「勧修寺(かじゅうじ)ただ子」
第120代「仁孝天皇」を産んだ女性です。
この「勧修寺ただ子」という女性は、「斎藤道三の娘」と「稲葉貞通」の子孫にあたられます。
仁孝天皇から
- 「孝明天皇」
- 「明治天皇」
- 「大正天皇」
- 「昭和天皇」
と代々その血筋が継承され、現在の「天皇陛下」へとつながるのでした。
余談ですが、「天皇陛下」は、「浅井長政」や「お市の方」、そして「豊臣家」の末裔でもあります。
「浅井長政・お市の方・豊臣家の子孫と家系図」については、以下のリンク記事をどうぞ。
「織田信長」「明智光秀」と「斎藤道三」の関係!
「織田信長」と「明智光秀」。二人は「斎藤道三」と縁の深い人物です。
織田信長の妻「帰蝶(きちょう)」は、斎藤道三の娘。
(帰蝶は、斎藤義龍(高政)の異母妹)
「明智光秀」はというと、斎藤道三の正室「小見の方」の兄の息子です。
(光秀が「小見の方」の兄であるという説もあります)
つまり「明智光秀」は、「斎藤道三」の「義理の甥」というわけです。
「我が子らは、織田信長の門前に、馬をつなぐことになるであろう」
(息子たちは、信長に到底かなわない。その家来になり下がるだろう)
この言葉は、【1553年】、斎藤道三が織田信長と「正徳寺(聖徳寺)」というお寺で会見した直後、家来の「猪子兵介」にたいして発した予言です。
(猪子兵介は、のちに織田信長に仕え、「本能寺の変」で亡くなっている)
道三は、「うつけ者(バカ者)」と評判だった若武者「織田信長」の実力を、一瞬で見抜いたのでした。
この予言は、的中します。
斎藤道三は、【1556年】の「長良川の戦い」で、息子「斎藤義龍(高政)」に討たれて亡くなります。
その際に、道三の二人の息子である
- 「斎藤利堯(さいとう としたか)」
- 「斎藤利治(さいとう としはる)」
が、信長に臣従、つまり「織田信長の門前に馬をつなぐ」ようになるのです。
道三は、娘「帰蝶」の夫である「織田信長」の能力を、とっても高く評価していました。
亡くなる直前、道三は「国ゆずり状」という書状を残し、「美濃国を信長にゆずる」と書き記しています。
この書状は、のちの「織田信長」による「美濃侵攻」の大義名分となります。
「国ゆずり状」を信長が受け取った「11年後」の【1567年】、信長は「美濃国」を制圧。
そして「明智光秀」と出会い、「天下布武」の印を使い始め、天下統一へと進み始めるのです。
「斎藤道三の死因と最期」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「斎藤義龍(高政)」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
「明智光秀」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
『斎藤道三と織田信長』について「ひとこと」いいたい
斎藤道三・・・・織田信長の能力を一瞬で見抜いた偉人として有名ですが、息子の能力を見抜けなかったために、悲惨な最期をむかえています。
「斎藤道三」と「織田信長」。この二人、もともとは「宿敵」と呼ぶべき間柄でした。
「斎藤道三」は、織田信長の父「織田信秀」と何度となく戦い、ただの一度も敗北したことがない名将です。
つまり、織田信長からすれば、「斎藤道三」は父「信秀」を苦しめ続けた宿敵、というわけです。
「尾張の虎」
「織田のうつけ」
「美濃のマムシ」
「織田信秀」は「尾張の虎」、「織田信長」は「うつけ」、「斎藤道三」は「美濃のマムシ」と、それぞれ呼ばれていました。
そんな「うつけ」と呼ばれた信長は、【1553年】におこなわれた「正徳寺(聖徳寺)」の会見で、「美濃のマムシ」こと「斎藤道三」から、のちに「国ゆずり状」を受け取るほどに見込まれました。
この「正徳寺会見」では、「斎藤道三」を見事に手玉に取った「織田信長」の能力が際立つようなエピソードが残されています。
しかし、筆者は「うつけ者と評判だった信長の非凡な能力を、たった一度の会見で見抜いた斎藤道三」のほうが、優れた名将だったと感じるのです。
そんな「信長」の能力を見抜いた「斎藤道三」ですが、我が子「斎藤義龍(高政)」のチカラを見抜くことはできませんでした。
道三は息子「義龍(高政)」を侮り続けていました。
「長良川の戦い」で義龍の見事な采配を見た道三は、侮っていた息子「義龍(高政)」の真の能力に気づかなかったことを、ひどく後悔したと言われています。
道三・・・人を見る目はあったのでしょうけれど、肝心なところで失敗した、ということですね。
「麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣る」
といいますが、麒麟児(きりんじ)であった「斎藤道三」も、年老いてしまった・・・・ということなのかもしれません。
「信長の能力を見抜いた」ところまでが、「斎藤道三」の限界だったのでしょう。
「織田信長と斎藤道三の関係」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「斎藤道三」と「織田信長」「明智光秀」「浅井長政」は、親戚関係だった
2,現在の「天皇陛下」は、「斎藤道三」の子孫にあたられる
3,道三からすると「織田信長」は娘婿。「明智光秀」は義理の甥。
以上となります。
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