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【斎藤道三の生涯年表】戦国最強の梟雄「美濃のマムシ」の歴史を解説

皆さんは「斎藤道三の生涯」を、ご存知でしょうか?

 

実は「道三の生涯」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「斎藤道三の生涯年表」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「道三」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「道三の生涯」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「斎藤道三」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短くまとめると、以下の通り

 

1,「斎藤道三」の幼名を「峰丸」。僧侶・商人など身分を変えながら、「長井規秀」「斎藤利政」と名前も変え、美濃国で出世を遂げていった

 

2,恐怖政治で勢力を拡大した「斎藤道三」は、ライバル「織田信秀」の子「織田信長」に娘「帰蝶」を嫁がせた後、織田家の協力を得て「美濃国」を完全に制圧することに成功した

 

3,美濃国を統一した道三だったが、最期は息子「斎藤義龍」からの攻撃を受けて戦死した

斎藤道三の前半生(1494~1539年)

「美濃のマムシ」というあだ名をつけられた梟雄「斎藤道三」の前半生には、とにかく謎が多いのです。

 

そのため、「美濃の国盗り」すなわち「道三が美濃の国を乗っ取る」までの道のりには、諸説あります。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

これまでの定説では

「斎藤道三は一代で商人から美濃国主となった」

と考えられていました。

 

しかし近年では

「道三は、父親の『西村新左衛門』と二代に渡って美濃国を奪った」

と考えられているのです。

 

この年表では、「道三が一人で美濃を奪った」という視点から書いております。

 

そのため、以下の年表には、歴史の真実と若干の誤差があるかもしれません。

 

そのことについて、何卒ご理解をお願いいたします

「斎藤道三」の年表

1494年】(1歳)

のちの「斎藤道三」、「山城国・乙訓郡・西岡」で誕生。

幼名は「峰丸」。

 

1504年】(11歳)

京都「妙覚寺」で出家。

「法蓮房」と名乗る。

 

1521年~】(28歳~)

このころ、僧侶をやめて

「松波庄五郎(または庄九郎)」

と名乗り、油問屋の娘を妻にして「油商人」として成功するようになる

また、武士を志して「油商人」をやめ、美濃国の守護「土岐」氏の家来で小守護代だった「長井長弘」に仕えている

長井家の家来「西村」氏の名跡を継いで

「松波庄五郎」

から

「西村勘九郎正利」

へ改名した。

 

1527年】(34歳)
美濃国の守護「土岐」氏の嫡男「頼武」と次男「土岐頼芸」の内紛に介入。

弟「土岐頼芸」に味方して、「頼武」を美濃国から追放する

 

1530年】(37歳)

または【1533年】(40歳)

主君だった「長井長弘」に「不行跡あり」として殺害。

「長井」氏の名跡を継いで、「長井新九郎規秀」と改名。

これが「1530年」のことなのか、「1533年」のことなのか、定かではない

(最新の説によると、「松波庄五郎」と「西村勘九郎正利」とは、斎藤道三の父親の名前だと言われています。

斎藤道三は、最初「長井新九郎規秀」と名乗っていた、と考えられているのです。

ここではこれまでの通説通り、「松波庄五郎」も「斎藤道三」も、同一人物として解説をさせていただきます。)

 

1535年】(42歳)

「土岐頼芸」を旗頭として、「土岐頼武」の子「土岐頼純」と戦う

これにより「美濃国」全土が戦禍に巻き込まれることとなる

 

1538年】(45歳)

美濃国の守護代「斎藤利良」が病死。

「長井新九郎規秀」こと「道三」は、「斎藤家」の名跡を継いで

「斎藤利政」

と改名

 

1539年】(46歳)

居城である「稲葉山城」を、改築し、難攻不落の名城へ造りかえる



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美濃の国盗り(1541~1552)

1541年】(48歳)

「斎藤利政」こと「道三」が

「土岐頼芸(とき よりのり)」

の弟「土岐頼満」を毒殺

 

1542年】(49歳)

「土岐頼芸」の「大桑城」を攻撃。

「土岐頼芸」とその息子「土岐頼次」を尾張国へ追放

これにより、「美濃の国盗り」完了。

 

1547年】(54歳)

「織田信秀」が「稲葉山城」を攻撃するが、「斎藤利政(道三)」に大敗する(加納口の戦い)

「土岐頼純」を殺害

 

1548年】(55歳)

娘「帰蝶」を「織田信長」に嫁がせる

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

 

1552年】(59歳)

織田信秀の支援を受けて、美濃国の敵を全て排除し、完全に美濃を統一

同年「織田信秀」が病死



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最期(1554~1556年)

1554年】(61歳)

家督を「斎藤義龍」へ譲り、鷺山城で隠居する

同時に出家して「斎藤道三」と名乗る

 

1555年】(62歳)

「斎藤義龍」が弟「孫四郎」と「喜平次」を殺害し、父「道三」にたいして挙兵。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

 

1556年4月】(63歳)

「長良川の戦い」で

「17500」の兵を率いた「斎藤義龍」と

「2500~2700」の兵を率いた「斎藤道三」が開戦

「斎藤道三」戦死。(享年63歳)



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道三の死後、「織田信長の国盗り」(1556~1567年)

1556年8月】(織田信長23歳)

「稲生の戦い」で弟「織田信勝(信行)」を撃破。

 

1558年】(25歳)

弟「織田信勝」を謀殺

 

1559年】(26歳)

上洛し、征夷大将軍「足利義輝」に謁見

 

1560年】(27歳)

桶狭間の戦い」で「今川義元」を撃破

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」

 

1561年】(28歳)

「斎藤義龍」病死。息子の「斎藤龍興」が家督を継承

徳川家康」と「清洲同盟」を締結する

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

 

1563年】(30歳)

本拠地を「清洲城」から「小牧山城」へ移す

 

1565年】(32歳)

尾張国「犬山城」を攻め落とし、「尾張国」を統一

将軍「足利義輝」が、「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」らによって殺害される(永禄の変)

 

1566年】(33歳)

西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)が斎藤家から織田信長に寝返る

 

1567年】(34歳)

織田信長が「稲葉山城」を攻め落とし、「岐阜城」と改名。本拠地とする



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『斎藤道三の失敗』について「ひとこと」いいたい

「道三」は、のちの自分を殺害することとなる息子「斎藤義龍」のことを「愚か者」と呼んで蔑んでいたといいます。

 

また、道三は主君である「土岐氏」や「斎藤氏」らと戦い、追い出すなど、傍若無人な振る舞いが目に付きます

 

その「手段を選ばないやり方」で、圧倒的な出世を果たしたのはいいのですが、そこから起こる「周囲からの不満」などに、道三はまともに対処できていなかったのでしょう。

 

「恐怖政治」

 

室町幕府6代将軍「足利義教」も、「斎藤道三」のような恐怖政治を行い、「嘉吉の変」で暗殺されています。

 

敵を恐怖で屈服させる「恐怖政治」というやり方は、長く続くものではないということでしょうね。

 

道三の遺志を継いだ「織田信長」も、道三と同じ運命をたどるのです。

 

それが道三の甥「明智光秀」によってであることは、皮肉としか言いようがありません。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

明智光秀が『本能寺の変』を起こすのは、道三が亡くなってから「26年後」、信長が美濃を攻め落としてから「15年後」のことでした。

 

「本能寺の変」について、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければ、お役立てくださいませ。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「斎藤道三」は幼名を「峰丸」といい、「長井規秀」「斎藤利政」などと名前を変えながら、出世を遂げていった

 

2,恐怖政治によってチカラをつけていった「斎藤道三」は、織田信長に娘「帰蝶」を嫁がせた後、織田家の協力を得て「美濃国」を完全に支配した

 

3,美濃国を統一した道三だったが、最期は息子「斎藤義龍」に裏切られて戦死した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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