暴れん坊将軍こと8代将軍「徳川吉宗」のエピソードを、簡単にご紹介いたします。
「名君」「中興の祖」と呼ばれる「徳川吉宗」
しかし、「名君エピソード」の他にも「悪のエピソード」が存在していた。
実は「徳川吉宗」の評価は、それほど高くなかった。実は「名君」どころか、国民を苦しめたバカ殿だった?
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この記事を短く言うと
- 徳川吉宗には、「部下の失敗をかばった」「領民から江戸へいくことを惜しまれた」などの美談・名君エピソードがある
- 吉宗は、ライバルたちが次々と不審な死をとげたことで出世をつづけ、「紀州藩主」「征夷大将軍」などに就任している
- 吉宗は、確かに「幕府の財政」を復活させたが、「経済政策」はまちがいだらけで、国民は「増税」に苦しんだ。
徳川吉宗の「名君エピソード」!優しいお殿様だった?
徳川吉宗(とくがわ よしむね)
徳川幕府・第8代将軍。紀州藩5代目藩主。初代「徳川家康」の「ひ孫」にあたる人物。
人気時代劇「暴れん坊将軍」の主人公であるため、日本人には馴染みのある存在ですね。
財政破綻寸前だった「紀州藩」と「徳川幕府」を復活させたため「中興の祖」と呼ばれる「徳川吉宗」。そのためか、名君とされるエピソードがたくさんあります。
1,大奥の美女たちを一斉にリストラ
八代将軍となった「徳川吉宗」。その政治方針は「質素倹約」。つまりは「節約してつつましく生活する」ことでした。
将軍となった吉宗は、将軍だけが入ることの出来る「女の園」大奥へ行き、「美女を50人ほど一ヶ所に集めておけ」と命令。
集まった大奥の美女たちに、一斉にクビを言い渡したのでした。これで、大奥にかかる多額の経費を削減することに成功したのです。
美しく、若い女性からクビにした理由は、「美女ならどこへ行っても働き口があるし、嫁の貰い手にも困らない」から。
相当な「倹約家」であることがうかがえます。
2,部下の失敗を隠す優しさ
吉宗が紀州藩主であったある日のこと。吉宗は下級役人に、「紀州藩の家計簿」を見せるようにと要求。吉宗が家計簿を見てみると、記入に間違いがありました。
ところが吉宗は部下を叱らず、「私が見つけたということは、秘密にしておけ。お前が見つけたことにして、修正せよ」と優しく指示。
感激した部下はそのことを上司や仲間に話してしまいます。すると家臣全員が「殿のためには命も惜しくはない」と忠誠心を新たにしたのでした。
3,吉宗の将軍就任を悲しむ紀伊の領民
吉宗が将軍に就任すると、紀州ではお祝いムードが高まりました。ところが、領民たちは全くお祝いの言葉を述べに来ません。
何事かと思い、村々のリーダーに尋ねてみると、「我々の殿様が江戸に取られてしまった。喜ぶものなんておりません」と、かえって紀州の領民を悲しませることとなったのでした。
4,「ふすま」を壊した藩士
ある日、若い藩士が酒によって「ふすま」を刀で切り裂いたのでした。
その報告を受けた吉宗は、彼らを許すと命じます。しかし、重臣たちは「罰しないと悪い前例を残すこととなる」とゆずりません。
それに対して吉宗は、「酒を飲むなときつく言い聞かせよ。そのかわり、『ふすま』は修理せず、そのままにせよ」と命令。
破れた「ふすま」をみた紀州藩士たちは、それ以後、自分たちのおこないをつつしんだと言われています。
5,優秀な次男ではなく、長男を後継者とした
吉宗の長男「家重(いえしげ)」は、、言語が不明瞭な人で、何を言っているのか聞き取りにくい人だったのです。それだけではなく、それほど優秀な人物ではありませんでした。
たいして次男「宗武(むねたけ)」は、とてつもなく優秀な人物でした。
周囲の人間は「宗武」が次期将軍となるだろうと考えていました。
ところが吉宗は、「古来からの風習」を守り、「長男・家重」を9代将軍にします。
これは、次男「宗武」を次期将軍とすることで、四男「宗尹(むねただ)」と次男「宗武」が、後継者争いを始めることを避けるためだったと言われています。
また、「家重」の息子「家治(のちの10代将軍)」は優秀で、吉宗は孫「家治」に期待したとも言われています。ところが「家治」は、政治に全く興味を持たない人物で、それほど優秀な功績を残した人ではありませんでした。
個人的な感情よりも、古来の「しきたり」を守った吉宗は、自らを理することが出来るヒトだったのです。
徳川吉宗の「極悪エピソード」!妻を亡くして遊びはじめた?
吉宗には「名君エピソード」のみならず、数々の「黒いエピソード」があります。
それを順にご紹介いたします。
正室「理子女王」との「愛?」のエピソード
吉宗の正妻は「理子女王」という皇室出身の女性でした。
15歳という若さで「紀州藩主」であった「吉宗」と結婚。その後、妊娠するも死産。産後、体調を崩し、わずか18歳という若さで亡くなってしまいます。
その後、吉宗は8代目の「征夷大将軍」に就任。
当時、将軍は「公家」から正妻をむかえる風習があったものの、吉宗は「理子女王」の死後、生涯にわたって「正室・正妻」をむかえることはありませんでした。
とはいえその後、吉宗は複数の側室に、多くの子供を産ませています。人妻や未亡人にまで手を出している始末です。(7代将軍の母「月光院」など)
「理子女王」が忘れられなかったのかどうかはわかりませんが、もしかすると「身分の高い正室」をもつことに、息苦しさを感じていたのかもしれません。先祖の「徳川家康」も、今川義元の姪だった正室『築山殿』にうんざりしていたと言いますし・・・。
吉宗は、けっこう女好きだったらしく、「天一坊事件」などの隠し子騒動が次々と起こっているのです。
天一坊(てんいちぼう)事件
1728年、品川にいた修験者「天一坊」という男が、「ちかいうちに大名になる」と大口を叩いて、浪人たちを次々と家来にしていると噂がたちました。
調べたところ、この男が、「吉宗の隠し子」であることを主張しているのだとか。
吉宗に確認した所、「身に覚えがある!」と証言。大騒ぎになりました。
しかし、慎重な調査の結果、天一坊が吉宗の子供ではないことが発覚。
「天一坊」は、品川で処刑されることとなったのです。
隠し子ではないことが発覚した・・・とはいえ、当時は「DNA鑑定」など存在せず、もしかすると「天一坊」は、本当に吉宗の子だったかもしれません・・・。
次々と不審な死をとげるライバルたち
吉宗は、四男でした。次男が夭折していましたが、それでも他に兄が二人がいたため、吉宗が「紀州藩主」となる可能性は、きわめて低かったのです。
しかし、「6代将軍」に内定していた3代目紀州藩主の兄「徳川綱教(つなのり)」が突然病死。
父である2代目「徳川光貞(みつさだ)」も直後に病死。
次に藩主となった4代目紀州藩主の次兄「徳川頼職(よりもと)」も病死。
父と兄二人が次々と亡くなったことで、吉宗は「紀州藩主」の座につくことが出来たのでした。
それだけではありません。
吉宗は当初、「征夷大将軍」になどなれない身分でした。
当時は「紀州藩主」であった「吉宗」よりも、「尾張藩主」だった「徳川吉通(よしみち)」と、その子「五郎田丸」が将軍職に近いはずだったのです。
ところが「徳川吉通」も、その子「五郎田丸」も、続けざまに亡くなります。
それのみならず、6代将軍「徳川家宣」と、7代将軍「徳川家継」も、あいついで病死。
本来なら「将軍」となるはずだった「徳川吉通」の弟で尾張藩主「徳川継友(つぐとも)」を、数々の多数派工作で退けた「吉宗」が、見事に8代将軍となったのです。
長兄「徳川綱教」
父「徳川光貞」
次兄「徳川頼職」
尾張藩主「徳川吉通」
尾張藩主の子「五郎太丸」
6代将軍「徳川家宣」
7代将軍「徳川家継」
7名もの偶然の死によって、「紀州藩主」と「将軍職」が転がり込んできた「徳川吉宗」。
全て「吉宗の暗殺によるもの」であるとはいいませんが、「全て偶然の死」なのでしょうか?偶然にしては、できすぎている気がしますがね。
徳川吉宗の「評価」は最悪!政治の才能はゼロだった
徳川吉宗は、「名君」と呼ばれています。
なぜなら、「享保の改革」と呼ばれる財政改革で、破綻寸前だった「徳川幕府」を復活させたからです。
しかしそれは破綻寸前だった『幕府』という組織から見た場合です。確かに吉宗は、「幕府」と「紀州藩」の財政を復活させました。
ところが、それが「国民」にとっても「幸福なこと」だったわけではありません。
なぜなら、吉宗は「増税」を次々と行ったからです。
吉宗は「定免制」「上米」という、実質的な「増税」で幕府の収入を増やし、一方で節約を徹底して、とにかくお金を貯め込んだのです。
今でいうところの「緊縮財政」です。
挙句の果てには、民衆にまで「節約」を命じたほど。
結果・・・・どうなったかというと、節約を命じられた国民はお買い物をひかえたのです。そのため「職人」や「農民」がつくった物や米は、まったく売れなくなり、彼らの給料は激減。
さらに、吉宗は「米の値段」に介入を続けたため、「米の値段」が暴騰。
「給料は下がって、物価は上がる」
という、最悪な状況におちいったのです。
つまり、吉宗は「経済オンチ」だったわけです。
そんな吉宗に、正しい「経済政策」を教えた人が二人いました。一人が、町の軍学者「山下幸内(やました こうない)」さん。
山下さんは「目安箱」という意見投書箱に、「正しい経済制裁をせよ」とアドバイス。
しかし、この山下さんの意見は、将軍の耳には届いたものの、採用はされませんでした。
もう一人が、吉宗の人生で最大のライバルだった尾張藩主「徳川宗春」さん。
宗春さんは、「節約」を無理やりやらせる「吉宗」に反発。尾張藩の「名古屋」で、「減税」と「金を使って賑やかに騒げ」と領民にすすめる政策をとります。
その結果、尾張藩は全国でもっとも栄えた町となり、今でもその風習が残っているのか、名古屋では冠婚葬祭を派手にやる習慣があるのだそうです。
そんな名君「宗春」さんは、吉宗ににらまれて引退させられます。吉宗は最初、自分に反抗的だった「宗春」をかわいがっていました。宗春も、吉宗に対して好意的な態度をとっていた時代もあったようです。
しかし結局、二人は物別れに終わったのでした。
結局、吉宗の政策は、「山下」「宗春」の努力も虚しく、全くかわりませんでした。
民衆にまで「倹約」をすすめたため、貨幣流通が滞り、デフレとなったのでした。それどころか「米の価格」へ介入したため、米の値段が高騰。
給料は下がるが、物価上昇という最悪な状況におちいり、いちおうは「幕府財政」を再建したものの、増税によるものであり、民衆は困り果てます。
そのため、吉宗の死後「一揆」が続発。吉宗の息子で9代将軍「徳川家重」に仕えた「田沼意次」が、「米の値段」ではなく「賄賂政治」と揶揄された「商人と通貨から税を徴収する政策」に着目します。なぜなら吉宗の「経済政策の失敗」があったからです。
その「田沼意次」も、吉宗の孫「松平定信」によって失脚させられ、世の中は再び「緊縮財政」へと戻ってしまうのでした。
『徳川吉宗』について「ひとこと」言いたい!
吉宗は確かに「経済オンチ」でした。
しかし、もしも吉宗がいなかったら、おそらく「江戸幕府」はもっと早くに滅亡していたでしょう。
吉宗がいなかったら、ペリーが来航した時点で、もう外国に侵略されて、日本は植民地となっていたかもしれません。
徳川吉宗が、なんとか幕府の寿命をのばしたからこそ、日本は「植民地」にされず、「日米修好通商条約」などの「不平等条約」のみで踏みとどまることができたのです。
もちろん、吉宗が「正しかった」わけではありません。吉宗が「享保の改革」で、正しい経済政策をとっていたら、日本は更に強く、さらに豊かになっていたはずですから、もしかしたら「不平等条約」すらも、締結せずに済んだかもしれません。
しかし、その功績を評価しないわけにはいかない気がするのです。
その後、徳川将軍は「吉宗」の子孫たちが代々つとめていくことになります。
9代「家重」10代「家治」11代「家斉」12代「家慶」13代「家定」14代「家茂」
全員が8代「吉宗」の末裔です。
ところが、最期の将軍「徳川慶喜」だけは、吉宗の血を引いてはおりません。
幕府の再建に命をかけた吉宗。その吉宗の血をひかない人物が、幕府を終わらせた・・・なんだか不思議な因縁を感じます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 8代将軍「徳川吉宗」には、「部下の失敗をかばった」「大奥の美女をリストラして、経費節減をした」などの「名君エピソード」が多数ある
- 徳川吉宗は、ライバルであった「兄たち」や「尾張藩主」たち、「将軍」たちが次々と亡くなったことで、「征夷大将軍」になれた
- 吉宗は幕府の財政を復活させたものの、吉宗は「経済オンチ」で、政策はまちがいだらけだった
以上となります。
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