この記事では「斎藤道三が【油商人】から、どのようにして【美濃国主】になれたのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「斎藤道三の前半生・下剋上ができた理由」を、カンタンに理解できます。
「斎藤道三」は、実は成り上がり者の苦労人ではなく「ボンボン」なのです。
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この記事を短く言うと
1,近年の研究によると、「斎藤道三」は一人で「美濃の国盗り」を成功させたのではなく、父「長井新左衛門尉」と二人で美濃国を奪い取ったと考えられている
2,「長井新左衛門尉」と「斎藤道三」は、美濃国守護代「長井氏」「斎藤氏」そして守護「土岐氏」を次々と下剋上で追いやり、20年の時間をかけて美濃国を支配した
3,「親子二代での国盗り」であるならば、斎藤道三は「油商人から成り上がった苦労人」ではなく、「優秀で裕福な二代目」ということになる
「斎藤道三」は、たった一人で「美濃国主になった」のではなかった!
「斎藤道三」は、父親と二人で、二代に渡って「美濃国主に成り上がった」と考えられています。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」
斎藤道三はこれまで「たった一人で油商人から美濃国主まで成り上がった」と考えられてきました。
ところが、近年の研究によると、「斎藤道三」の父「長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)」こそが、油商人だったといわれているのです。
ここでは「斎藤道三」と父「長井新左衛門尉」の二人で「美濃国主」を乗っ取った(国盗り)という前提で解説いたします。
斎藤道三は、「油商人」ではなく、有力武将「長井新左衛門尉」の息子で、裕福な家の二代目だったということです。
「油売り」から「美濃国主」にまでなった逸話を「年表・物語」で解説
【1494年】、のちの「斎藤道三」が誕生しました。
父の「松波庄五郎(庄九郎)」は、油商人の娘を妻とし、油商人として成功するようになります。
「【じょうご】をつかわずに、銭の穴を通して油を注ぎます。失敗したらお代はお返しします。」
つまり「パフォーマンス」をみせる商法で、父「松波庄五郎」は商売に成功したのです。
その後、「松波庄五郎」は、「僧侶」になったとも考えられています。
【1521年~】、正確にいつのことなのかはわかっていませんが、このころ「松波庄五郎」は「油商人」をやめて武士となり、美濃国守護「土岐氏」の家来であった守護代「長井長弘」に仕えます。
「長井長弘」に仕えると同時に、「松波庄五郎」は長井氏の重臣「西村」の名跡を継ぎ、「松波庄五郎」から「西村勘九郎正利」と改名しています。
【1527年】、「西村勘九郎正利」は、美濃国守護「土岐氏」の守護職争いに介入します。
土岐氏の次男「土岐頼芸」に味方し、長男「土岐頼武」を美濃国から追放したのです。
【1530~1533年】、「西村勘九郎正利」は、主君だった「長井長弘」を「不行跡あり」つまり「失態をおかした」という理由で殺害。
実はこの「長井長弘」を殺害した頃に、「西村勘九郎正利」が他界、または家督継承が行われたと考えられます。
「西村勘九郎正利」は死去か引退により、歴史の表舞台から消えるのです。
同時に「西村勘九郎正利」の息子が「長井長弘」の名跡を継承し、「長井新九郎規秀」と名乗って、歴史の表舞台に登場。
この「長井新九郎規秀」こそ、のちに「斎藤道三」であると考えられています。
【1535年】、「長井新九郎規秀」は、「土岐頼芸」を指示して、かつて美濃国から追い出した「土岐頼芸」の兄「土岐頼武」の子「土岐頼純」と交戦。
【1538年】、美濃国の守護代「斎藤利良」が病死します。
このとき、「長井新九郎規秀」は、守護代「斎藤氏」の名跡を継承し、「斎藤利政」と改名。
美濃国の守護代の地位を手に入れます。
翌年、「斎藤利政」は居城「稲葉山城」を難攻不落の要塞へと改修するのです。
【1541年】、「斎藤利政」は美濃国守護「土岐頼芸」の弟「土岐頼満」を毒殺。
【1542年】、美濃国「大桑城(おおがじょう)」にいた「土岐頼芸」を攻撃し、息子「頼次」ともども終わり国へと追放。
これにより、美濃国の国盗りに成功。
父「松波庄五郎」こと「西村勘九郎正利」とともに、20年にもわたる「斎藤道三の国盗り」は、見事に成功したのでした。
道三は「成り上がりの苦労人」ではなく、「ボンボン」だった?
これまで斎藤道三は、「油商人」「僧侶」「武士」と、3つの身分を渡り歩いて能力を発揮した「成り上がり者」と考えられてきました。
ところが、その「油商人」として成功したのが、「道三」ではなく父「長井新左衛門尉」であると判明したことで、その常識はくつがえりました。
長井新左衛門尉は、美濃国で「紙」の集積地をおさえた、とても裕福な武将であったと考えられています。
ということは、斎藤道三は若い頃から、裕福な父の「英才教育」を施された「ボンボン」「二代目」「跡取り息子」だったのです。
道三は「苦労人」でも「立身出世に成功した人物」でもありません。
ただし、その能力の高さは疑いようもありません。
斎藤氏の名前を乗っ取り、土岐氏を追放し、美濃国を支配した「斎藤道三」の手腕は、「無能な二代目」とは程遠いものなのです。
『斎藤道三』が「その後」どうなったのかを解説
斎藤道三は、美濃国を奪い取ると、宿敵であった「尾張国」の武将「織田信秀」に接近します。
娘の「帰蝶」を、「織田信秀」の息子「織田信長」に嫁がせて同盟を締結。
莫大な資金をもつ「信秀」の後ろ盾を武器にして、道三は美濃国の支配を強化していくのです。
ところが、その独裁的な支配体制は、美濃国の豪族たちからの反発をかいます。
【1552年】、「織田信秀」が病死した頃から、道三の何かが狂い始めるのです。
【1556年】、美濃国の豪族たちは、道三の子「斎藤義龍(高政)」をかつぎあげて、斎藤道三に戦いを挑みます。
「長良川の戦い」に敗北した「斎藤道三」は、かつて「正徳寺(聖徳寺)」で会談し、その非凡な才能を褒めちぎった娘婿「織田信長」にたいして、「美濃国のゆずる」と書かれた「国譲り状」を残して戦死。
織田信長は、道三が死んだ「11年後」に、美濃国を奪取し、一気に天下統一へと突き進むことになるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,近年では、「斎藤道三」は一人で「美濃の国盗り」したのではなく、父と二人で美濃国を奪い取ったと考えられている
2,父「長井新左衛門」と息子「道三」は、美濃守護代「長井氏」「斎藤氏」、守護「土岐氏」を下剋上で倒し、20年かけて美濃を支配した
3,「親子二代での国盗り」ならば、道三は、「商人から成り上がった苦労人」ではなく、「裕福な二代目」ということになる
以上となります。
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