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【斎藤道三】息子・娘や妻など家族をまとめて紹介!マムシの呪いとは

皆さんは「斎藤道三の子供や妻」を、ご存知でしょうか?

 

実は筆者も、今回の記事を書くために調査するまで、「斎藤道三の家族」について全然知りませんでした。

 

この記事では「道三の妻子」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「道三の家族」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「斎藤道三とその家族」に詳しくなることができます。

 

この記事を読んで、「斎藤道三の子供や妻たち」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「斎藤道三」には、「小見の方」や「深芳野(みよしの)」という妻がおり、「義龍」「帰蝶」といった複数の子供がいた

 

2,道三は、嫡子「斎藤義龍」と関係が悪く、「親子ではないかもしれない」という疑惑を逆に利用されて、殺された

 

3,道三の娘婿「織田信長」と、義理の甥「明智光秀」は、道三の遺領である「美濃」を土台に、天下統一へ進み続けた

斎藤道三の「息子」「娘」「妻」たちを一覧紹介

16世紀の岐阜県を中心に活躍した戦国武将「斎藤道三(さいとう どうさん)」。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

彼には、数多くの「息子」「娘」がおり、複数の「妻」がいました。

 

一覧でご紹介いたします。



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  1. 小見の方(明智光秀の叔母)
  2. 深志野(みよしの・元「土岐頼芸」の愛妾)

(この他にも、側室や愛妾がいた可能性が高い)

 

息子

  1. 斎藤義龍(【1561年】病死)
  2. 斎藤孫四郎(義龍により謀殺)
  3. 斎藤喜平次(義龍により謀殺)
  4. 日饒
  5. 日覚
  6. 斎藤利堯(さいとう としたか)、信長に仕えたのち、【1583年】「賤ヶ岳の戦い」の後に死去
  7. 斎藤利治(さいとう としはる)、信長に仕えたのち、【1582年】「本能寺の変」で戦死
  8. 長井道利(ながい みちとし)、道三の弟という説もあり。「義龍」「龍興」親子に仕え、【1571年】「摂津白井河原の戦い」で戦死
  9. 松波政綱(まつなみ まさつな)
  10. 養子:斎藤正義(養父・道三により謀殺)

 

  1. 姉小路頼綱・正室
  2. 土岐頼香・室
  3. 帰蝶(通称「濃姫」、「織田信長」の正室)
  4. 土岐頼純・室
  5. 斎藤利三・正室
  6. 伊勢貞良・正室
  7. 稲葉貞通・正室

 

「土岐頼芸(とき よしのり)」

 

この「土岐頼芸」という人は、室町幕府から任命された、美濃国の守護大名。

 

「土岐頼芸」は、「斎藤道三」の主君に当たる人物です。

 

斎藤道三は、この主君である「土岐頼芸」から、愛人「深芳野」をゆずりうけて、嫡子「斎藤義龍」を産ませます。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

これが、道三の悲劇の始まりでした。

 

「斎藤義龍(高政)」と「帰蝶」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

斎藤道三の子孫」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。


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斎藤道三と息子「斎藤義龍」の呪われた因縁

「マムシの呪い」

「斎藤道三」と「斎藤義龍」親子ですが、当時から「ある噂」がひろまっていました。

「実は血が繋がっていないのではないか?」

「親子じゃないのではないか」

 

「斎藤義龍」の母は、道三の側室「深志野(みよしの)」という女性です。

 

彼女は元々、道三の主君「土岐頼芸」の愛人でした。

 

彼女はその後、土岐頼芸から斎藤道三へと、褒美の代わりに与えられた女性だったのです。

 

道三に与えられた翌年、深芳野は「斎藤義龍」を出産しています。

《斎藤道三・土岐頼芸・義龍・家系図》
「家系図の引用等は、何卒ご遠慮くださいませ」

こういった事情から、「斎藤義龍」は当時から

「斎藤道三の息子ではなく、土岐頼芸の子ではないか」

と、噂されていたのです。

 

「蝮(マムシ)」

 

斎藤道三は、「美濃のマムシ」という「あだ名」をつけられていました。

 

「マムシ」とは、猛毒をもった蛇。

 

当時から日本人にとって、「マムシ」は身近な蛇でした。

「マムシは、親の腹を喰い破って産まれ出る」

そんな迷信を、当時の人は信じていたのです。(実際にはそんなことはない。また「蝮は親の口から生まれる」という噂もあるが、これも迷信)

 

「斎藤道三」は、主君の「土岐氏」を追放しています。

 

つまりは「下剋上」で、美濃国を奪った武将なのです。

 

そのやり方を、「親の腹を食い破るマムシ」に例えられ、「マムシの道三」と呼ばれたのです。

 

そんな道三は、息子である「斎藤義龍」と、仲が悪かったのでした。

「自分は斎藤道三の子ではなく、美濃国守護の土岐頼芸の子である」

斎藤義龍はそう主張し、【1556年】、父「斎藤道三」を「長良川の戦い」で討ち取り、美濃国の実権を奪います。

 

マムシのように、主君を追放して美濃国を奪った「斎藤道三」が、同じように息子「斎藤義龍」から、その腹を食い破られて亡くなったのです。

 

因果応報ということでしょうか。

 

名将「斎藤道三」は、「マムシの呪い」から、逃れることができなかったのです。

 

「斎藤道三の死因と最期」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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「斎藤義龍」は、道三の息子ではないのか?

結論からいえば、「斎藤義龍」は「道三」の実子だと思います。

 

「義龍は道三の息子ではなく、土岐頼芸の息子である」という説は、100年後の江戸時代の創作である、と考えられています。

 

実は、こういった「実子ではない」という例は、歴史上けっこうたくさんあります。

 

豊臣秀吉」の息子「豊臣秀頼」は、実は秀吉の子ではなく、「淀殿」とその幼馴染「大野治長」の子であると、当時から言われていました。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

 

秦の始皇帝」は、父「荘襄王」と母「趙姫」の子ではなく、宰相「呂不韋(りょふい)」と「趙姫」の子である、と言われていました。

≪始皇帝≫
「引用元ウィキペディアより」

 

徳川幕府三代将軍「徳川家光」は、二代将軍「徳川秀忠」と「お江の方」の子供です。

 

しかし実は、初代将軍「徳川家康」と「春日局」の子である、という説もあります。

《徳川家光》
「引用元ウィキペディアより」

こういった「出生の秘密」は、高い身分にいる者の正当性を否定し、その求心力を低下させるための策略として利用されていたのです。

 

斎藤義龍は、もともと父「道三」から低く評価されていました。

 

そのため、義龍は自分が後継者から除外されると考え、その前に父「道三」を倒すことを決めたのでしょう。

 

しかし「親殺し」という汚名は、領主としての求心力を低下させてしまいます。

 

そのため「父・道三を倒す正当な大義名分」が必要だったのです。

 

そこで「義龍」は、「道三と親子ではないかもしれない」という噂を逆に利用したのです。

「自分は斎藤道三に追放された、土岐頼芸の息子である。

父の復讐をするため、道三を討つ」

という大義名分をかかげて、父「斎藤道三」、弟「孫四郎」「喜平次」を討ったのでした。

 

おそらく「斎藤義龍」自身も、自分が「斎藤道三」の実子であるとわかっていたのでしょう。

 

わかっていながら、「親を殺害」した自分の正当性を主張するため、「土岐頼芸の息子」であると自称したと考えられます。



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道三の遺志を引き継いだ「二人の名将」

斎藤道三は、息子「義龍」に殺害されました。

 

しかし、その遺志は「二人の武将」に引き継がれることとなります。

 

道三は亡くなる直前に、娘婿「織田信長」に対して、「美濃一国をゆずる」と書かれた「国ゆずり状」を残しています。(この国ゆずり状は、「京都・妙覚寺」と「大阪城・天守閣」に現存している)

 

信長は、この「国ゆずり状」を大義名分として、美濃攻めを行います。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

1567年】、美濃国の攻略に成功した「信長」は、「斎藤義龍」の息子「龍興」を美濃から追放。

 

信長は、道三の居城「稲葉山城」を「岐阜城」と改名して本拠地にしています。

 

そんな織田信長は、美濃を攻め落としたころに、一人の武将と出会っています。

 

明智光秀」です。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

斎藤道三の妻「小見の方」の甥であり、信長の妻「帰蝶」の「いとこ」にあたる人物です。

 

光秀は、信長に「足利義昭」を引き合わせます。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

「足利義昭」を「征夷大将軍」に就任させるという大義名分のもとで、「京都へ向けて進軍(上洛)」するようにと勧めたのです。

 

これを受け入れた信長は、「天下布武」という印と、「平和な世」を象徴する神獣「麒麟(きりん)」を意味する「麟」という花押(サイン)を使い始めます。

《織田信長の花押「麟」》
「引用元ウィキペディアより」

信長と光秀は、怒涛の勢いで既得権益を次々と破壊。

 

「天下静謐(てんかせいひつ・平和な世の中のこと)」を実現すべく、斎藤道三がやろうとしていたことを受け継いだかのように、進み続けます。

 

道三の「天下への遺志」と、遺領である豊かな「美濃の国」は、「織田信長」「明智光秀」という、二人の名将に引き継がれたのです。

 

この「美濃」を土台として、二人は「天下統一」へ飛躍をし続けるのでした。

 

1582年】、「本能寺の変」までは・・・・ですが・・・。

 

「本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ



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『織田信長と斎藤義龍』について「ひとこと」いいたい

もしも「斎藤道三」と「義龍」の関係が良好だったら、斎藤家はどうなっていたのでしょうか?

 

おそらくですが、道三が生きている間は、美濃国は平和を保っていたでしょう。

 

もしかすると、信長と義龍は、義龍の異母妹「帰蝶」を通じて同盟を保っていたかもしれません。

 

二人で協力して、「足利義昭」を旗印にし、協力して京都へ向かっていた可能性もあります。

 

まるで、信長と協力して上洛した「浅井長政」のように。

《浅井長政》
『引用元ウィキペディアより』

ただ、信長はその後も急激に勢力を拡大していったはずです。

 

もしそうなったとしたら、信長は斎藤義龍に「臣従せよ」と迫ったはず。

 

もしくは「浅井長政」にしたように、同盟者ではなく、まるで「部下」のように扱ったはずです。

 

そうなると、義龍も「浅井長政」のように、信長と敵対していたでしょう。

 

とてもではありませんが、「徳川家康」のように、命がけで信長に臣従していたとは思えません。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

 

「斎藤義龍」・・・。

 

道三は死の間際に、その戦いぶりをみて、義龍の非凡さに気付き後悔した、と言われています。

 

信長という不世出の英雄が、すぐそばにいなかったら、義龍はもっと活躍していたかもしれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「斎藤道三」には、「義龍」や「帰蝶」などたくさんの子供がおり、「小見の方」「深芳野」ら複数の妻がいた。

2,道三は、息子「義龍」との関係が悪化し、親子関係の疑惑を逆に利用されて殺害された。

3,道三の遺志は、娘婿「織田信長」と、義理の甥「明智光秀」によって引き継がれた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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