13代将軍・徳川家定の死因について、わかりやすく解説いたします。
また、本当に「うつけ」だったのか?顔に「あざ」はあったのかも調査しました!
一説によると「家定は『うつけ』のふりをしていただけ」とか・・・。
そして、妻「篤姫」と仲が良い夫婦だったのか?
現実には「家定」が「名君」だった可能性は低く、「篤姫」との仲も良くなかったとおもいます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
徳川家定の死因は?暗殺されたという噂は本当か
徳川家定の死因は、暗殺ではなく、脚気とされています。
脚気とは、ビタミンB1の不足分で心不全が起こったりする病気です。
1858年8月14日、徳川家定は「35歳」という若さで亡くなりました。
「安政の大獄」という、大老「井伊直弼」が手動した「一橋慶喜派」を弾圧した事件。
その直後に亡くなったため、一橋派による暗殺を疑われました。
一橋派と言うのは、次の将軍に賢者とうたわれていた「一橋慶喜」を推進した方々のこと。
家定の妻「天璋院・篤姫」の養父「島津斉彬」も、「一橋慶喜」を推していた方。
篤姫が・・・一橋派を弾圧した家定を暗殺したのでは?という説もあるようです。
しかし現実的に考えて、それは可能性が低いです。
この時、家定は後継者に紀州藩「徳川家茂」を指名していました。
篤姫が、一橋慶喜を次の将軍に推していた養父「島津斉彬」の意思を継ぐなら、このタイミングで家定を暗殺しては、次の将軍は「徳川家茂」になってしまいます。
そして、篤姫は明治維新後も、徳川家の存続のために尽くしています。
徳川家の女として生きる覚悟を決めていたということでしょう。
彼女が、徳川当主「家定」を暗殺するとは、考えにくいです。
家定の死因は病死と言われています。
「脚気」又は「コレラ」が原因である可能性が高いです。
コレラは感染症ですが、脱水症状を起こして亡くなってしまう病気です。
暗殺の可能性は低いでしょう。
暗殺をおそれて、自ら料理をし「イモ公方」と呼ばれた程ですからね。
徳川家定の顔には「あざ」があった!
家定の顔には、病気でできたあざが、実際にあったといいます。
徳川家定・・・ドラマではよく、顔の目元にアザのある姿で描かれるお方。
実際に、家定の顔には「疱瘡(ほうそう)」という、体中に水疱(水ぶくれ)ができる病気を患った影響で、顔に「アザ」が残っていました。
肖像画には、アザは描かれていません。
「伊達政宗」も、肖像画で「両目がある姿」描かせました。
肖像画は、後世長く残るものですので、家定も政宗も、コンプレックスであった「アザ」と「隻眼」を残したくなかったのでしょう。
「うつけ」だった?実は「名君」だった説を検証
徳川家定【うつけ】説とは?
徳川家定は「うつけ」・・・つまり「愚者」だったという評価が一般的です。
「日本一賢いお殿様」と呼ばれた福井藩主「松平春嶽」は、徳川家定を酷評しています。
「凡庸の中でも、最も下等」
つまり、平凡な人物の中でも、最も劣っていると・・・。
更に、その松平春嶽の家来で、西郷隆盛が尊敬していた天才「橋本左内」もまた、家定を酷評しています。
「落ち着きがなくて、じっとしていられない。
言語不明瞭で、何言ってるのかわからない。
わからないことや難しいことに突き当たると、すぐに泣き始める。
とてもじゃないが、一人前の大人とは言えない。」
かなり病弱だった家定・・・・。運が悪かったのか・・・子供が出来ないまま、2人の正室は他界。
3人目の正室「篤姫」にも、子供は出来ず。後継者を残すことが出来なかった・・・・これは君主としては致命的です。
「脳性麻痺」であったという説もあり、足を踏み鳴らしたり、という変な行動も度々あったとのこと。当時は、現代ほど「脳性麻痺」に対する理解も深まっていませんでしたので、松平春嶽や橋本左内が、家定を酷評したのは仕方なかったのでしょう。
「将軍職・クビ」を意味する「押し込め」寸前の状態だったみたいです。
大河ドラマ「篤姫」では、暗君を演じる、実は聡明なお殿様・・という設定でしたが、実際に「暗君」だったのでしょう。
何と言っても、父の12代将軍「徳川家慶」が、後継者を家定ではなく、「徳川慶喜」にしようとしたほど・・。
ただ、お料理だけは得意だったようで、芋料理を好み「イモ公方」と呼ばれたみたいです。
「実は名君だった」「うつけのふりをしていただけ」説を検証
家定には、うつけのふりをしていただけで、実は名君だったという説がありますが、その可能性は低いです。
大河ドラマ「篤姫」では、堺雅人さん演じる「徳川家定」が
「うつけのふりをしているだけで、実は名君だった」
という設定になっていました。
実際に、「家定は、うつけのふりをしていただけで、名君だった」という説があるのです。
本当に「名君」だったのでしょうか?
個人的な意見で恐れ入りますが、「家定名君説」は、かなり可能性が低いと思います。
理由は簡単です。「うつけ」のふりをする理由がありません。
「うつけのふりした」といえば、「織田信長」が有名です。
しかし、信長が「うつけのふり」をしていたのには、明確な理由がありました。
「周辺の強国から攻撃されないように油断させる」ためです。
信長が治めた「尾張」の国は、美濃国「斎藤道三」や駿河国「今川義元」ら強国に囲まれ、危険な状態だったのです。
そのため、「うつけのふり」をして相手を油断させる戦略だったのです。
「家定」は?というと、うつけのふりをする敵が存在しません。
「西欧列強」「ペリー率いるアメリカ艦隊」などの敵をあざむくためにうつけのふりをしていた・・・ということも考えられなくもないですが、その必要性があるとは思えません。実際「うつけのふり」をしたことによる効果が何もありません。
- 病弱で子供ができなかった
- 若くして亡くなった
- 目立った結果が出せていない
などなど。これらのことから考えても、家定は本当に「うつけ」「脳性麻痺」「病弱」だったのでしょう。
「世間で言われているほど、うつけではない」
と証言していますが、家定を支える立場である「井伊直弼」。その立場を考えると、家定をフォローするのは当然でしょう。
以上のことから、家定が「実は名君だった」とは考えにくいと思います。
2018年放送の大河「西郷どん」では芸人「又吉直樹」さんが、家定を怪演しておられました。その演技があまりに見事だったため、思わず「家定の名君覚醒」を期待してしまいましたが・・・・・。家定が覚醒する前に、西郷どんが「もうよか」と言って死んじゃいましたからね。とっても残念です・・・。
篤姫との夫婦仲は、険悪だったのか?
家定と篤姫の仲は、特別よかったわけではなかったと思います。
薩摩から妻として嫁入りしてきた篤姫。篤姫と家定の夫婦関係はどうだったのでしょうか?
現実的に考えて、いくら病弱だったとは言え「子供がいない」ということは、夫婦仲が良かったとは言えないでしょう。
比べる相手が違うかもしれませんが、前田利常と珠姫をご存知でしょうか?
仲が良い夫婦だったと言われている「前田利家」の息子・利常と、徳川家康の孫「珠姫」の夫婦には「三男五女」の子供がいました。
篤姫・家定は、険悪とまではいかないまでも、仲が良いとは決して言えなかったと考えられます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 家定には、顔に「あざ」があり、福井藩主「松平春嶽」からは酷評されていた
- 篤姫との夫婦仲は、決して良くなかった
- 暗殺の可能性は低い
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
コメント
コメント一覧 (1件)
こんばんは。現代でも顔に【あざ】が有る方は男女問わず居られます。顔がどうこうよりもご性格が大切。色々な俳優さんが家定公を演じておられますが、本当はお優しい方ではなかったかと思いますね!わたくしが家定公の正室なら、側室は我慢しますが、愛する方のお子様は欲しいので寝夜のリクエストをします。リクエストが通るかは知りません。嫉妬するかも知れません。