徳川家定のあざは本当にあった!死因・篤姫との夫婦仲が原因の暗殺?

13代将軍「徳川家定」は本当に「うつけ」だったのか?顔に「あざ」はあったのかを調査しました!

一説によると「家定は『うつけ』のふりをしていただけ」とか。

そして、妻「篤姫」と仲が良い夫婦だったとか?

現実には「家定」が「名君」だった可能性は低く、「篤姫」との仲も良くなかった。


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この記事を短く言うと

徳川家定には「疱瘡(ほうそう)」「天然痘(てんねんとう)」の「あざ」が顔にあり、「うつけ」だった

篤姫との夫婦仲は、険悪ではないにしても、仲良しではなかった

・家定は妻の篤姫に暗殺された・・という噂が一部にあるが、可能性は低い


徳川家定の顔には「あざ」があった!

徳川家定・・・ドラマではよく、顔の目元にアザのある姿で描かれるお方。

実際に、家定の顔には「疱瘡(ほうそう)」という、体中に水疱(水ぶくれ)ができる病気を患った影響で、顔に「アザ」が残っていました。

肖像画には、アザは描かれていません。

「伊達政宗」も、肖像画で「両目がある姿」描かせました。

肖像画は、後世長く残るものですので、家定も政宗も、コンプレックスであった「アザ」と「隻眼」を残したくなかったのでしょう。


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「うつけ」だった?実は「名君」だった説を検証

徳川家定は「うつけ」・・・つまり「愚者」だったという評価が一般的です。

「日本一賢いお殿様」と呼ばれた福井藩主「松平春嶽」は、徳川家定を酷評しています。

「凡庸の中でも、最も下等」

つまり、平凡な人物の中でも、最も劣っていると・・・。

更に、その松平春嶽の家来で、西郷隆盛が尊敬していた天才「橋本左内」もまた、家定を酷評しています。

「落ち着きがなくて、じっとしていられない。

言語不明瞭で、何言ってるのかわからない。

わからないことや難しいことに突き当たると、すぐに泣き始める。

とてもじゃないが、一人前の大人とは言えない。」

かなり病弱だった家定・・・・。運が悪かったのか・・・子供が出来ないまま、2人の正室は他界。

3人目の正室「篤姫」にも、子供は出来ず。後継者を残すことが出来なかった・・・・これは君主としては致命的です。

「脳性麻痺」であったという説もあり、足を踏み鳴らしたり、という変な行動も度々あったとのこと。当時は、現代ほど「脳性麻痺」に対する理解も深まっていませんでしたので、松平春嶽や橋本左内が、家定を酷評したのは仕方なかったのでしょう。

「将軍職・クビ」を意味する「押し込め」寸前の状態だったみたいです。

大河ドラマ「篤姫」では、暗君を演じる、実は聡明なお殿様・・という設定でしたが、実際に「暗君」だったのでしょう。

何と言っても、父の12代将軍「徳川家慶」が、後継者を家定ではなく、「徳川慶喜」にしようとしたほど・・。

ただ、お料理だけは得意だったようで、芋料理を好み「イモ公方」と呼ばれたみたいです。


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「実は名君だった」「うつけのふりをしていただけ」説を検証

大河ドラマ「篤姫」では、堺雅人さん演じる「徳川家定」が

「うつけのふりをしているだけで、実は名君だった」

という設定になっていました。

実際に、「家定は、うつけのふりをしていただけで、名君だった」という説があるのです。

本当に「名君」だったのでしょうか?

個人的な意見で恐れ入りますが、「家定名君説」は、かなり可能性が低いと思います。

理由は簡単です。「うつけ」のふりをする理由がありません。

「うつけのふりした」といえば、「織田信長」が有名です。しかし、信長が「うつけのふり」をしていたのには、明確な理由がありました。

「周辺の強国から攻撃されないように油断させる」ためです。信長が治めた「尾張」の国は、美濃国「斎藤道三」や駿河国「今川義元」ら強国に囲まれ、危険な状態だったのです。そのため、「うつけのふり」をして相手を油断させる戦略だったのです。

「家定」は?というと、うつけのふりをする敵が存在しません。

「西欧列強」「ペリー率いるアメリカ艦隊」などの敵をあざむくためにうつけのふりをしていた・・・ということも考えられなくもないですが、その必要性があるとは思えません。実際「うつけのふり」をしたことによる効果が何もありません。

病弱で子供ができなかった」「若くして亡くなった」「目立った結果が出せていない

などなど。これらのことから考えても、家定は本当に「うつけ」「脳性麻痺」「病弱」だったのでしょう。

幕府大老井伊直弼」が

「世間で言われているほど、うつけではない」

と証言していますが、家定を支える立場である「井伊直弼」。その立場を考えると、家定をフォローするのは当然でしょう。

以上のことから、家定が「実は名君だった」とは考えにくいと思います。

2018年放送の大河「西郷どん」では芸人「又吉直樹」さんが、家定を怪演しておられました。その演技があまりに見事だったため、思わず「家定の名君覚醒」を期待してしまいましたが・・・・・。家定が覚醒する前に、西郷どんが「もうよか」と言って死んじゃいましたからね。とっても残念です・・・。


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篤姫との夫婦仲は、険悪だった?

薩摩から妻として嫁入りしてきた篤姫。篤姫と家定の夫婦関係はどうだったのでしょうか?

現実的に考えて、いくら病弱だったとは言え「子供がいない」ということは、夫婦仲が良かったとは言えないでしょう。

比べる相手が違うかもしれませんが、仲が良い夫婦だったと言われている「前田利家」の息子「前田利常」と、徳川家康の孫「珠姫」の夫婦には「三男五女」の子供がいました。

篤姫・家定は、険悪とまではいかないまでも、仲が良いとは決して言えなかったと考えられます。


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暗殺された?

1858年8月14日、徳川家定は「35歳」という若さで亡くなりました。

安政の大獄」という、大老「井伊直弼」が手動した「一橋慶喜派」を弾圧した事件。

その直後に亡くなったため、一橋派による暗殺を疑われました。

一橋派と言うのは、次の将軍に賢者とうたわれていた「一橋慶喜」を推進した方々のこと。

家定の妻「天璋院・篤姫」の養父「島津斉彬」も、「一橋慶喜」を推していた方。

篤姫が・・・一橋派を弾圧した家定を暗殺したのでは?という説もあるようです。

しかし現実的に考えて、それは可能性が低いです。

この時、家定は後継者に紀州藩「徳川家茂」を指名していました。

篤姫が、一橋慶喜を次の将軍に推していた養父「島津斉彬」の意思を継ぐなら、このタイミングで家定を暗殺しては、次の将軍は「徳川家茂」になってしまいます。

そして、篤姫は明治維新後も、徳川家の存続のために尽くしています。

徳川家の女として生きる覚悟を決めていたということでしょう。

彼女が、徳川当主「家定」を暗殺するとは、考えにくいです。

家定の死因は病死と言われています。「脚気」又は「コレラ」。

暗殺の可能性は低いでしょう。暗殺をおそれて、自ら料理をし「イモ公方」と呼ばれた程ですからね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・家定には、顔に「あざ」があり、福井藩主「松平春嶽」からは酷評されていた

・篤姫との夫婦仲は、決して良くなかった

・暗殺の可能性は低い

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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