皆さんは淀殿(茶々)を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 淀殿(茶々)は、浅井長政とお市の方の間に生まれた女性で、織田信長の姪。豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母
- 淀殿は、日本三大悪女と呼ばれた。性格は気が強かったが、妹たちや両親を大切にする女性だった
- 豊臣秀頼は、豊臣秀吉の実の子ではないと、当時から噂されていた
この記事では淀殿(茶々)を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は淀殿(茶々)について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、淀殿(茶々)に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
淀殿(茶々)のプロフィール
ここでは、淀殿のプロフィールと年表をご紹介いたします。
プロフィール
【名前】浅井茶々(通称・淀殿)
【生年】1569年
【没年】1615年
【父】浅井長政
【母】お市の方(織田信長の妹)
【伯父】織田信長
【夫】豊臣秀吉
【妹】初(京極高次の妻)、江(徳川秀忠の妻)
【子】豊臣鶴松・豊臣秀頼
【墓所】京都市の養源院、大阪市の太融寺
年表
永禄12年(1569年) | (1歳)近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれる。 |
天正元年(1573年) | (5歳) 父・浅井長政が伯父・織田信長と敵対して攻められ小谷城落城。父と祖父は自害、兄は秀吉が処刑 |
天正2年(1574年) | (6歳) 伯父・織田信包のもとで保護され、後に岐阜城に移る |
天正10年(1582年) | (14歳)本能寺の変で織田信長が死去。茶々は越前国・北の庄城に移る。 |
天正11年(1583年) | (15歳) 賤ヶ岳の戦いで母・お市の方が夫・柴田勝家とともに自害。茶々ら三姉妹は秀吉の保護を受ける。 |
天正16年(1588年) | (20歳) 秀吉の側室となる。 |
天正17年(1589年) | (21歳) 長男・棄(別名・鶴松)を生む。淀城を与えられ淀殿と呼ばれるようになる。 |
天正19年(1591年) | (23歳) 長男・鶴松が死去 |
文禄2年(1593年) | (25歳) 次男・拾(秀頼)を産み、政治に介入して豊臣氏の家政の実権を握る。 |
慶長5年(1600年) | (32歳) 関ヶ原の戦い。淀殿が協力した石田三成たち西軍が、徳川家康に敗北 |
慶長6年(1601年) | (33歳) 気鬱の病が激しくなり、症状に悩む。 |
慶長19年(1614年) | (46歳) 大坂冬の陣。大坂城の堀を埋める条件で和睦 |
慶長20年(1615年) | (47歳) 大坂夏の陣。大坂城落城し、淀殿は自害。 |
淀殿(茶々)の性格をわかりやすく簡単に解説
- 淀殿
- 北条政子
- 日野富子
この三名は、日本三大悪女として有名です。
しかし淀殿は、本当に性格が悪かったのでしょうか?
淀殿の性格は悪いの?
淀殿の性格は、過激な性格を物語るエピソードがたくさんありますが、悪かったわけではありません。
実は、彼女の性格について、気が強くて過激な性格であると噂されているのです。
それを物語るエピソードに、【醍醐の花見】と【大坂冬の陣】というものがあります
1598年、豊臣秀吉が亡くなる直前、同じく秀吉の側室だった有名な美女・松の丸殿という女性と揉めているのです。
秀吉は、【醍醐の花見】と呼ばれるイベントを開催。
そこで淀殿は、秀吉から下された盃を、ライバルである松の丸殿と奪い合ったといいます。
しかしこれは、彼女が自分の生家である浅井家の看板を背負っていたためでした。
松の丸殿は、浅井家のライバルだった名門・京極家の出身だったのです。
また、1614年の【大坂冬の陣】では、重さ数十キロもある鎧を着ていた逸話があります。
しかも大坂城内を走り回って、兵士達を鼓舞してまわったのだとか。
この大坂冬の陣も、淀殿が徳川家康への臣従を拒絶し続けたため起こったものといわれていました。
そのため、戦うことも辞さない、過激な性格だと思われていたようです。
3大悪女と呼ばれた理由とは?
淀殿が産んだ子が夫・秀吉の子ではないという噂があり、さらには豊臣家を滅亡へ追いやったからです。
淀殿が三大悪女のひとりに数えられた理由については
- 【秀吉以外の男性の子を産んだ(かもしれない)から】
- 【豊臣家を滅亡に追いやったから】
という2つでしょう。
淀殿は、秀吉以外の男性の子を産んだのか?
淀殿は、二人の子を産んでいます。
- 長男・鶴松
- 次男・秀頼
しかし当時からこの二人は、淀殿の夫である豊臣秀吉の子供ではないという噂がありました。
なぜなら、秀吉は子供がつくれない身体だったといわれていたからです。
秀吉はそれまで数多くの側室をもっていました。
ところが側室達は、淀殿を除けば、だれひとりとして子供を出産していません。
南殿と呼ばれる女性が
- 石松丸秀勝
- 女児
この2名を産んだといわれていますが、真相は不明です。
そんな秀吉が50歳を超えて、淀殿にだけ二人も子供を授かったのです。
そのうえ、秀吉の側室になる前または後に、別の男性との子供を出産している女性もいました。
そのため、淀殿が産んだ鶴松と秀頼は、当時から「秀吉の子ではない」と噂されたのです。
これは、【淀殿が夫以外の男性と関係をもったこと】を意味します。
この件については、のちほど詳しく解説いたします。
淀殿は、豊臣家を滅亡に追い込んだ?
淀殿を、【豊臣家を滅亡に追い込んだ】という人がいます。
豊臣家は、1615年の大坂夏の陣で、徳川家康に滅ぼされています。
実はこの大坂夏の陣は、淀殿がその気になれば、回避できるものでした。
この戦いは、豊臣家が徳川家康に降伏していたら、避けられたのです。
家康は降伏の証明として、大坂城に住む淀殿に、人質となって江戸城へ来るように要求していました。
ところが、淀殿はこれを拒絶。
交渉が決裂した徳川家と豊臣家は開戦し、豊臣家は滅亡。
実は、豊臣家の当主であった豊臣秀頼は、家康に降伏するつもりだったといいます。
それに対して淀殿は強く反対したのだとか。
母親に逆らえなかった秀頼は、ついに開戦へと追い込まれ、淀殿とともに自害。
淀殿は、我が子を死に追いやったのです。
もしも秀頼が家康に降伏していたら、豊臣家は滅亡せずに済んだはずです。
【秀吉以外の男性の子を産んだ】ことと、【豊臣家を滅亡させた】ことで、淀殿は悪女と呼ばれたのでしょう。
ちなみに、【淀殿が産んだ子の父は誰なのか?】と、【淀殿が豊臣家を滅亡させた理由】については後述します。
妹想いの優しい姉だった
淀殿は、初や江という二人の妹を守るために秀吉に身を捧げた、とても妹想いの女性でした。
悪女と呼ばれた淀殿でしたが、二人の妹を守るために、我が身を犠牲にしています。
妹二人の嫁ぎ先を保証させた
1583年、賤ヶ岳の戦いで、淀殿の母であるお市の方と、母の再婚相手である柴田勝家は亡くなります。
淀殿の母を死に追いやったのは、豊臣秀吉でした。
このとき、淀殿は15歳。
二人の妹と共に、淀殿は秀吉によって保護されます。
その後、秀吉は淀殿に対して、自分の側室になるように要求してきました。
もはや後ろ盾となってくれる伯父・織田信長も、母もいない中で、淀殿は妹達を守らなくてはいけませんでした。
そこで淀殿は、秀吉に対して、側室となることを受け入れる代わりに、交換条件を提示します。
妹二人の嫁ぎ先を世話して欲しいと要求したのです。
次女・初は、名門・京極家の当主である京極高次と結婚。
三女・江は、佐治一成という武将と結婚したもののすぐに離婚し、秀吉の甥・羽柴秀勝と再婚。
こうして淀殿は20歳で秀吉の側室となり、妹二人のその後の人生を保護したのでした。
妹・江の娘である完姫を育てあげる
淀殿が妹のために行ったことは、それだけではありません。
二人目の夫・羽柴秀勝と死別した三女・江は、徳川家康の息子である徳川秀忠と再婚します。
実はこのとき、江と秀勝のあいだには、完姫という娘がいました。
江は娘の完姫をおいて、秀忠に嫁いでいるのですが、残された完姫を淀殿は引き取って育てているのです。
淀殿は育てあげた完姫を、九条幸家という、お公家さんの名門中の名門に嫁がせています。
お市の方の孫である完姫、その子孫が現在の天皇陛下です。
→→→→→【お市の方の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
両親の菩提寺を建てる
妹想いなだけではなく、淀殿は親孝行な人でもあります。
秀吉の長男・鶴松を産んだ際に、狂喜乱舞する秀吉に対して淀殿は、養源院というお寺を建てることをねだっています。
京都市の養源院は、淀殿の両親である浅井長政とお市の方の菩提を弔うためのお寺です。
淀殿の死後、養源院は焼失しましたが、妹の江が再建しています。
妹達の将来を秀吉に保証させ、両親の菩提寺をつくり、妹の娘を育てて嫁がせた淀殿。
とても責任感の強い女性であることがわかります。
養源院を江が再建した際に、伏見城で戦死した鳥居元忠の血が染みついた床板が天井板に用いられ、血天井とよばれています。
余談ですが、この養源院の隣にある法住寺で【吉良邸討ち入り】の祈願をした赤穂四十七士・大石内蔵助は、鳥居元忠の子孫です。
→→→→→【鳥居元忠の最期と死因・子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら
これも余談だが、法住寺には【サザエさん】の作者である長谷川町子さんのお墓がある。
淀殿(茶々)とは、どんな人?
ここでは淀殿の功績をご紹介いたします。
息子・豊臣秀頼とともに【大坂の陣】で亡くなる
1615年、淀殿は【大坂夏の陣】で、息子の豊臣秀頼とともに、徳川家康に攻め滅ぼされ亡くなっています。
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、豊臣家を上回る力を手に入れました。
【関ヶ原の戦い】とは、淀殿の兄・万福丸が秀吉によって処刑された、あの【関ヶ原】で行われた日本を二分した、天下分け目の戦いです。
その後、徳川家康は征夷大将軍に就任して、江戸幕府を開きます。
家康は、淀殿と秀頼に、何度も服従するように迫りますが、秀頼と淀殿はこれを拒絶。
1614年、方広寺鐘銘事件をきっかけに、大坂冬の陣が勃発。
真田信繁(幸村)の真田丸での活躍により、大坂城の堀を埋めることを条件に和睦。
1615年、豊臣秀頼が大坂城の堀を掘り返したため、大坂夏の陣が起こります。
最強の防御要塞・大坂城の防御力を失った豊臣軍は、呆気なく敗北。
大坂城が炎上する中で、籾倉に隠れた淀殿と秀頼は、自害した上に、火薬で自爆したといいます。
浅井長政・お市の方の長女として生まれる
淀殿は、母・お市の方と、近江国(滋賀県)の大名であった父・浅井長政のあいだに、長女として誕生しました。
当初、淀殿は茶々という名前をつけられていました。
母・お市の方の兄は、戦国の覇者・織田信長です。
そのため淀殿は、織田信長の姪にあたります。
父・浅井長政と、伯父・織田信長は、同盟を結んで協力関係にありました。
1570年、信長が越前(福井県)の武将・朝倉義景を攻撃したとき、事件は起こりました。
なんと浅井長政が、義兄・織田信長を裏切って、その背後を攻撃したのです。
長政の裏切りに激怒した信長は、1573年、ついに淀殿(茶々)が住む小谷城を攻撃。
浅井長政は、敗北の直前に妻・お市の方と、茶々たち三人の娘を、織田信長に送り出したといいます。
このとき、茶々の兄・万福丸は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)につかまり、関ヶ原で処刑されています。
この【羽柴秀吉】という人物と、兄が最期を遂げた場所【関ヶ原】が、彼女の人生を大きく狂わせることになります。
両親の仇である豊臣秀吉の側室となる
1588年、淀殿(茶々)は、両親や兄を死に追いやった豊臣秀吉(羽柴秀吉)の妻(側室)となります
1582年、本能寺の変によって、淀殿の伯父・織田信長が、明智光秀に討たれて亡くなっていました。
1583年、織田信長が亡くなったあとの天下をめぐって、羽柴秀吉と柴田勝家という武将が戦います。
これを賤ヶ岳の戦いといいます。
実は、柴田勝家は、淀殿の義理の父にあたる人物でした。
母親のお市の方が、柴田勝家と再婚していたのです。
羽柴秀吉に敗北した柴田勝家は、妻・お市の方とともに、北庄城で亡くなります。
淀殿たち三姉妹は、秀吉によって保護されることになるのです。
こうして淀殿は、兄や母そして義理の父を死なせた仇である羽柴秀吉によって養われることとなるのです。
秀吉は、なんと淀殿に対して、自分の側室つまり妻となるように迫ります。
1588年、淀殿は秀吉の側室になります。
その後、淀殿は奇跡的に、本当に奇跡的に、秀吉の子供達を身籠るのです。
豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼を産む
淀殿は、豊臣秀吉の二人の子である鶴松と秀頼を産んでいます。
鶴松は幼くして亡くなってしまいました。
しかし、豊臣秀頼は2m近い巨漢へと成長を遂げます。
秀吉は、子宝にまったく恵まれない人でしたが、淀殿だけが子供を出産したのでした。
この【唯一淀殿だけが秀吉の子供を産んだ】という事実が、淀殿の権力を強めます。
秀吉には、北政所(本名・ねね)という正室つまり正妻がいました。
他にも大勢の側室がいました。
ところが、誰一人として、秀吉の子を産めなかったのです。
そんな中で、たった一人、淀殿だけが秀吉の後継者を産むことに成功したのです。
そのため、淀殿は秀吉から気に入られました。
子供を産んだことで淀殿は、秀吉の正室である北政所を超えるほどの権力を手にいれたのです。
淀殿(茶々)の逸話・エピソード集
ここでは淀殿(茶々)にまつわる逸話・エピソードをご紹介いたします。
淀君という名前の由来
淀殿は、以前は淀君と呼ばれていた。「君」とは遊女につかわれる侮辱の意味があったが、近年は淀殿と呼ばれている
淀殿は、江戸時代を通じて「淀君」と呼ばれていました。
この淀君という呼び方は、遊女に対する呼び方でした。
秀吉以外の男性と関係していた噂がある淀殿を、江戸幕府は悪役としておとしめようとしたのです。
実は当時、淀の方と呼ばれていました。
淀殿や淀君という呼び方は、彼女が亡くなった後に広まった呼び方なのです。
家康に最後まで抵抗した淀殿は、江戸幕府にとって悪役でなければ都合が悪かったのでしょう。
秀吉の正室・北政所(ねね)との関係
近年の研究では、淀殿と北政所(ねね)の関係は、悪くなかったといわれています
淀殿と北政所(ねね)は、秀吉の側室と正室という関係です。
つまり上下関係でいえば、正室である北政所のほうが偉いということになります。
ところが秀吉の死後、この立場が逆転します。
理由は簡単です。
淀殿は秀吉の後継者である豊臣秀頼を産んだからです。
北政所は、秀吉の子供を産むことができませんでした。
大名達は、秀頼の生母である淀殿に頭を下げて、その影響力は絶大なものがありました。
それに対して北政所(ねね)は、秀吉の死後、大坂城から出て行っています。
北政所が大坂城から出て行ったのは、淀殿を嫌い、両者の関係が悪化したためだと考えられていました。
ところが近年の研究では、淀殿と北政所の関係は、悪くなかったといわれています。
淀殿と北政所は、協力関係にあったというのです。
淀殿は、我が子・秀頼を守るために力を尽くし、北政所は夫・秀吉とつくった豊臣家を守るため、協力していたというのです。
また北政所からすれば、豊臣家を守ることは、実家である木下家(兄・木下家定)を守ることにもつながります。
なぜなら木下家は、豊臣家の臣下として大名に取り立てられていたからです。
淀殿は秀頼の後見人として力を尽くしていました。
そして北政所は、亡き夫・秀吉の菩提を弔うことに専念していました。
秀頼の後見と、秀吉の弔いという、役割分担がきれいにできていたのです。
また、秀頼が天然痘に感染して命の危機に瀕したことがありました。
そのとき北政所は、担当医だった名医・曲直瀬道三に対して、秀頼の容体を問い合わせています。
北政所は、秀頼のことを心配していたのでしょう。
淀殿と北政所(ねね)の関係は、決して悪かったわけではありません。
豊臣家を守るという共通の目的のための、協力関係だったのです。
死因と最期の様子
淀殿は、大坂夏の陣で敗北し、息子の秀頼とともに籾倉で自害しています。
淀殿は、1615年に起こった大坂夏の陣で、息子の秀頼とともに亡くなっています。
1614年、大坂冬の陣が勃発。
このとき淀殿の目の前で、侍女に大砲が命中したといいます。
恐怖した淀殿は、周囲に徳川家康との和睦(仲直り・休戦)を指示したのでした。
この和睦の条件が、最強の要塞・大坂城の無力化つまり堀の埋め立てだったのです。
その後、真田信繁(幸村)たち大坂城の浪人衆が、堀を掘り返そうとしたため、大坂夏の陣が勃発。
大坂城の防御力を失った豊臣軍は、あっけなく敗北。
淀殿は秀頼と共に、大坂城の山里丸にあった倉へ避難。
家老・大野治長は、秀頼の妻で家康の孫娘だった千姫を返還し、家康に淀殿と秀頼の命乞いを試みました。
ところが二代将軍・秀忠が、淀殿と秀頼に自害するように命じたのでした。
結局、淀殿と秀頼は、倉の中で自害。
さらに倉から出火したといいます。
淀殿は、我が子とともに最期を遂げたのでした。
→→→→→【千姫の最期と死因・子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら
ご遺体のゆくえと生存説
淀殿のご遺体は行方不明で、薩摩(鹿児島県)または上野(群馬県)で生存していたという説があるのです
淀殿のご遺体も、秀頼のご遺体も、実は見つかっておりません。
そのため、当時から生存説が噂されていたといいます。
淀殿と秀頼が自害した倉から出火したため、ご遺体が誰のものなのかわからなかったのでしょう。
本能寺の変で亡くなった織田信長も、出火が原因で身元を特定できなかったといわれています。
ご遺体が見つからなかった淀殿と秀頼には、薩摩藩での生存説があります。
薩摩藩の島津家が、秀頼と淀殿をかくまったというのです。
「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」
戦後、こんな歌が流行したといいます。
薩摩には、秀頼の墓とされるものが残っているのだとか。
また、上野(群馬県)にも淀殿の生存説があります。
群馬には、淀君神社というものが存在しているといいます。
ただ、秀頼のご遺体かもしれないとされる白骨が、大阪城から発掘されたという逸話があるようです。
→→→→→【豊臣秀頼のご遺体と生存説!天草四郎は秀頼の息子?】についてくわしくはこちら
美人で高身長だった?
淀殿は当時の平均を超える168cmだったとか。
そして、母・お市の方は美女ですが、淀殿は美女とは言い難い気がします。
淀殿は、秀吉からの寵愛を受けていたため、よく美人だったといわれます。
しかし、筆者個人の意見を述べさせてもらうと、美人ではなかったと思います。
肖像画をご用意いたしましたが、皆様のご意見は如何でしょうか?
実は、淀殿が美人だったという話は、当時の人が記した手紙などには記されていないと、歴史学者・本郷和人先生がおっしゃっておられました。
ところが、同じく秀吉の側室だった松の丸殿については、美人だったという資料がたくさんあるのだとか。
- 淀殿の母親が美人と名高いお市の方だったこと
- 淀殿がゆいいつ秀吉の子供を二人も産んだため、秀吉の寵愛を受けるほどの美人だったのだろうと推測されたこと
淀殿が美人だったという話は、この二つのことが原因で広まったのでしょう。
筆者が思うに、淀殿は美人とは言い難い気がします。
淀殿の母親であるお市の方の肖像画もご用意いたしました。
お市の方については、筆者は文句なしに美人だと思うのですが、皆様はいかが思われますでしょうか?
また、淀殿は相当な高身長だったといわれています。
当時は男性でも、平均身長150cm程度だったといいます。
しかし淀殿は、168cm(または158cm)だったといいます。
秀吉は140cm程度だったそうですから、秀吉よりも大きかったことになります。
これは父・浅井長政も、母・お市の方も、そろって高身長であったためだと考えられます。
- 浅井長政は、180cm
- お市の方は、165cm
- 豊臣秀頼は、197cm(161kg)
淀殿と血のつながりのある人たちは、誰もが並外れた体格です。
140cmと小柄だった秀吉の子・秀頼が197cmというのが、不思議な気もします。
親の仇である秀吉と結婚した理由
淀殿が秀吉の側室となったのは、幼く頼る大人もいない妹たちを守るため、秀吉の要求を聞き入れる以外になかったからです
淀殿が嫁いだ豊臣秀吉は、彼女にとっては親の仇でした。
1583年、淀殿の母・お市の方は、秀吉に攻められて、北庄城で再婚相手の柴田勝家とともに自害しています。
1573年、淀殿の父・浅井長政は、織田信長に攻められて自害しています。
このとき秀吉が、浅井長政が守る小谷城攻撃に加わっていました。
さらに、秀吉はこの小谷城攻撃の際に、逃亡しようとした淀殿の兄・万福丸を捕まえ、関ヶ原で処刑しているのです。
つまり淀殿からすれば秀吉は、母と兄と義父を死なせ、実父の死に関わった人物なのです。
それにもかかわらず、淀殿が秀吉の側室となったのは、それを拒絶する術がなかったからでしょう。
淀殿は、妹二人とともに秀吉の庇護を受けていました。
妹たちを人質に取られれば、まだ10代の子供である淀殿には、何もできないことなど明らかです。
そこで淀殿は、せめて避けられない運命ならばと、二人の妹の嫁ぎ先を探せという条件を提示したのでしょう。
次女・初の嫁ぎ先は、力を失ったもののバサラ大名・佐々木道誉の末裔である名門・京極家の京極高次。
三女・江は、2度の結婚に失敗したものの、3度目の結婚相手は、徳川家康の三男で二代将軍となる徳川秀忠。
妹二人の安全を確保したことで、淀殿の計画は成功しました。
次は、淀殿の両親の菩提を弔うこと。菩提を弔うとは、死者が極楽浄土へ行けるよう仏様にお願いする行為です。
秀吉の子を産んだことで、その褒美として、京都に両親の菩提を弔うための寺・養源院の建立の許可をもらっています。
秀吉が淀殿を側室に望んだ理由
さて、ここで秀吉が淀殿を側室に望んだ理由についても解説いたします。
【お市の方に恋をしていた秀吉は、亡くなったお市の方が忘れられず、瓜二つだった娘の淀殿を側室とした】
という説を聞いたことがあると思いますが、それは違うと思います。
そもそも秀吉は、お市の方と会ったことすらないはずです。
ではなぜ、秀吉は淀殿を側室にしようとしたのでしょう。
それは秀吉の弱点を補うためです。
秀吉の弱点とは、すなわち【農民出身で身分が低かったこと】と【先祖代々の家臣団がいない】ということです。
秀吉が淀殿を側室にしたいと望んだ理由は、その血筋が織田信長とつながっていたからです。
天下人となった秀吉ですが、農民出身で先祖代々の家臣団がいない秀吉にとって、旧織田家の家臣団を味方にすることは必要不可欠でした。
たとえば前田利家や徳川家康など、織田家の家臣だった人々を心から服従させるには、彼らが心から服従していた織田信長の血を引く子供を産む必要があったのです。
秀吉は、淀殿のほかにも、織田信長の娘である三の丸殿を側室としています。
つまり秀吉は、豊臣家の血筋を織田信長の血筋と繋げることで、織田信長に忠誠を誓っていた人たちに、そっくりそのまま豊臣家に忠誠を誓わせようとしたのです。
織田信長の血を引く淀殿が秀頼を産んだことで、前田利家などは秀頼を大切にしたといいます。
しかし、秀頼を産んだ淀殿の計画は、秀吉の思惑を上回るものだったのかもしれません。
淀殿が産んだ鶴松と秀頼は、秀吉の子ではなかったかもしれないのです。
秀頼は、秀吉の子ではなかった?
豊臣秀頼は、秀吉の子ではない可能性があります。
これから申し上げることは、あくまでも推測です。
歴史上の事実としては、豊臣秀頼は、太閤・豊臣秀吉の息子です。
しかし、秀吉には子供をつくる能力がない、と当時から噂されていました。
宣教師のルイス・フロイスは、秀吉には子供をつくる能力がないといっています。
しかし、そんな秀吉がたくさんいる側室たちの中で、淀殿だけが2人も子供を授かっています。
しかも秀吉が50歳を過ぎたときに生まれているのです。
ちなみに、秀吉の側室たちは、側室となる前後に子供を産んでいる人も少なくありません。
例えば、先ほどご紹介いたしました松の丸殿は、秀吉の側室となる前に二男一女を産んでいます。
秀吉の側室・香の前は、秀吉から伊達政宗へ下げ渡されて側室となり、一男一女を産んでいます。
歴史学者・本郷和人先生は
【豊臣秀頼は、秀吉の実の子供だと思いますか?】
という質問を現役の医師にしたことがあるそうです。
その答えは
【もしも鶴松・秀頼の二人とも秀吉の実の子ならば、それはもう奇跡だ】
というものだったそうです。
実は秀吉は、淀殿が産んだ秀頼が、自分の子ではないということに気がついていた可能性があります。
鶴松が生まれた時は狂喜乱舞した秀吉でしたが、秀頼が生まれた時は非常に冷静でした。
正室である北政所に対して、こんな手紙を送っています。
【今度生まれた子は、もう茶々(淀殿)ひとりの子ということにしましょう】
つまり秀吉は当初、秀頼を自分の子供と認めていないのです。
秀吉が朝鮮出兵で忙殺され、肥前名護屋城にいた際に、突然淀殿は秀頼を妊娠しているのです。
実は秀吉は淀殿が妊娠した後、その周辺にいた女中や家臣たちを処刑しています。
これはおそらく、淀殿が他の男との関係を疑い、淀殿の身辺警護をしていた者たちを処刑したのでしょう。
ところが、秀吉は自分の子ではないはずの秀頼を、徐々に溺愛し始めます。
一度は家督をゆずった甥・秀次を処刑して秀頼を後継者に定め、死の間際には【秀頼を頼む】と、しつこく家臣たちに念を押し続けました。
秀吉は子宝に恵まれなかったためか、小さい子供を溺愛する人でした。
宇喜多秀家を我が子同然にあつかい、前田利家からゆずってもらった養女・豪姫には
「男だったら関白になれた(豪姫が男だったら、私の後継者になれた)」
というほど、豪姫を溺愛し、同じく可愛がった宇喜多秀家と結婚させたほどです。
秀吉は、徳川家康の子である結城秀康を養子として
【秀頼様に何かあったら、俺は大坂城へ駆けつける】
とまで言わせるほど、結城秀康をかわいがったのだとか。
もしかすると秀吉は、秀頼が実子ではないと知りながらも、もしかしたらという可能性を捨てきれず、愛情をおさえられなかったのでしょう。
本郷和人先生がいうには、当時は血が繋がっていなくても、家を存続できるなら、血縁のないものを後継者にすることも問題なかったのだとか。
秀吉は実の甥を死なせても、秀頼に天下をゆずりたかったのでしょう。
秀頼の実父は、淀殿の幼馴染・大野治長という武将だといわれています。
1615年、大坂夏の陣で、淀殿は秀頼や大野治長とともに、自害して亡くなります。
淀殿は、秀吉の血を引いていない秀頼に豊臣家を乗っ取らせ、最期には滅亡へと追い込んだのかもしれません。
とはいえこれは、あくまでも推測であり、秀頼が秀吉の子ではないという確証はありません。
今後もはっきりとわかることはないでしょう。
もしかすると淀殿は自滅覚悟で、母の仇討ちに成功したのかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 淀殿(茶々)は、浅井長政とお市の方の間に生まれた女性で、織田信長の姪。豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母
- 淀殿は、日本三大悪女と呼ばれた。性格は気が強かったが、妹たちや両親を大切にする女性だった
- 豊臣秀頼は、豊臣秀吉の実の子ではないと、当時から噂されていた
以上となります。
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