天璋院・篤姫をご存知でしょうか?
13代将軍・徳川家定の妻となった彼女には、なぜ子供がいないのでしょう?
結婚理由がそもそも【子宝目当て】だったのに、なぜ?
理由は、夫・徳川家定が、病弱であったために、子供を望むことすらできない状態だったから・・・。
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この記事を短く言うと
- 篤姫には子供がいなかった
- 子供がいなかった理由は、夫・徳川家定が病弱だったため
- 篤姫の輿入れ(嫁入り)は、そもそも世継ぎ・子供をもうけることが目的であった
篤姫には、全く子供がいなかったの?
結論【天璋院篤姫には、ひとりの子供もいなかった】
安政3年(1856年)に、江戸幕府13代将軍・徳川家定の正室として、薩摩藩の篤姫が嫁ぎました。
安政5年(1858年)に、夫の徳川家定が死去してしまいます。
結婚生活が1年9か月と短かったこと、また家定が病弱であったこともあり、篤姫自身に子供ができることはありませんでした。
ですが、母親代わりをつとめたことはあります。
15代将軍・徳川慶喜が、新政府に攻められ隠居してしまいました。(江戸城無血開城)
1868年、明治政府の許可を受けて、徳川慶喜のあとを継いだのが、当時4歳だった田安亀之助(後の徳川家達)です。
篤姫は、その田安亀之助の後見人のような役割をつとめました。
彼女は母親代わりとして、徳川宗家の子である亀之助の面倒をみていたのです。
篤姫には、なぜ子供ができなかったの?
結論【篤姫に子供ができなかった理由は、夫・徳川家定が病弱だったから】
夫である将軍・徳川家定は病弱であり、篤姫が嫁ぐ前にも正室はいたものの、子女に恵まれることはありませんでした。
それどころか側室にも、子供ができることはありませんでした。
そのため子供ができなかったのは、篤姫に問題があるわけではありません。
夫である【徳川家定の虚弱さ】が原因であるといわれています。
3人目となる正室の篤姫には、子供ができるには時間も少なかったのです。
なぜなら、夫・徳川家定が35歳で亡くなったため、結婚生活が1年9か月しかなかったのですから。
篤姫が徳川家定の妻となったのは【出産】が目的だった
結論【そもそも篤姫が徳川家定に嫁いだ理由は、彼女に将軍家のお世継ぎを産んでもらうため】
13代将軍・徳川家定には子供が無く、お世継ぎ、つまり後継者がいなかったことが、幕府にとって大きな課題でした。
家定は篤姫が正室として嫁ぐ前、お公家さんから正室を2人もむかえていました。
しかしその2人とも早くに亡くなり、子供つくることができませんでした。
家定の先々代にあたる11代将軍・徳川家斉は、家定とは異なり53人もの子に恵まれていました。
家斉は正室を、薩摩藩の藩主・島津重豪の娘・広大院をむかえていたのです
そこで幕府は、子宝に恵まれる縁起を担ぎ、薩摩藩から藩主・島津斉彬の養女である篤姫を正室としてむかえることにしました。
島津斉彬は、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を次の将軍に推すための内部工作員として、篤姫を家定に嫁がせたという説もあります。
島津家からの輿入れは、徳川家定が将軍になる前から、大奥より要請されていたことです。
そのため、次の将軍を誰にするのかという問題とは無関係だ、という説が近年では主流となっています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 天璋院篤姫は、生涯子供をもうけることはなかった
- 子供ができなかったのは、夫である13代将軍家定が病弱で、結婚後まもなく亡くなった
- 篤姫が幕府に嫁いだのは、子沢山だった11代・徳川家斉の正室が薩摩藩出身だったからで、縁起を担がれたものだった
以上となります。
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