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武田信玄の家臣団一覧!名臣・四天王の最期と最強の武将が誰か考察!

武田信玄の家臣団一覧!

名将たち・武田四天王の最期とは?

最強の武将が一体誰だったのかを考察してみました


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

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この記事を短く言うと

・武田家には、「武田二十四将」と呼ばれる名将たちだけではなく、他にも優秀な武将が数多くいた

・武田四天王は2組、合計8名いた。第二期四天王の内3名は「長篠の戦い」で戦死した

・最強は「真田昌幸」及び真田一族ではないだろうか


武田二十四将とその他の家臣

日本一と言われた武田軍団

そんな武田軍を支えた名臣・名将たちは数多くいます。

特に、武田信玄に使えた23名の名将たち・・・信玄自身を加えて「武田二十四将」と呼ばれました。

その24名とは以下の通り

 

武田信玄(晴信)

武田信繁(武田信玄の弟)

武田信廉(武田信玄の弟)

一条信龍(武田信玄の弟)

内藤昌豊

馬場信春

山県昌景(飯富虎昌の弟)

高坂昌信

甘利虎泰

板垣信方

飯富虎昌(山県昌景の兄)

秋山虎繁

穴山信君(武田信玄の甥)

小畠虎盛

小幡昌盛(小畠虎盛の息子)

三枝守友

真田幸綱(真田幸村の祖父)

真田信綱(幸綱の子・真田昌幸の兄)

多田満頼

土屋昌次

原虎胤

原昌胤(虎胤と同族)

横田高松

山本勘助晴幸

諸説あるため、上記以外の人間を「二十四将」に含む場合もあります。



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この他にも、武田信玄に仕えた名臣は数多くいます。

武田勝頼(信玄の四男)

真田昌輝(幸綱の子・信綱の弟)

真田昌幸(幸綱の子、信綱・昌輝の弟、真田幸村の父)

小幡信貞

甘利昌忠(甘利虎泰の子)

小原広勝

栗原信盛

曽根昌清

曽根昌世

諸角虎定

これらの名将たちが、「戦国最強・武田」の名前を護り続けたのでした。

しかし彼らのほとんどが、1575年の「長篠の戦い」で戦死してしまうこととなります。



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武田四天王とその最期

武田四天王・・・

実は武田四天王は、二組存在しています。

一期と二期に分けられるため、合計で8名います。

一期の武田四天王とその最期は

板垣信方」(1548年、村上義清との上田原の戦いで戦死)

甘利虎泰」(板垣信方と同じ戦いで戦死)

飯富虎昌」(1565年、信玄の息子・義信の謀反に加担し、処刑された)

小山田昌辰」(1579年死去・原因は不明)

 

第二期の武田四天王・・・その最期とは?

山県昌景」(1575年、長篠の戦いで戦死)

馬場信春」(1575年、長篠の戦いで戦死)

内藤昌豊」(1575年、長篠の戦いで戦死)

高坂昌信」(1578年、信濃・海津城で病死)

四天王の内、3名が長篠の戦いで戦死しています。

 

山県昌景」は「飯富虎昌」の弟。

兄・虎昌が謀反を起こす際、それを察知した山県昌景は(虎昌がわざと弟に漏らしたという説もある)、信玄に兄の謀反を密告したと言われています。

 

馬場信春

山県昌景と並んで、武田勝頼の重臣筆頭。長篠の戦いで撤退を進言するが勝頼に拒否された。長篠の戦いで勝頼の撤退を見届けて、織田軍に突っ込んで戦死。

信虎・信玄・勝頼と、武田家三代に仕えた。生涯70回の戦争で、かすり傷一つ負わなかったと言われているが、長篠の戦いで戦死してしまった。

 

内藤昌豊

信玄の弟「武田信繁」とともに「武田家の副将」と位置づけられた名将。

長篠の戦いで、馬場信春とともに殿軍を務め、勝頼の撤退を見届けた後戦死。

今川氏真に仕えて、徳川軍に協力していた「朝比奈泰勝」に討たれたとのこと

 

高坂昌信

武田家の知恵者・・・第四次川中島の戦いで、妻女山攻撃のための別働隊に参加し、後に「対・上杉謙信」のための城「海津城」の城代として、越後の抑えを務め続ける

長篠の戦いに、唯一参加しなかった四天王の生き残り。

1578年に、上杉景勝との同盟を画策した直後に病死。

この「甲越同盟」は、北条氏政を怒らせ、結局1582年織田信長の甲州征伐で「織田・徳川・北条」と、三方を敵とする結果を招いた。


長篠の戦い」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。

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長篠の戦いで戦死した武将一覧」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。

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最強は誰?

武田家臣の中で、最強なのは一体誰なのでしょうか?

個人の武力など、比べる部分は多々あるとは思いますが、今回は「戦争の上手さ」で考えてみたいと思います。

おそらくですが、真田一族・・・又は「真田昌幸」ではないでしょうか?

「真田昌幸」

少ない兵力をもって、徳川の大軍を2度までも打ち破った名将。

長篠の戦いで、勝頼が叶わなかった徳川家康

小牧・長久手の戦いで、最強と言われていた「豊臣秀吉」の軍を破った徳川。

そんな徳川を破ったのが「真田昌幸

挙句の果てには、昌幸に育てられた次男「真田幸村」は、家康をあと一歩まで追い詰めています。

「真田幸綱」「真田昌幸」「真田幸村」と、三代に渡って名将であった「真田家」

かなりの強さを誇っていたのではないでしょうか?

真田一族を推したいと思います。


武田信玄の死因」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・武田信玄には、武田二十四将と呼ばれる名将たちの他にも、優れた家臣が山ほどいた

・武田四天王は、2組・合計8名いた。第二期四天王の内3名は「長篠の戦い」で戦死した

・武田家最強は、「真田昌幸」?真田一族・・・を推したい

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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