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【年表あり】西郷隆盛とはどんな人?何した人なのか簡単にわかりやすく解説

西郷隆盛(さいごう たかもり)とは、どんな人なのかを、簡単にまとめると、以下のとおりです

  • 西郷隆盛とは、幕末・明治時代に活躍した偉人で、江戸幕府を倒した人。明治維新という、日本を近代化した大改革の功労者
  • 西郷は江戸幕府を倒したあと、明治政府の重要人物として活動するが、大久保利通らと対立して、明治政府を辞めてしまう
  • 明治政府を辞めた西郷は、故郷の薩摩へ戻ったが、武士の特権を次々と奪う大久保利通のやり方に怒った元武士に担がれて西南戦争を起こし、戦死する

この記事では西郷隆盛について、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

これを読めば、誰かに説明できるほど、西郷隆盛に詳しくなれます。


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西郷隆盛とは、どんな人?

西郷隆盛とは、幕末・明治時代に活躍した偉人です。

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

西郷は明治維新に活躍した人物であるため、木戸孝允や大久保利通とならんで、維新三傑(いしんさんけつ)と呼ばれています。

  • 【名前】
    西郷隆盛(通称・吉之助)
  • 【出身地】
    鹿児島県鹿児島市加治屋町
  • 【墓所】
    南洲墓地(鹿児島市上竜尾町)
  • 【弟】
    西郷従道(陸軍大臣)
  • 【階級】
    陸軍大将
  • 【生年月日】
    新暦・1828年1月23日
    旧暦・文政10年12月7日
  • 【没年月日】
    1877年(明治10年)9月24日

 

西郷隆盛については、以下のリンク記事で、別の視点からくわしく解説しております。


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西郷隆盛とは、何をした人なの?

西郷隆盛とは、徳川家康がつくった江戸幕府を倒した人です。

西郷が生きていた当時の日本は、ペリー来航から始まる幕末と呼ばれる、江戸時代の末期でした。

マシュー・ペリー
『引用元ウィキペディアより』

当時の日本は200年ものあいだ鎖国していたため、とてつもない速度で発展していた外国に、大きく遅れていました。

そのため、強力な先進国であったイギリスやフランス・アメリカからの

貿易のために開国せよ

という脅しに屈服するしかなかったのです。

この日本の弱気な外交と、外国の脅しに対して、当時の日本人は怒りを爆発させます。

志士と呼ばれた彼ら怒れる武士たちは、まず江戸幕府を倒そうとします。

外国の圧力に屈服してしまうような、弱くて古い日本の支配組織を破壊し、強力な日本をつくりあげる支配組織をつくろうとしたのです。

彼らは江戸幕府を滅ぼして、明治政府という、近代的な支配組織をつくりあげることに成功します。

志士たちは明治政府のもとで、日本を近代化させて強い国に生まれ変わらせることによって、外国の侵略を阻止しようとしたのでした。

維新志士たちのリーダーだった西郷隆盛は、薩摩藩と長州藩の連合軍をひきいて、江戸幕府の本拠地・江戸城を降伏させることに成功。(江戸城無血開城)

その後、西郷は明治新政府の首脳として日本近代化のために活動するものの、盟友の大久保利通と対立して、鹿児島へ帰国してしまいます。

ひとり残された大久保は、明治政府のトップとして日本を近代化させるために、次々と改革を断行していきます。

大久保は、それまでの身分制度を徹底的に廃止します。

そして、武士の特権を次々と奪っていったのです。

特権を奪われた元武士たちは、激怒。

1877年、元武士たちは、維新の英雄・西郷隆盛を総大将にまつりあげて、明治政府を倒すために挙兵します。(西南戦争)

しかし、西郷たち薩摩軍は、新政府軍に敗北。

1877年(明治10年)9月24日、西郷隆盛は鹿児島の城山で、自害して亡くなるのです。

 

明治維新と西南戦争については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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西郷隆盛の年表

西郷隆盛の生涯を、ザッと年表にすると、以下のとおりです。

  • 1828年(1歳)、西郷隆盛誕生
  • 1853年(25歳)、ペリー来航
  • 1858年(30歳)、安政の大獄
  • 1862年(34歳)、西郷・流罪
  • 1864年(36歳)、禁門の変
  • 1866年(38歳)、薩長同盟
  • 1867年(39歳)、大政奉還
  • 1868年(40歳)、明治維新
  • 1873年(45歳)、明治六年政変
  • 1877年(49歳)、西南戦争


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西郷隆盛の生涯を、簡単にわかりやすく解説!

ここでは、西郷隆盛の生涯を、ザッと簡単に解説させていただきます。

1、幼少期

1828年、西郷隆盛は、現在の鹿児島県に位置する薩摩藩の下級武士の家に生まれました

西郷の家は、とても貧しい家だったといいます。

教育制度が整った薩摩藩で、西郷は熱心に学問を続けたといいます。

西郷家の近所には、のちに明治日本の基礎をつくりあげる大政治家・大久保利通が住んでいました。

大久保利通
『引用元ウィキペディアより』

幼い大久保利通は、西郷隆盛を兄のように慕っていたといいます。

大久保の家は貧しく、幼い大久保利通はお腹が空くと西郷の家へ行き、食卓の一番端に座ったといいます。

小さな大久保が、食卓の端に座っているのを見た心優しい西郷は、何も言わずに大久保のため、自分の食事を分け与えたといいます。

大久保は、まるで母を信頼しきっている子供のように、西郷を信頼していました。

大政治家・大久保利通は、兄のように慕っていた西郷を、やがて死へと追いやることになるのです。

 

大久保利通については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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2,名君・島津斉彬との出会い

当時の薩摩藩を支配していたのは、四賢侯とたたえられた名君・島津斉彬(しまづ なりあきら)でした。

島津斉彬
『引用元ウィキペディアより』

下級武士だった西郷は、この島津斉彬から大抜擢され、斉彬自身から英才教育をうけることになります。

島津斉彬に気に入られた西郷は、その圧倒的な人望で、薩摩藩の若手武士のリーダーへと成長していきます。

1853年、浦賀にペリーが来航し、日本に対して開国を要求。

翌年、日本は開国し、日米和親条約を締結します。

1858年、幕府の大老・井伊直弼が、アメリカとのあいだで、日米修好通商条約という不平等な条約を締結してしまいます。

この弱腰な江戸幕府のやり方に、長州藩を筆頭とする日本の各勢力が激怒します。

ペリー来航から始まった幕末という動乱の時代を、西郷隆盛は駆け抜けることとなるのです。

 

島津斉彬については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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3,二度の島送り

1858年、大老・井伊直弼が、徳川慶喜や吉田松陰らを次々と処罰します。

安政の大獄とよばれる弾圧事件です。

井伊直弼
『引用元ウィキペディアより』

同年、西郷隆盛が崇拝していた薩摩藩の名君・島津斉彬が急死。

安政の大獄で弾圧されそうになった西郷は逃亡し、奄美大島へ身を隠すことになります。

島津斉彬が亡くなったあと、薩摩藩を支配したのは、斉彬の弟・島津久光でした。

島津久光
『引用元ウィキペディアより』

久光は、誰よりも人望があり薩摩藩士のリーダーにふさわしかった西郷を、奄美大島から呼び戻します。

ところが西郷は、島津久光のことを心の底から嫌っていました。

なぜなら西郷は、島津久光のことを、島津斉彬を暗殺した張本人だと思いこんでいたからです。

両者の関係は当然のように悪化し、対立をはじめます。

奄美大島での潜伏生活から戻ってきたばかりの西郷でしたが、島津久光の逆鱗に触れて、徳之島・沖永良部島への流罪・軟禁生活を命じられます。

 

安政の大獄については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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4,薩長同盟と明治維新

西郷が流罪になっていたとき、薩摩藩はイギリス人を殺傷する生麦事件を起こしていました。

これに激怒したイギリス軍と薩摩藩とのあいだで、薩英戦争が勃発。

イギリス軍に大敗した薩摩藩でしたが、その戦後処理の交渉をきっかけにして、薩摩はイギリスと急速に親しくなります。

それまでの日本では、薩摩藩や長州藩などの外様大名とよばれる藩は、政治に参加できない、という決まりがありました。

政治への参加を目指していた薩摩藩と島津久光は、若手藩士のリーダーだった西郷隆盛を呼び戻して、江戸幕府の重役だった徳川慶喜と協力し、日本の政治改革をしようとするのです。

幕府と薩摩藩は、幕府を倒そうとする過激派・長州藩を、撃破することに成功します。(禁門の変)

ところが徳川慶喜は、あくまでも薩摩藩の政治への口出しを嫌い、薩摩の政治参加を邪魔し続けたのでした。

これに激怒した島津久光と薩摩藩は幕府を裏切って、敵だったはずの長州藩へ寝返ります。

薩摩藩は坂本龍馬の仲介を得て、禁門の変で倒したはずの宿敵・長州藩と同盟を締結します。(薩長同盟)

坂本龍馬
『引用元ウィキペディアより』

1868年、西郷隆盛は薩摩・長州を中心とする連合軍(朝廷軍)の実質的な総大将として、江戸へ進軍します。(戊辰戦争)

同年、勝海舟と西郷の会談によって、江戸幕府は降伏。

1603年に徳川家康によって開かれた江戸幕府は、完全に消滅するのでした。(江戸城無血開城)

それまでの幕府という古い政治のやり方を破壊し、明治政府という新しい政治のやり方を実現したこのときの改革を、明治維新と呼びます。

西郷は、家康がつくった幕府を滅亡させ、明治政府をつくるという大改革を成し遂げたのでした。

 

薩長同盟については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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5,西郷隆盛の最期

明治新政府をつくった西郷と大久保でしたが、両者は決別してしまいます。

西郷は、幼馴染だった大久保とのあいだで、朝鮮半島への対処方法で意見が別れ、対立するのです。

この対立がきっかけで、西郷はすべてを大久保に任せて、薩摩へ帰ってしまいます。(明治六年政変)

西郷というカリスマ的なリーダーを失った明治政府は、大久保を中心に運営されることとなります。

大久保は日本を近代化させるために、それまで日本に根付いていた身分制度を廃止しようとします。

なんと特権階級だった武士の特権を、次々と剥奪する、一大改革を断行したのです。

秩禄処分や廃刀令などで、特権を奪われた元武士(士族)は激怒します。

大久保利通のやり方に激怒し、大久保を恨むた元武士たちは、決起するのです。

1877年(明治10年)、武士たちからの圧倒的な信頼と支持を得ていた西郷をトップに祭りあげた元武士たちは、薩摩で挙兵。

日本史上最後の内戦・西南戦争が勃発したのです。

西南戦争
「引用元ウィキペディアより」

西郷がひきいる薩摩軍は、大久保利通がトップを務める新政府軍と戦いを始めます。

西郷が挙兵したという事実を知った大久保は、愕然とします。

大久保は、西郷が自分の味方であると信じきっていました。

まさか西郷が、自分を倒すために兵を挙げるなど、想像もしていなかったのです。

戦いは当初、薩摩軍の猛攻に新政府軍が苦戦。

しかし最後は、圧倒的な物量をほこる新政府軍の勝利で終わりました。

西郷は、故郷の鹿児島・城山で敵軍に追いつめられ、盟友の別府晋介(べっぷ しんすけ)に、自分の首を斬らせて亡くなります。

「晋どん。もうここいらでよか」

と言った西郷は、別府にたいして自らの首を斬るようにうながしたのです

西郷の死を知った大久保は、ショックのあまり正気を失い、泣きながら家の中をさまよい歩いたといいます。

 

大久保利通の最期については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 西郷隆盛とは、幕末・明治時代に活躍した偉人で、江戸幕府を倒した人。明治維新という日本を近代化した改革の功労者
  • 西郷は、江戸幕府を倒したあと、明治政府の重要人物として活動するが、大久保利通らと対立して、明治政府を辞めてしまう
  • 明治政府を辞めた西郷は、故郷の薩摩へ戻ったが、武士の特権を次々と奪う大久保利通のやり方に起こった元武士に担がれて西南戦争を起こし、戦死する

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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