今川義元の墓所はどこにあるの?愛知・静岡・東京に墓が複数ある理由

この記事では「今川義元のお墓の場所と名前」について、地図つきで、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「今川義元のお墓がどこにあるのか、どうやって行けばいいのか」が、カンタンに理解できます。
「今川義元のお墓」は「愛知県・静岡県」を中心に、全部で「10ヶ所」もあるのです。
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この記事を短く言うと
1,「桶狭間の戦い」で戦死した「今川義元」の「お墓」は、「愛知・静岡」を中心にして、各地に複数存在している
2,当時は「首」と「胴体」が別々に埋葬された上に、各地に供養塔が設置されたため、いくつもの墓所が存在することとなった
3,実際に今川義元のご遺体が埋葬されたのは、愛知県西尾市「東向寺」と、愛知県豊川市「大聖寺」、そして今川氏の菩提寺である静岡市の「臨済寺」
目次
「今川義元のお墓」は、どこにあるの?地図つきでご紹介
「今川義元のお墓」は、東海道を中心に、複数残っています。

《今川義元》
「引用元ウィキペディアより」
以下に、今川義元の墓所または供養塔などの所在地を一覧でまとめてご紹介します
- 今川義元公のお墓(静岡市葵区大岩本町26)
- 大聖寺・今川義元公墓所(豊川市牛久保町)
- 東向寺(愛知県西尾市駒場町)首塚
- 今川塚(愛知県東海市高横須賀町)胴塚
- 今川義元之墓(愛知県豊明市)
- 今川義元仏式の墓碑(愛知県豊明市)
- 今川義元墓碑(愛知県名古屋市緑区・桶狭間古戦場公園)
- 今川義元戦死之墓碑(愛知県名古屋市緑区・桶狭間古戦場公園)
- 正覚寺・今川塚(愛知県清須市)
- 臨済寺(静岡市葵区)
以下に、これらの墓地の地図をのせておきます。
1,今川義元公のお墓(静岡市葵区大岩本町26)
2,大聖寺・今川義元公墓所(豊川市牛久保町)
3,東向寺・今川義元の首塚(愛知県西尾市駒場町)
4,今川塚(愛知県東海市高横須賀町)胴塚
5,今川義元之墓(愛知県豊明市)
6,今川義元仏式の墓碑(愛知県豊明市)
7,今川義元墓碑(愛知県名古屋市緑区・桶狭間古戦場公園)
8,今川義元戦死之墓碑(愛知県名古屋市緑区・桶狭間古戦場公園)
9.正覚寺・今川塚(愛知県清須市)
10,臨済寺(静岡市葵区)
ちなみに、今川義元の息子「今川氏真」に続く歴代の今川氏のお墓は、東京都杉並区の「観泉寺」にあります。
余談かもしれないのですが、「グーグル」で「今川義元 墓」と検索すると、なぜか「東京都三鷹市」にある「井の頭公園」の「井の頭弁財天」をまつる「大盛寺」がヒットします。
この「大盛寺」に「今川義元」のお墓らしきものはありません。
「大盛寺(たいせいじ)」に今川義元のお墓はないが、「愛知県豊川市」の「大聖寺(だいしょうじ)」には、今川義元公墓所があります。
もしかすると、名前が似ているために、間違ってヒットしているのかもしれないですが・・・。
愛知や静岡など、各地に「今川義元」のお墓がある理由を解説
今川義元の墓地が各地にある理由は、その御霊を鎮める「供養」のために、次々と墓地がつくられたためです。
もう一つの理由が、【首と胴体を切り離されたため、首を埋めた墓と、胴体を埋めた墓とが、別々に出来上がってしまった】ということです。
元々「今川家」の菩提寺は、今川義元の本拠地「駿府」にあった臨済寺。
しかし、「桶狭間の戦い」で「織田信長」によって、「今川義元」の首は持ち去られてしまいました。
その首を、交渉の末に取り戻したのが、「岡部元信」という猛将です。
岡部元信は、今川義元の首を持ち帰ったと言われています。
しかし、おそらく首は腐敗してしまうため、駿府へ戻る途中で埋葬されたのでしょう。
おそらく駿府へは、今川義元の遺髪のみを持ち帰ったのだと思います。
遺髪を持ち帰った岡部元信。
その遺髪を、今川家の菩提寺「臨済寺」へ埋葬して、ここにもお墓がもう一つ生まれたわけです。
「首・胴体・遺髪」など、別々に埋葬したために、これだけで今川義元のお墓は3つつくられたのでした。
あとは各地で「今川義元」に恩のある人々が、その御霊を供養するために、「供養塔」や「碑」を次々とつくったのでしょう
これが「今川義元の墓所」が複数存在する理由であると考えらます。
義元のご遺体は、実際どこに埋葬されたのか?
実際に今川義元のご遺体が埋葬された場所は、3ヶ所あると考えられます。
- 「愛知県西尾市・東向寺」
- 「愛知県豊川市・大聖寺」
- 「静岡市・臨済寺」
つまり
- 首は「東向寺」
- 胴体は「大聖寺」
- 遺髪は「臨済寺」
これらの場所に、実際に今川義元のご遺体が埋葬された可能性が高いです。
「東向寺」へ首を埋葬した武将「岡部元信」は、その墓守として、二人の武将を東向寺へ残しています。
この二人のうち一人の子孫が、今も東向寺の檀家として続いているのです。
「臨済寺」は、「今川義元」や「徳川家康」を育て上げた天才軍師「太原雪斎」が住持をつとめたお寺です。
この寺には、「今川義元の坐像」「太原雪斎の像」「徳川慶喜の書」などが残されていますね。
また、「臨済寺」は今川家の菩提寺なので、今川家の歴代当主の位牌やお墓が残されています。
ちなみに、義元の首を奪還した猛将「岡部元信」は、その後「武田信玄」とその息子「武田勝頼」に仕えました。
「桶狭間の戦い」から【21年後】の【1581年】、「高天神城の戦い」で、岡部元信は「徳川家康」の軍に討ち果たされ、戦死しています。
「今川義元」が亡くなった「その後」、「今川家」はどうなったの?
今川義元が亡くなったあと、名門「今川家」は一気に衰退していきます。
桶狭間の戦いから【9年後】の【1569年】、今川家は「武田信玄」と「徳川家康」によって滅ぼされるのです。
今川義元の息子「氏真」は、妻「早川殿」の父「北条氏康」を頼って、相模国へ落ち延びます。
その後、今川氏真は「徳川家康」の家来として仕えています。
どうやら今川氏真を招くことで、家康は「駿河国を支配する正当性」を主張しようとしたようです。
その後、今川氏真は父の仇である「織田信長」の前で、得意の「蹴鞠」を披露しています。
今川氏真はその後、徳川幕府で「高家」という、領地は少ないが家柄が良いということで、高待遇を受けることとなります。
この氏真の末裔が、徳川幕府・元禄期の大事件「赤穂事件」を引き起こすこととなるのです。
詳しくは、以下のリンク記事で解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「桶狭間の戦い」で戦死した「今川義元」の「お墓」は、「愛知・静岡」を中心にして、各地に複数存在している
2,当時は「首」と「胴体」が別々に埋葬された上に、各地に供養塔が設置されたため、いくつもの墓所が存在することとなった
3,実際に今川義元のご遺体が埋葬されたのは、愛知県西尾市「東向寺」と、愛知県豊川市「大聖寺」、そして今川氏の菩提寺である静岡市の「臨済寺」
以上となります。
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