2代将軍「徳川秀忠」!その母親は一体誰なのでしょうか?母親がそれほど有名ではないのは、なぜなのか?
母親は「西郷局」・・・・有名でない理由は、早くに亡くなったから。
織田信長の姪「お江」を妻とし、三代将軍「徳川家光」や中宮「和子」を儲けた秀忠公
どうして側室がいなかったのか?実は子供を暗殺されていた?
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この記事を短く言うと
・秀忠の母は、西郷局。徳川家康の四男・松平忠吉の母でもある
・正室は織田信長の姪「江姫」・・・秀忠の隠し子「長丸」は、江姫が殺害したのかも
・秀忠の側室「お静」が産んだ「保科正之」は、大老として幕府を支えた
徳川秀忠の母親は誰?
まずは徳川秀忠について解説致します。
「徳川秀忠」について簡単に解説
徳川家康の息子にして、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」
家康の三男にして、後継者。
長男「信康」が謀反の疑いで家康から切腹を命じられ、次男「秀康」が豊臣秀吉の養子となり、更に「結城」家に養子に出されたため、三男でありながら家督を継ぐことになりました。
幼名は「長丸」。豊臣秀吉の「秀」の字と、家康の父・「広忠」の「忠」の字をもらって「秀忠」と名乗りました。
愚鈍なのか、大物なのか・・・幼いころから真面目でおっとり。
軍事においては苦手だったらしく、初陣となった「関が原の戦い」では、前哨戦「第二次上田合戦」で「真田昌幸」に翻弄され、関が原の本戦に大遅刻!
本来、家康は「秀忠が率いている徳川本隊を主力にして、関が原の戦いを勝利するはず」だったらしいですが、秀忠が遅刻したため、豊臣家大名衆に頼らざるを得ず、かろうじて勝利。
そのため、豊臣家大名衆に褒美として領地を大量に与えざるを得なくなり、徳川の領地が予定より小さくなってしまい、江戸幕府の寿命が縮んだ・・とも言われているようです。
とはいえ、かなり筋骨隆々たる身体をしていたらしく、身体には銃撃を受けた傷跡が複数あったとか。
家康亡き後、秀忠は内政にその能力を発揮し、立派に家康の残した「徳川幕府」の土台を固めました。
「家康は全て自分で決めた。
二代・秀忠は半分を自分で決めた。
三代・家光は全部家臣任せだった」
と言われていたようです。
真面目に内政に尽くした一生だったようです。
秀忠の母親は誰?
秀忠の母親は「西郷局」
秀忠の他にも、一歳年少の弟「松平忠吉」も産んでいます。
三河西郷氏という一族の女性を母に、戸塚忠春という侍を父に持つ。
家康の側室になる前に、西郷義勝という人物に嫁いでおり、一男一女を出産していました。
その後、家康の側室となり、秀忠・忠吉を出産。
1589年に38歳の若さで病死。
目が悪かったらしく、盲目の女性に対して支援活動を積極的に行う、とても心優しい女性だったとか。
彼女の息子・・・秀忠・忠吉の異父兄は、秀忠の弟「徳川頼宣」に仕え、優遇されたらしいですが、秀忠が亡くなると、その優遇もなくなったのだそうです。
正室と子供たち
秀忠の家族について、ご紹介致します。
徳川秀忠の正室「江姫」
秀忠は2度結婚しています。
一度目は「織田信長」の次男「織田信雄」の娘「小姫(おひめ)」と結婚しましたが、姫は幼くして他界。
次の妻は「織田信長」の姪「江姫」。秀忠よりも6歳年上でした。
江姫は「浅井長政」と、信長の妹「お市の方」の三女
長女「茶々」は秀吉の側室となり「秀頼」を出産しています。
次女「初」は、京極高次に嫁いでいます。
江姫は秀忠との婚姻が三度目。
最初の夫「佐治一成」との結婚は、政治情勢が複雑化して実質離婚。
次の夫、秀吉の甥「羽柴秀勝」とは死別。
羽柴秀勝との間に生まれた「完子(さだこ)」姫は、後にお公家さんに嫁いでいます。
秀忠に嫁して、「二男五女」を出産。
江姫が出産したお子さんは、ほとんどが大物になるか・・・大物に嫁いでいます。
子供たち「二男五女」
「秀忠」と「江姫」の子供たち
長女「千姫」は、「豊臣秀頼」に嫁ぎ、秀頼の死後「本多忠刻」に嫁ぎました。
次女「珠姫」は、前田利家の子、利常に嫁ぎ寵愛されました。
三女「勝姫」は、秀忠の兄・結城秀康の長男「松平忠直」に嫁ぎました。
四女「初姫」は、千姫の秀頼輿入れに同行した際に、伏見城で誕生。そのまま父・秀忠に会うこともなく、江姫の姉「初」の養女となり、京極忠高と婚姻。
長男「徳川家光」は、三代将軍となりましたが・・・それほど優秀ではなかったと言われています。
次男「徳川忠長」は、駿河国を領地としましたが、兄・家光との関係が悪化して謹慎・・・その後自害。
五女「和姫」は、後水尾天皇に入内し、明正天皇を出産。
どうして側室がいないのか?
秀忠といえば、「恐妻家」として有名でした。
そのため、妻・江姫を恐れて「側室」を持たなかった・・・と言われていますが・・・実は側室が二人いました。
そして、生まれた子が・・秀忠に「側室を持ってはならない」と思い知らせることとなったのです・・・。
秀忠の隠し子「長丸」
秀忠には二人の側室と、二人の隠し子がいました。
秀忠の最初の側室は、名前も定かではなく、「家女」としか記録がありません。
「家女」が産んだのが、秀忠の長男・・。
この子は、秀忠の幼名をそのまま名乗り「長丸」と名付けられたのです。
しかし・・・長丸は、1歳になる前に他界。
もしかしたらですが・・・・江姫が嫉妬に狂って・・・。
おそらく秀忠も、江姫を疑ったことでしょう。
そのため秀忠は、側室をもちたくても、もてなかったと考えられます。
隠し子「保科正之」
長丸の一件があった後、秀忠はひっそりと「お静」という侍女に手を出します。
そして生まれたのが「幸松」という男児。
秀忠は「長丸」の件で江姫を警戒したのか?「幸松」を息子とは認めず、「保科家」にて養育させます。
その後「幸松」は「保科正之」と名乗り、兄の「家光」から取り立てられ、会津藩にて「松平家」を起こしました。幕末に活躍する「松平容保」のあの会津です。
保科正之は、内政に力を尽くし、甥である四代将軍「徳川家綱」を補佐し、大老を務めました。
父譲りの内政力と生真面目さで、立派に大老を務めきったのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・徳川秀忠は、武将としてはパッとしないが、政治家としてはかなり優秀だったらしい
・秀忠の母は、「西郷局」
・秀忠の正室は、信長の姪「江姫」
・二人の隠し子がいたが、「長丸」は夭折。「保科正之」は息子扱いされなかった
以上となります。
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