幕末「薩英戦争」のきっかけ、イギリス人殺傷事件「生麦事件」を起こした「奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)」。
実は冤罪だったという噂を、わかりやすく解説します。
「生麦村で、英国人を殺傷したのは、喜左衛門ではなく、彼の弟だった」?
尖閣諸島と奈良原の意外な関係とは?
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この記事を短く言うと
・「奈良原喜左衛門」とは、生麦事件で英国人を斬りつけた人物
・薩英戦争で奈良原は、「スイカ売り」に化けて敵船に斬り込もうとした
・奈良原喜左衛門の末裔は、生麦事件で斬りつけたのは、奈良原喜左衛門ではないと主張している
奈良原喜左衛門とは?生麦事件の英国人を殺害した犯人
「奈良原喜左衛門」・・・・幕末に勃発した「生麦事件」の犯人と言われている人物です。
「生麦事件」とは、1862年9月14日、現在の神奈川県横浜市に存在していた「生麦村」で起こった事件。
江戸を訪れていた薩摩藩主の父「島津久光」の大名行列を、イギリス人が馬に乗ったまま横切ったのです。
薩摩藩士は、言葉が通じない英国人に対して、身振り手振りを駆使して、馬を降りるように説明。しかし、その説明は通じず、やむなく英国人は一人の薩摩藩士に斬りつけられました。
この時代、大名行列を馬で横切ることは重罪だったのです。
斬られた「チャールズ・レノックス・リチャードソン」は、深手を負い、それを見た後の奈良県知事「海江田信義」は、もはや彼が助からないことを察し、とどめをさしたと言われています。
この時、「リチャードソン」に斬りつけた薩摩藩士が「奈良原喜左衛門」。
ちなみに・・・後に内閣総理大臣になる「黒田清隆」は、この時、仲間たちに対して「刀を抜くな」と指示していました。
「薩英戦争」・・・・・この生麦事件の翌年1863年に、薩摩藩と英国艦隊との間で起こった戦争です。その「薩英戦争」の発端となったのがこの「生麦事件」でした。
翌年、鹿児島は世界最強国「イギリス」の艦隊を迎え撃つことになります。
今で言うならば「アメリカ合衆国 VS 鹿児島県」といったところでしょうか。かなり無茶な戦いです。
薩英戦争での活躍!全然反省してなかった?
薩英戦争の際、元々英国艦隊は、薩摩と戦争をするつもりなどなく、圧力をかけて「犯人逮捕」と「賠償金請求」を実現させることを目的としていました。
幕府からは賠償金として「10万ポンド」を受けとり、さらに「25000ポンド」の賠償金を薩摩に要求した英国・・・。
支払いを拒否する薩摩藩に対して、英国艦隊は薩摩の船を拿捕するなど、圧力をかけて続け、最終的に戦争となります。ちなみにこの時、拿捕された薩摩の船には「五代友厚」が乗っていました。
さて・・・・犯人とされている「奈良原喜左衛門」は、この薩英戦争の際、どこで何をしていたのでしょうか?
実は奈良原喜左衛門・・・この戦闘に従軍しているのです。
薩摩藩士たちは、「スイカ売り」に変装して、敵船に斬り込み、船を奪う作戦を計画。
この決死隊には「海江田信義」「黒田清隆」「大山巌」たちが参加しています。この中に、「奈良原喜左衛門」も参加していたのです。全然反省していませんね。しかし、決死隊は英国艦に怪しまれ、乗船を拒否されてしまったため、あえなく作戦は失敗。
薩摩藩は、英国艦隊からの砲撃を受け、鹿児島の10分の1が炎上。
薩摩藩も奮戦し、英国の「艦長」と「副艦長」を倒したものの、結局はかなわず、最終的に薩摩が幕府から賠償金を支払い、犯人は「逃亡中」ということで英国と講和。
ちなみに賠償金は、幕府から借金をして支払っているものの、幕府への返済は踏み倒しているので、それを根拠に「薩摩藩が勝利した」という声もあるにはあります。しかし、戦争目的を達している「英国」の勝利で間違いない気がします・・・。
この戦争に後の総理大臣「山本権兵衛」も従軍。当時わずか10歳でした。
実は生麦事件の犯人じゃなかった?冤罪だった
奈良原喜左衛門が生麦事件の犯人・・・実は「奈良原喜左衛門」の末裔が、異議を唱えているのです。
真犯人は「奈良原喜左衛門」の弟「奈良原繁」なのだとか。
土佐藩参政「吉田東洋」を暗殺し、京都の薩摩藩邸にかくまわれていた人物「那須信吾」という人が、兄に宛てた手紙の中で、「生麦事件」で斬りつけたのは「奈良原喜左衛門」ではなく、弟「奈良原繁」と記しているのだそうです。
だとしたら・・・奈良原喜左衛門さんは、冤罪ということになります。
奈良原喜左衛門は、「禁門の変」の翌年1865年に、京都薩摩藩邸で亡くなっています。享年34。
弟の「奈良原繁」氏は、その後「日本鉄道」の社長や「沖縄県知事」を歴任。男爵の爵位をもらっていますね。
沖縄県知事を務めていた「奈良原繁」・・・・・現在、中国が領有権を主張する沖縄県石垣市「尖閣諸島・魚釣島」にある山が、彼に因んで「奈良原岳」と名付けられています。
『奈良原喜左衛門』について、レビュー(評論)!
「奈良原喜左衛門」・・・・寺田屋事件の際に、「有馬新七」たちの説得工作を行った人物。薩摩藩最強の「大山綱吉」にも匹敵する、相当な達人だったと言われています。
奈良原は過激な「尊王攘夷」論者だったので、おそらく、外国人を「邪悪な侵略者」と信じて疑わなかったのでしょう。
生麦事件で英国人を斬ったことも、薩英戦争で決死隊に参加したことも、彼なりに国を想い、祖国を守るための措置だったと考えられます。
ちなみに・・・・英国人を斬ったことは、当時の日本の国内法では合法。そのため、福井藩主「松平春嶽」は、薩摩藩を擁護しています。民衆も、強気の措置をとった薩摩藩の「島津久光」を賞賛したのだとか。
現代人の視点で見ると、とんでもないことと感じられるかもしれませんが、確かに当時の日本では合法措置・・・・。
馬を降りるように薩摩藩士たちが勤めて英国人に説明したにも関わらず、それが伝わらなかった・・・・「生麦事件」は不幸な事件と言うしかないのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・生麦事件の犯人は「奈良原喜左衛門」と言われている
・「奈良原喜左衛門」は、翌年の「薩英戦争」で「決死隊」に参加している
・生麦事件の犯人は、奈良原喜左衛門の弟「奈良原繁」と、喜左衛門の末裔が主張している
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
寺田屋事件にいたのは奈良原喜左衛門の弟の繁です。繁のその時の名前は奈良原喜八郎、後に幸五郎、明治になってから奈良原繁です。
いつもお世話になっております。
貴重なコメントを頂きましてありがとうございます。
歴史研究會の代表のお方からコメントを頂けるとは、本当に感謝しております。
今後も、助言ご指導等いただけましたら幸いでございます。
本当にありがとうございました。
失礼いたします。