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本多忠勝の子孫は現在も続いてる?家系図を現代まで紐解いてみた

徳川家康とくがわいえやすにつかえた4人の猛将・徳川四天王とくがわしてんのうの1人にして最強の軍神・本多忠勝ほんだただかつ

その子孫は、今も続いているのか?

本多忠勝の家系図を紐解ひもといてみました。

本多忠勝の末裔・本多隆将ほんだたかゆきさんは、他の四天王の末裔と交流していました。

この記事では、本多忠勝について、詳しく解説いたします。


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歴史専門サイト「レキシル」へようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 本多忠勝は、徳川四天王の一人で、「西の立花宗茂たちばなむねしげ・東の本多忠勝」と豊臣秀吉に評価された武将
  2. 忠勝の子孫は、平成の現代まで途絶えること無く続いている
  3. 現在の当主は本多隆将さんで、他の四天王の末裔と交流している
  4. 楽天の会長兼社長・三木谷浩史みきたにひろしさんは、本多忠勝の末裔の1人
目次

本多忠勝ほんだただかつとは、どんな人なの?

本多忠勝とは、徳川家康に仕えた徳川四天王の1人です。

本田忠勝
引用元Wikipediaより

天下三名槍てんかさんめいそうの一つ蜻蛉切とんぼぎりを振るい、生涯57度の戦役でかすり傷一つ負うことがなかったという猛将が、この本多平八郎忠勝ほんだへいはちろうただかつなのです。
(天下三名槍とは、福島正則ふくしままさのり日本号にほんごう結城秀康ゆうきひでやす御手杵おてぎね、そして本多忠勝の蜻蛉切のこと。)

【1548年】、本多忠勝は松平家まつだいらけの家臣・本多忠高ほんだただたかの長男として誕生。

幼い頃から徳川家康とくがわいえやすにつかえ、【1560年】に13歳で桶狭間おけはざまの戦いの前哨戦ぜんしょうせん初陣ういじんをかざります。
(2023年の大河ドラマ【どうする家康】の第一話で、本多忠勝が桶狭間の戦いで敗北し逃げ出す徳川家康を連れ戻すシーンがありましたが、このとき忠勝は13歳。そして初陣だったのです。)

その後、【1600年】の関ヶ原せきがはらの戦いまで、忠勝は生涯57度の戦いに参加し、かすり傷ひとつ負わなかったといわれています。

これから解説いたします本多忠勝の最期は、生涯無傷だった猛将の最期に相応ふさわしいものだったのかもしれません。


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忠勝は死の数日前に、小刀こがたなで指を斬ってしまったといいます。

「本多忠勝も、傷を負ったら終わりだな」

とつぶやき、忠勝は自らの死期を悟ったといいます。

【1610年10月18日】、桑名くわなで死去。

→→→→→【本多忠勝の死因と最期】についてくわしくはこちら

本多忠勝は

  • 酒井忠次さかいただつぐ
  • 榊原康政さかきばらやすまさ
  • 井伊直政いいなおまさ

と並び徳川四天王と呼ばれました。

中でも忠勝は

  • 名槍・蜻蛉切とんぼぎり
  • 鹿角脇立兜しかつのわきだてかぶと
  • 黒糸威胴丸具足くろいとおどしどうまるぐそく

などの装備をまとい、愛馬・三国黒みくにぐろにまたがって敵をはらう、まさに軍神と呼ばれるにふさわしい猛将だったといわれています。

織田信長おだのぶながからは「はなもある大将」とたたえられ

豊臣秀吉とよとみひでよしからは「日ノ本第一ひのもとだいいち古今独歩ここんどっぽの勇士」または「東の本多忠勝、西の立花宗茂たちばなむねしげ」と賞賛されたといいます。

ちなみに、真田幸村さなだゆきむら信繁のぶしげ)の兄である真田信之さなだのぶゆきの妻は、本多忠勝の娘にあたります。

真田信繁/真田幸村肖像:上田市立博物館所蔵品:Wikipediaよりパブリックドメイン

その縁で本多忠勝は、関ヶ原の戦いで敗北した真田昌幸まさゆき・幸村親子の助命嘆願をしたことでも有名です。

「真田昌幸・幸村親子の命をお助けいただけないのならば、婿・真田信之とともに沼田城ぬまたじょう(真田信之の居城)へ立てこもり、殿(徳川家康)を相手に戦つかまつる」

本多忠勝は、こう言って主君である家康を脅し、真田昌幸・幸村親子の命を救ったといわれています。

もっとも、本多忠勝が真田幸村(信繁)の命を救ったおかげで、同じく徳川四天王の1人である井伊直政の息子・井伊直孝いいなおたかは、【1614年】の大坂冬の陣おおさかふゆのじんで、真田幸村にこっぴどく敗北することになるのですが・・・。


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本多忠勝の家系図

本多忠勝の家系図をご用意いたしました

本多忠勝の家系図
【家系図の引用等ご遠慮くださいませ】

本多家の領地の移り変わり

本多家の本家は忠勝の死後、大坂の陣の後に、領地の桑名くわな藩から姫路ひめじ藩に転封(領地替え)となっています。

  1. 姫路藩
  2. 大和郡山やまとこおりやま
  3. 陸奥むつ・福島藩
  4. 姫路藩
  5. 越後・村上藩
  6. 三河みかわ刈谷かりや
  7. 下総しもうさ古河ふるかわ
  8. 石見・浜田藩
  9. 三河・岡崎藩

以上のように、何度となく転封を重ね、最終的に徳川家康の故郷である三河みかわ岡崎おかざきで明治を迎えました。


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本多忠勝の系譜と子孫

本多忠勝から本多隆将ほんだたかゆきさんまで、本多家は令和の現在まで、その血筋を保っています。

  1. 本多忠勝
  2. 忠政
  3. 政朝
  4. 政勝
  5. 政長
  6. 忠国
  7. 忠孝
  8. 忠良
  9. 忠敞ただひさ
  10. 忠盈ただみつ
  11. 忠粛ただとし
  12. 忠典
  13. 忠顕
  14. 忠考
  15. 忠民
  16. 忠直
  17. 忠敬
  18. 忠昭
  19. 光孝
  20. 玄忠
  21. 隆将たかゆき

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本多忠勝の子孫は、現在なにをしているのか?

現在の本多家の当主、つまり本多忠勝の直系子孫は、本多隆将ほんだたかゆきさんというお方です。

2011年の浜松市・市政100周年のイベントに徳川家康の末裔と、徳川四天王の末裔が集うというイベントが開催されました。

徳川家康の末裔・徳川恒孝とくがわつねたかさん

酒井忠次の末裔・酒井忠久さかいただひささん

榊原康政の末裔・榊原政信さかばらまさのぶさん

井伊直政の末裔・井伊直岳いいなおたけさん

本多忠勝の末裔・本多隆将ほんだたかゆきさん

徳川家・本多家以外の方々は、一族の通字を今に伝えているのですね。

  • 酒井家の【忠】の字
  • 榊原家の【政】の字
  • 井伊家の【直】の字

おそらくこれからも、彼らは先祖の名前を後世に伝えていくのでしょう。

→→→→→【酒井忠次の子孫】についてくわしくはこちら

→→→→→【榊原康政の子孫】についてくわしくはこちら

→→→→→【井伊直政の子孫】についてくわしくはこちら


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楽天の三木谷浩史みきたにひろし社長

楽天の三木谷浩史社長は、本多忠勝の子孫です。

【2018年12月17日】に放送されたNHK番組【ファミリーヒストリー】に、楽天の社長兼会長・三木谷浩史さんが出演していました。

そこで、三木谷さんの父方の祖母・昌子さんが、本多忠勝の末裔であると紹介されていました。

ご一家は、明治維新めいじいしん後に華族になりましたが、その後は没落してタバコ屋を経営。

昌子さんは、女手一つで三木谷浩史さんの父親を育てあげたのだそうです。

猛将・本多忠勝の末裔が、21世紀の日本で有名な経営者さんとなっているとは・・・。さすがです。

ちなみに家康の子孫・徳川恒孝さんのめいのご主人様は、今川義元いまがわよしもととその息子・今川氏真いまがわうじざねの末裔・子孫だそうです。

まさか徳川家と【今川義元・氏真】の子孫が結びつくとは驚きです。

→→→→→【今川氏真の子孫】についてくわしくはこちら

→→→→→【徳川四天王最強は誰?】についてくわしくはこちら

最後の将軍【徳川慶喜とくがわよしのぶ

徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜とくがわよしのぶも、本多忠勝の子孫にあたります。

本多忠勝の孫・本多忠刻ほんだただときは、徳川家康の孫娘である千姫せんひめと結婚し、子供を儲けています。

千姫は元々は、豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼の妻でした。

しかし【1615年】の大坂夏の陣で豊臣秀頼が亡くなると、千姫は本多忠刻と再婚。

この本多忠刻と千姫の子孫が、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜なのです。

徳川慶喜
引用元ウィキペディアより

つまり、大政奉還たいせいほうかんをおこない、徳川幕府を消滅させたあの徳川慶喜は、本多忠勝の血を引く子孫にあたるわけです。

余談ですが、徳川慶喜は、2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】に登場した御家人・三浦義村みうらよしむらの子孫にもあたります。

→→→→→【徳川慶喜】についてくわしくはこちら

→→→→→【大政奉還】についてくわしくはこちら

→→→→→【三浦義村の子孫】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 徳川四天王の一人、本多忠勝は、生涯57回の戦争でかすり傷一つ負わなかった
  2. 本多忠勝の子孫は、平成の現代まで続いている
  3. 子孫の本多隆将さんが、徳川家康と徳川四天王の子孫とともに浜松市政100年のイベントに参加していた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 今日たまたま父と食事をしての帰りに、92歳になる父から、母方の親戚の本田家が本田平八郎忠勝の子孫であることを告げられました。同時に手渡された親戚の誰ぞが調べて手書きしたメモによると、母方を3世代たどると本田家です。
    私自身のことは、googleで検索していただけばと思います。

    • 井上様。
      この度は、当サイトをご利用いただきましたのみならず、この上なく貴重な情報をいただき、心より御礼申し上げます。
      まさか私共が運営するサイトへ、井上愛一郎様からご連絡をいただけるとは、夢にも思っておりませんでした。
      そして、あの「本多平八郎忠勝」の末裔であるという情報までいただけるとは。
      本当にありがとうございます。

      まさか私共のサイトへ、「本多忠勝」の末裔御本人様からご連絡をいただけるとは。
      今後とも、よろしければ当サイトをぜひご利用いただきたいと思います。
      本当にありがとうございます。
      なんとお礼を申し上げたらよいのか、言葉が見つかりません。
      稚拙な文章で、誠に恐れ入りますが、本当にありがとうございました。
      失礼いたしました。

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