MENU

津田梅子の子孫と家系図をご紹介!津田塾大学と留学の逸話がスゴイ

「津田塾大学」の創始者にして、女子教育に大きく力を尽くした「津田梅子」について、「子孫・家系図」「留学創設のエピソード」などを、わかりやすく解説いたします。

「岩倉具視」がひきいた「岩倉使節団」に参加し、アメリカに留学した「津田梅子」

帰国したが「日本語」を忘れ、それでもめげずに「津田塾大学」の前身「女子英学塾」を創設して、女子教育に力を尽くしたお方。

津田塾大学・・・東京小平市にある「偏差値60」の名門私立大学。

実は津田梅子の子孫は、「西郷隆盛」の子孫でもあった!


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 津田梅子は、生涯独身だったため、子供がいないが、養子をもらって現代まで続いている。その子孫「津田直」さんは「西郷隆盛」の子孫でもある。
  2. 津田梅子は、「岩倉使節団」でアメリカ留学し、1900年「女子英学塾」を設立、のちの「津田塾大学」をつくった。
  3. 留学から帰国した「津田梅子」や「山川捨松」は、日本語が話せなくなっていたらしい。

津田梅子の「子孫と家系図」!子孫は西郷隆盛の血を引いていた

津田梅子は、生涯独身を通したため、子供がいません。

しかし、甥にあたる「津田眞(つだ まこと)」を養子としています。

《津田梅子の家系図》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

養子「津田眞」の娘「あい子」さんは、「西郷隆盛」のひ孫「西郷隆晄」と結婚し「津田直」さんが生まれています。

津田梅子さんのひ孫にあたる「津田直」さんは、西郷隆盛の「玄孫(孫の孫)」でもあり、2000年に「津田家」の家督を相続しています。

「津田梅子」「西郷隆盛」という2人の偉人の血を引く人物が、現在の日本で確かに生きているのです。



スポンサーリンク


「津田梅子」の生涯!スパルタ教育「津田塾大学」設立の歴史

津田梅子の生涯

津田梅子(つだ うめこ)

1864~1929年(享年62歳)

《津田梅子》
「引用元ウィキペディアより」

日本の教育者であり、「女性教育」を真っ先に行ったパイオニア(開拓者)。

現在、東京都小平市にある「津田塾大学」の創立者でもあります。

1871年、「岩倉具視」「大久保利通」「木戸孝允」たちがひきいた海外視察団「岩倉使節団」に、津田梅子の父「津田仙」が応募。

若干6歳だった梅子は、アメリカに留学し、11年後に帰国。

幼くして渡米し、英語漬けの生活を送っていた梅子は、日本語を忘れており、通訳を必要としていました。

アメリカの習慣・文化に慣れ親しんでいた梅子は、日本の「儒教」的な風習になれることが出来なかったといわれています。

そのため、各地から舞い込んでくる「結婚」の話を拒み続け、生涯独身を通したのでした。

帰国後の梅子は、のちの内閣総理大臣「伊藤博文」の「英語教師・通訳」として活躍。

その後、「芸姑」出身の多かった「明治政府の要人たちの妻」に、歌などを教えていた塾「桃夭(とうよう)女塾」で英語を教えながら、忘れていた日本語を学習。(桃夭とは、嫁入り時・嫁にいくのにふさわしい年頃、という意味)。

英語教師として「家族女学校」で学びはじめた彼女は、3年間の再留学で渡米。

アメリカで研究者として学び続ける道をすて、帰国して「女子教育」に尽力。

1900年7月、東京麹町に「女子英学塾(のちの津田塾大学)」を設立。

1929年、津田梅子は「脳出血」が原因で他界。

享年64歳。



スポンサーリンク


「津田塾大学」設立の経緯

津田塾大学は、当時としては珍しい「女性」のための「高度な教育」をおこなうための学校でした。

津田梅子は、すぐれた研究者であったため、アメリカで先進的な研究者としての道を歩むことも出来たのです。

しかし、彼女は「教育者」としての道を選択。

1900年に設立された「女子英学塾」は、行儀作法の他にも数々の分野でハイレベルな教育をおこなったと言われています。

厳しすぎて、ついていけるものが少なかった・・・とも言われているので、かなりのスパルタ教育だったのでしょう。

当時は「男尊女卑」の風習が根強く残っていたはずです。

そんな日本で、女性が社会進出をするためには、それだけの「スパルタ教育」が必要だったのでしょう。

この「スパルタ教育」を貫くため、梅子は「外部からの口出し」を極力嫌っていました。

そのため、資金援助はほとんど受けなかったのだそうです。

「カネは出すが口も出す」

それを津田梅子は「援助金お断り」で封じたのです。

極めて厳しい塾の経営状態のなか、津田梅子は亡くなります。

1931年、津田梅子が亡くなった2年後、「女子英学塾」は、現在の「東京都小平市」の新校舎へと移転。

1933年、「女子英学塾」から「津田英学塾」へと名前を変更

1943年、「津田塾専門学校」へと改名

1948年、「津田塾大学」へと改名。

女子大学の名門・・・女性進出をうながす勢力を「津田マフィア」というらしいですが、そんな言葉まで生んだ名門が「津田塾大学」なのです。



スポンサーリンク


津田梅子のお墓と「都市伝説」

津田梅子のお墓は、東京都小平市の「津田塾大学キャンパス」内にあります。

そこには「UME TSUDA」と横文字で「津田梅子」の名前が記された、西洋風のお墓があります。

このお墓には、不思議な「都市伝説」があります。

生涯、独身を貫いた「津田梅子」のお墓だからなのでしょうか・・・お墓参りをすると

「恋人に恵まれず、結婚することができなくなる」

という、変な呪いがかけられると噂されているのだとか。

「3回お墓参りをすると、呪いが解ける」

と言われているようです。

慶應義塾大学の創立者「福沢諭吉」にも、似たような都市伝説がありますね。

「キャンパス内の福沢諭吉像に足をかけると留年する・・・。

福沢諭吉先生のお墓参りをすると呪いが解ける」

取るに足らない「都市伝説」でしょうね。



スポンサーリンク


留学で変わった梅子たち!これでいいのか海外留学!

幼くして「岩倉使節団」の団員として留学した「津田梅子」さん。

岩倉使節団で、一緒に留学した「山川捨松(大山巌の妻)」や「瓜生繁子」とは、生涯にわたって友人だったと言われています。

さて・・・「岩倉使節団」には、5人の女子が留学生として参加していました。

その内2人は、いきなりホームシックになって早々に帰国。

残った「津田梅子」「山川捨松」「瓜生繁子」は、全員10歳前という若さで、アメリカで生活を開始。

若い頃をアメリカで過ごしたため、その価値観も風習も、彼女たちはことごとくがアメリカ式に染まったみたいです。

帰国しても、日本の風習なじめず、梅子は「結婚お断り」。靴を脱がずに生活するアメリカ様式を貫いたとか。

「山川捨松」もまた、「結婚はお断り」と言い続けたあげく、温和で海外生活も長かった「大山巌」と恋愛結婚しています。

幼くして渡米した彼女たち。帰国したときに「梅子」は日本語が話せなくなっていたと言います。

「山川捨松」も、帰国後数ヶ月は日本語が話せず、怪しい日本語で会話していたといわれています。



スポンサーリンク


「岩倉使節団」の目的とは、すなわち「海外の最先端の技術や知識を母国へ持ち帰り、それを活かすこと」だったはず。

現在の海外留学とは異なり、「まだまだ新興国の日本」から脱却するための留学だったと思うのですが。

日本語忘れましたか・・・・。

憲政史研究家の「倉山満」先生は

「岩倉使節団は大失敗だった」

と言っていました。

「条約改正」に失敗し、「女子留学」にも失敗・・・。

確かに、「留学はこれでいい」とは言えない気がしますね・・・



スポンサーリンク


新五千円札の肖像画『津田梅子』について「ひとこと」言いたい!

帰国直後、津田梅子は「通訳」を必要とするほど、日本語能力が衰退していたと言われています。

憲政史研究家「倉山満」先生は、「岩倉使節団は大失敗だった」と言っていました。

確かにそうかもしれません。しかし「津田梅子」さんのその後の頑張りと功績は、その失敗を補うに十分だったと、筆者は思うのです。

彼女は「日本語」を忘れたその後、日本語を必死に学び、更には「英語」の教育も開始。

津田塾大学というのちの名門大学の基礎を作り上げ、「女性進出」の土台を作り上げました。

彼女は岩倉使節団で留学した11年を終えたのち、再びアメリカへ留学。3年の間、研究者として活動をしています。

このままアメリカで活動していても、問題なかった彼女ですが、日本へ帰国。

やはり「帰国して日本の発展に貢献する」という大きな志をもっていたのでしょう。

見事に彼女は「岩倉使節団」の役目を、その生涯をかけて達成したと言っていいでしょう。

津田塾大学からは、「政治」「経済」などの分野で活躍する、数々の秀才が誕生しています。

(ディー・エヌ・エー設立「南場智子」、作家「大庭みな子」、法務大臣「森山眞弓」)などなど。

すぐれた人材を育成している津田塾大学。津田梅子の功績は、今なお成果を上げ続けていると言えるでしょう。

 

2019年4月、津田梅子が「樋口一葉」に変わる「新五千円札」の肖像画になることが決まりました。

彼女の女子教育が、現代の日本へ大きく貢献していることが評価されたのでしょう。

「令和」という新しい時代とともに、津田梅子の新五千円札が世の中に広まり、彼女の貢献が世の中に広く知られることを祈ります。

 

令和」という新元号の意味について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

「渋沢栄一」が新一万円札の肖像画に決まったそうです。
「渋沢栄一」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。


スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 津田梅子は、「岩倉使節団」に同行してアメリカへ留学。11年のあいだアメリカで過ごし、後に「津田塾大学」を創立した
  2. 津田梅子は生涯独身だったため、子供はいないが、甥を養子として、現在「津田直」さんという子孫が「津田家」の当主を務めている。
  3. 津田梅子は、長すぎたアメリカ留学で、日本の風習や価値観を忘れてしまったが、それでも日本の発展に貢献する意志を失わず、「津田塾大学」を創立して後進育成に心血を注ぎ続けた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • レキシルの記事を読み、学習していくと「そうだったのか!」や「えっ?」と思うことが出てくる。疑問に思ったことが解決すると、「学習が苦にならなくなる」。もっと早く目覚めるべきだった反省している。
    このサイトに至った経緯
    高杉晋作の子孫に高杉東一という方の名を知った。調べていくと、幼名が梅之進で、名前は春雄ということを知った。そういえば、晋作の愛妾であった「おうの」は、剃髪後「梅処尼」と名乗ったようでだ。「三の会の会員」である私は、「梅」という文字に反応した。そういえば、龍馬は才谷梅太郎という変名があったと聞く。辿り着いた三人目の人物が「津田梅子である」

    ⑴いいね
    ①本文の6行目に女子教育に尽力した「お方」とある。普通は、人物と書くところを敬意を払って表記してある。
    ②しかしの次に「、」がある。レキシルの執筆者の文章を読むと、「しかし、」と書かれている方と無い方に大別される。
    ③ところが、この文章を書かれた方は、文中に「しかし」を三回使用し、二回は「、」を用い、一回はないというパターンの方である。因みに、女性陣の多くが「しかし」の次に「、」がなく、男性陣の多くは、「、」を用いられている。私が教わった国語の先生は、接続詞の次は必ず点を付けよと言われた。

    ⑵誤字だと思います
    ①津田梅子の生涯2行目に1864の次にある「記号・マーク」が変です。
    ②津田梅子の生涯7行目に「若干」とありますが、「若干」は「弱冠」の誤りだと思います。加えて、弱冠6歳という表現は普通しないらしい。使用するのは、17歳からという説や20歳前後に用いるという説があります。
    ③津田梅子の生涯15行目にその後「芸姑」とあるが、「芸妓」だと思います。

    ⑶採用されないと思うが
    ①津田梅子女史に関して、「津田梅子・津田梅子さん・梅子」等と書かれているが、統一してほしい。
    ②「津田直さん」とあったり、「津田眞」と呼び捨て、娘さんには「あい子さん」とあったり、ばらばらである。父親は「さんなし」で、娘には「さん」があるというのも違和感がある。
    ③津田梅子の生涯の7行目に若干6歳とあるが、「年端もいかない6歳」(ちょっと古臭いかも)・「僅か6歳」・「たったの6歳」等の表現が良いと思います。
    Wikipediaで使われている形容詞は、「最も若い」と書かれているが。前文を読むと「最も若い」の意味はわかるが、いきなり「最も若い」では、読む人にはわからない。

    レキシルのコンセプトを読むと、他の記事とは異なり、すっきりしていてとても読み易い。
    Iさんの記事を読むと、46文字の文章に句読点がなく、とても読みずらい。
    記事は、読者あってのものですよという憎まれ口で終わります。

    ・おうのません。」⑶

  • 申し訳ありません、しつこい投稿です。
    ①2021年の5月8日に某テレビ局で、「津田梅子女史」に関する問題(都市伝説)が放映されていました。出題された問題に答えたのは、賢いと評判の女性「A・M」でした。
    驚いたというか、自分の勉強不足を痛感したので、投稿します。彼女の回答のなかで、「官費留学」という言葉を使って回答しているのです。驚きました、私が高校生の時にはとても使えない言葉です。

    ②彼女はどこの大学に進学されるのか、興味があります。この学力何ならば、「東京大学」と思うのですが、楽しみです。

    ③私の「秘密」第二弾
    「〇〇」を餌に仲間に引き入れる等の表現があります。私は「餌」を「餌」に会員を増やしました。参の会は、会員が私だけで寂しいので、我が家の愛犬(もちろん三文字)に、会員になるかと聞きました。三回確認して「ワン」というので会員にしました。

コメントする

目次