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島津斉彬の子孫・家系図や娘の篤姫について!何をした人なのか解説!

薩摩藩主「島津斉彬(しまづ なりあきら)」の「子孫」は、今も続いているのか?そして「天璋院篤姫」と「斉彬」は、どのような関係なのでしょうか?わかりやすく解説いたします。

島津斉彬は、そもそも何をした人なのでしょうか?

国難を予想し、薩摩藩を近代化させた「改革者」だった


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

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この記事を短く言うと
・島津斉彬は「松平春嶽」「山内容堂」「伊達宗城」と並ぶ「幕末四賢侯」の一人

・斉彬公は、名君とたたえられ、薩摩の近代化を一気に進めた

・子供が次々と夭折しているが、子孫は今に続いている・・・らしい


島津斉彬とは?

島津斉彬(しまづ なりあきら)とは何者なのか?

『引用元ウィキペディアより』

斉彬は幕末に、現在の鹿児島県をおさめていた「お殿様」

1600年に「関ヶ原の戦い」で徳川家康に敗北したにも関わらず、領地を全く減らされなかった武将「島津義弘」の子孫です。



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財政難に陥っていた薩摩藩を近代的に生まれ変わらせ、その手腕から「名君」とされました。

とてつもなく賢かったため、「福井藩主・松平春嶽」「宇和島藩主・伊達宗城」「土佐藩主・山内容堂」とともに「幕末の四賢侯」と呼ばれていました。

しかし「松平春嶽」が言うには

「四賢侯なんて呼ばれているが、本当に『賢侯』だったのは『島津斉彬』だけであり、私も山内容堂も、水戸の斉昭公も、ましてや名君・鍋島直正公も、斉彬公には遠く及ばなかった」

とのことです・・・。

この「松平春嶽」は「坂本龍馬」を支えた人物でもあり、当時「日本一賢いお殿様」とも呼ばれていた人ですので、その「松平春嶽」にここまで言わせるとは・・・相当な名君だったのでしょうね。



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何をした人なの?

そもそも「島津斉彬」って、どうしてこれほどまでに「名君」とされているのでしょうか?

一言で簡単に言ってしまうと、「斉彬」公は、「日本が外国に侵略されかねない状態である」ことを予想し、薩摩藩の近代化を、一気にすすめた「改革者」なのです。

薩摩藩は、島津斉彬公の指揮のもと、「反射炉」や「溶鉱炉」などの、近代的「工業化」を進めたのでした。

更には「ガラス」や「ガス灯」・・・国防のために「「地雷」「水雷」、更には造船術を高め、西洋式の帆船「いろは丸」を建造。

木綿紡績の事業も奨励し、更には軍監「昇平丸」まで造ってしまうほど、西洋技術を藩に取り込んでいます。

これだけにとどまらず、島津斉彬は当時最新の「蒸気機関」まで国産で出来ないか?と模索し、国産蒸気船「雲行丸」を作成。

とてつもない功績です・・・。斉彬公は、更に「国の政治」にも影響力を発揮します。

当時は、島津家のような「外様大名」は、国政を担う幕府に意見することは許されていませんでしたが、斉彬公は幕府の政治に介入を続けました。

中でも「将軍後継者問題」について、14代将軍に名君との評価が高かった「一橋慶喜」を推挙し、「徳川慶福(14代将軍・徳川家茂)」を推していた大老「井伊直弼」とぶつかることに・・。

斉彬公は、「篤姫」を13代将軍「徳川家定」の正室に送り込み、次の将軍を「一橋慶喜」にするよう画策。

しかし、「篤姫」による内部工作は失敗に終わり、井伊直弼の弾圧「安政の大獄」によって、一橋慶喜の父「徳川斉昭」公は無理やり隠居。

これに怒った斉彬公は、江戸に兵士を率いて進軍しようとしますが、その矢先に急死。

斉彬公の弟・島津久光を次の当主にしようと画策していた父「島津斉興」や久光の母「お由羅」、その周辺の人間による「毒殺」の可能性もささやかれています。

下級武士だった「西郷隆盛」や「大久保利通」など、明治維新の功臣たちの才能をいち早く見抜き、大抜擢した人物でもあるため、人物鑑定眼も相当に優れていたことがわかります。



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子孫と家系図!「篤姫」とはどういう関係?

島津斉彬の子孫(家系図)

島津斉彬公の子孫は、今も続いているのでしょうか?

斉彬公には、数多く子供がいます。

この内、三女・四女・五女以外の兄妹は、全員が夭折・・・つまり若くして他界しています。

島津斉彬公自身も、暗殺されたともっぱらの噂ですので、もしかしたら子供たちも暗殺?と疑われています。

結局、斉彬公のあとは、弟・島津久光の息子「忠義」が継いで「薩摩藩主」となっています。

子孫なのですが、四女「典子」のみが、お子さんを出産しています。

「典子」と「島津珍彦(うずひこ)」の三女「孝子」が、三菱財閥総帥「岩崎弥太郎」の甥「岩崎小弥太」に嫁いでいますが、子供が生まれなかったみたいです。

「典子」の次女「治子」は、皇室への不敬罪で逮捕されるなど、素行に問題があったようですが、「広子」と「泰子」という娘を産んでいます。

「広子」と「泰子」は、島津斉彬の孫。

次女「泰子」は、貴族院議員「二条厚基」の妻となりましたが、養子しかいません。

長女「広子」は、三井化学の元会長「三井高修」に嫁いで、数多くの子供を残しておられるようです。

現代にも、島津斉彬公の血縁者は残っているとのことですが、残念ながらこれ以上の詳細はわかりませんでした。

ちなみに、斉彬の弟「久光」の子孫は、皇室に繋がっています。


島津久光の子孫」については、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

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篤姫と島津斉彬の関係

ちなみに篤姫島津斉彬は、養女と養父の関係。

それ以前に、実は篤姫と斉彬は、「はとこ」関係なのです。

ふたりとも、島津家九代藩主「島津斉宣」の「ひ孫」。

篤姫は斉彬の養女となり、次に「近衛忠煕」の養女となって格式をあげ、13代将軍「徳川家定」と結婚。

ちなみに、家定は病弱だったため世継ぎに恵まれず・・・・・健康そのものだった篤姫は、それをアピールして将軍に嫁ぐことに成功

周囲から相当強く、世継ぎ誕生を期待されていたみたいです。

14代将軍に「一橋慶喜」を推すために嫁いだ・・・・という説ですが、現在では否定されています。なぜなら、篤姫は当の一橋慶喜を嫌っていたみたいですからね。

大奥に批判的だった「水戸斉昭」の息子ですから、仕方ないでしょうね。


篤姫」について、よろしければ、以下のリンク記事もお役立てくださいませ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・島津斉彬は、「伊達宗城」「松平春嶽」「山内容堂」と並ぶ「幕末四賢侯」の一人

・名君であり、薩摩の近代化を一気に進めた

・子孫としては、孫娘の「広子」さんが子供を何人も残している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

島津斉彬の生涯と暗殺の真相」については、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

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よろしければ、以下のリンク記事もぜひ、お役立てくださいませ。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

    • はじめまして
      貴重なコメントをありがとうございます!

      お祖父様が島津斉彬公の御子孫だとのこと。
      ということは、貴方様もその血を受け継いでおられるということですね!
      メールを頂けまして大変光栄です。
      幕末屈指の名君「島津斉彬」公について、もっと学ばせていただきたいと思います。
      何卒今後とも、当サイトをよろしくお願いいたします!
      失礼いたしました。

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