【島津久光】西郷隆盛と仲悪かった理由は?評価が低い殿様だった!

島津家・薩摩藩主の父「島津久光」

西郷隆盛と不仲だったと言われているが、その理由とは?

名君と呼ばれた兄「島津斉彬」とは違い、久光に対しての後世の評価は・・・低いかった?


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この記事を短く言うと

島津久光は、西郷隆盛とは仲が悪かった

・不仲の原因は、兄「島津斉彬」に比べると弟「島津久光」の器が小さく、斉彬を強く尊敬していた西郷からすると、応援するつもりになれなかったから。または「久光は斉彬を暗殺した」と西郷が思っていたから不仲だったとも言われている

・島津斉彬・西郷隆盛に比べると、島津久光の評価は低い


島津久光と西郷隆盛は、不仲だった?

名君「島津斉彬」の弟にして、鹿児島藩主「島津忠義」の父「島津久光

藩主の父ということで「国父」とも呼ばれた、実質的な藩の全権者。

そんな「島津久光」は、家来であるはずの「西郷隆盛」と、かなり仲が悪かったと言われています。

1862年、島津久光は西郷隆盛を、命令違反の罪で「島流し・流罪」としています。

それを「小松帯刀」や「大久保利通」が赦免運動を起こしたために、赦免せざるを得なくなったのだとか。

その時、久光はあまりにも悔しかったため、口にくわえていた銀のキセルを食いしばり、歯型を残したほどだったと言われています。

野心家で知られた島津久光・・・清廉潔白で有名な「西郷隆盛」とは、合わなくて当然だったでしょう。

明治維新後には、「廃藩置県」や「廃刀令」に不満を抱き、「廃藩置県」のときには抗議の意味を込めて、一晩中自宅で打ち上げ花火を上げさせた、とか。

政府を相当に悩ませたらしく、厄介者として記録されているようです。


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不仲の理由とは?

具体的に、西郷と久光の不仲の理由は、何だったのでしょうか?

清廉潔白な西郷と、野心家な島津久光・・・・合わないのは当然です。

具体的に『不仲』になった原因は、「西郷隆盛」の「苦言」と「命令違反」

久光は、野心家だけあって、とにかく立身出世・・・政界で存在感を露わにすることを目指していたのです。

そのために何をしようとしたかというと、「軍を率いて京都に行く」こと。

なぜそんなことをしようというのか?

当時・・・「公武合体」といって、「幕府と朝廷が協力して、幕末の西欧諸国に対抗すべき」・・という意見が全国に広まっていました。

その公武合体を推進して、更には「幕府の政治を改革する」ために、京都へ行って朝廷に働きかける・・・。

軍事的圧力をかけるために「軍隊」を連れて行く・・・という作戦でした。

これは、名君とうたわれた久光の兄「島津斉彬」が考えていた一大改革イベント。

兄の意志を継ぎ、この改革を実行しようとした久光。

しかし、これに真っ向から反対したのが「西郷隆盛」です。

なぜ反対したかというと、「江戸育ちの島津斉彬とは違い、久光は薩摩育ちで、全国の大名との人脈がない上に人望がなかった」から。


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更に西郷隆盛は

「恐れながら久光様は、田舎者(ジゴロ)ですので・・・」

と発言・・・。これに島津久光は激怒したのです。

久光は、西郷の意見を無視して、1862年・軍を率いて京都へ・・・・。

しかし、先発した西郷は、島津久光からの「下関で待機せよ」という命令を無視。

暴動が起こりかけていた大坂へ直行し、暴動を静止。

命令違反をした西郷に、島津久光は流罪を言い渡します。

1864年、先程ご説明したとおり、小松帯刀・大久保利通の斡旋で、島津久光は西郷を許したのですが、キセルに歯型が残るほど、悔しがったとのこと。

西郷隆盛は、久光の兄で名君の評判が高かった「島津斉彬」を崇拝していました。

何と言っても、下級武士の西郷隆盛を見いだしたのは「島津斉彬」なのですから。

その「斉彬」に比べると、久光はあまりにも小さかった・・・。

だからこそ、斉彬公と同じことをしようとする野心家・久光に、西郷隆盛は馴染めなかったのかもしれません。

そして一説によると、西郷は「斉彬とその子供達」が亡くなった理由を「久光に暗殺された」と考えていた・・・とも言われています。そのため、西郷は久光を恨んだ・・という可能性もあるのです。


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「久光」の評価は低い?

島津久光公・・・・最終的に最高の官位「左大臣」になっています。

しかし、明治維新の政治改革が進み、結局「左大臣」という職は有名無実化します。

そのため久光には、何の実権もないことになり、政治にも携われませんでした。

久光は、その後「西郷隆盛」「大久保利通」がすすめた改革に、徹底的に反対します

「廃藩置県」「廃刀令」などなど。

「廃藩置県」に反対して、打ち上げ花火を一晩中打ち上げたり・・・。

「廃刀令」に反対して、死ぬまで刀とマゲを続けたとか・・・。

一応は維新の功労者である「久光」に対し、明治政府は苦労させられます。

西郷隆盛が「西南戦争」をおこした時、島津久光も何かやらかすのではないか?と疑いを持たれます。

しかし、反乱などは行わず・・・・。

始末に困った明治政府は、最後まで島津久光に対し、最高の位で処遇し続けました。

1887年に亡くなったときには、国葬でおくられます。


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「俺は将軍になる」

と、島津久光は発言していたという説がありますが・・・証拠や根拠はなく、はっきりしていません。

野心家の島津久光なら、言っていてもおかしくない気がしますが・・・。

清廉潔白で、当時から人気が高かった偉人・西郷隆盛と対立した島津久光・・・。

歴史的な評価は、残念ながら巨人「西郷隆盛」、名君「島津斉彬」の影に隠れてしまっている感があります。

とはいえ、島津久光が軍を率いて京都へ行き、幕府へ改革を促したことで、「参勤交代」が緩和されるなどの効果があったことは確かです(文久の改革)。

西郷に比べると見劣りはするものの、倒幕を成し遂げた際の薩摩藩最高権力者は、間違いなく「島津久光」だったのです。


西郷隆盛の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

↓↓↓↓↓

「西郷隆盛の家系図を調査!子孫はカフェ経営やタレント女医の夫に?」の記事はコチラ

島津斉彬の子孫や功績」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

↓↓↓↓↓

「島津斉彬の子孫・家系図や娘の篤姫について!何をした人なのか解説!」の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・島津久光と西郷隆盛は、仲が悪かった

・西郷隆盛が、島津久光の「京都行き」に反対し、島津斉彬に比べて劣っていると面と向かっていったため、西郷は久光に嫌われた

・島津斉彬・西郷隆盛に比べると、島津久光の評価は低い

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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