天草四郎時貞の死因は何だったのでしょうか?
最期の様子などもふくめて、わかりやすく解説いたします。
1638年【島原の乱】を起こした美少年・天草四郎。
彼は超能力者だったとか、数々の奇跡を起こしたと、都市伝説のような逸話が数多くあります。
まるでイエス・キリストのようです。
そんな天草四郎が豊臣秀吉の孫だったという噂もあります。調べてみました。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 天草四郎の死因ははっきりわかっていない。ただ陣佐左衛門という武者に首を討たれていたらしい
- 天草四郎は【海の上を歩いた】とか【目の見えない少女の目を治した】など、キリストと同じ奇跡を起こしたという都市伝説らしきものがある
- 天草四郎には【豊臣秀吉の孫】という噂があるが、本名は【益田四郎時貞】で、秀吉の孫という可能性はきわめて低い
天草四郎の死因と最後
死因が戦死という以外は不明
天草四郎の死因ですが、戦死で間違いないですが、詳細について、実はハッキリしていません。
戦死したことだけは確かですが、刀で斬り殺されたのか、鉄砲で銃殺されたのか、はっきりしていないのです。
1637年、九州の島原という地で、領主の悪政に苦しんだ領民が、天草四郎をリーダーにして、反乱を起こしたのでした。
それが島原の乱です。
三代将軍・徳川家光をトップとする幕府軍は、知恵者と評価がたかかった松平信綱をおくりこんで、反乱を鎮圧します。
反乱軍は敗北し、拠点であった原城に、幕府の軍が押し寄せます。
幕府軍の中に、肥後(熊本県)の細川家の家来であった陣佐左衛門という武者がいました。
この陣佐が、天草四郎を討ち、その首を取ったといわれています。
幕府軍は、敵の総大将・天草四郎の顔を知らなかったため、同じ年頃の少年の首をつぎつぎと持ち込み、天草四郎の母親に見せていきました。
すると陣佐がもつ首をみて、彼女は泣き崩れたのでした。
こうして、天草四郎は亡くなったのです。
天草四郎は何歳で死んだの?
16歳で亡くなったとされています。
現在では未成年ですが、当時はこの年頃には元服(成人)していました。
幼名ではなく、天草四郎時貞という成人男性の名前を名乗っていますので、子供扱いはされてなかったのでしょう。
天草四郎の都市伝説!キリストと同じ奇跡を起こしていた
天草四郎には、盲目の少女の目を治した、海上を歩いたなど、数々の軌跡を起こした逸話があります
まさに奇跡の子だったのです。
当時、島原の地域ではキリスト教の信仰が盛り上がっており、キリシタン禁教令によって、弾圧を受けていました。
そんな中、ママコスという神父が、1614年にある予言を残します。
「今から25年後、1人の少年がこの地に現れ、十字架をたててキリスト教徒を救うだろう」
23年後、島原の乱が起こるわけですが、そこで16歳の美少年・天草四郎がリーダーとして祭り上げられたのでした。
天草四郎は、数々の奇跡を起こしたことで、一気に有名になります。
- 触れただけで、目の見えない少女の目を治した
- 海の上を歩いた
- 鳩が彼の手にとまり、卵を産んだ。その卵の中から、聖書がでてきた
- スズメにむけて魔法をとなえると、スズメは動かなくなり、天草四郎やすやすとスズメをとらえることができた。
- 5歳で読み書きがほぼ完ぺきにできた
これらの奇跡とよく似たものを、イエス・キリストが起こしたといわれています。
- ・水をワインに変えた
- ・「ダビデの子よ(キリストのこと)。私達をあわれんでください」と言って近づいてきた目の見えない二人の少女を、イエスは治してみせた
- ・湖の上を歩いた。
- ・イエスが示した海へ網を入れると、大漁の魚が取れた
などなど。
どれもこれも、天草四郎のカリスマ性を演出するための創作、つまりガセである可能性が高いと思います。
天草四郎は、生まれながらにカリスマ性があったと言われています。
つまり、相当な美少年だったのでしょう。
ひと目見てわかるカリスマ性、それはイケメンであったということだと考えられます。
そんな天草四郎のカリスマ性を更に高めるために、これらの奇跡を演出してみせたのではないでしょうか。
ママコス神父が予言した25年後の1年前に、天草四郎は亡くなってしまいます。
つまり、予言は外れたということではないでしょうか。
天草四郎の本名は豊臣秀綱?秀吉の子孫だった?
天草四郎は秀吉の孫ではない
天草四郎には、豊臣秀吉の孫、つまり豊臣秀頼の息子であるという説があります。
本当でしょうか?
天草四郎の本名は益田四郎時貞。
関ヶ原の戦いで石田三成とともに戦い、斬首刑となったキリシタン武将・小西行長の家来で、益田好次とその妻・よねの子なのです。
天草四郎はキリスト教徒であり、洗礼名はジェロニモ、のちにフランシスコに改名しています。
天草四郎が豊臣の子であるという説には、何の根拠もありません。
ただ、天草四郎の馬印(大将の印)が、秀吉・秀頼と同じひょうたんのデザインだっただけです。
ただ、秀吉の末裔であるという噂を広めれば、反乱軍の数を増やすことができると、誰かが考えてわざとその噂を広めたのかもしれません。
天草四郎の本名は豊臣秀綱であるという説もあるようですが、本名は益田四郎時貞で間違いありません。
秀頼の子という説は、おそらく間違いでしょう。
ちなみに、天草四郎は16歳という若さで亡くなっていることもあってか、子供はいないようです。
つまり子孫はいません。
天草四郎の生涯年表
1614年、ママコフという神父が「25年後に神の子がこの地に降り立ち、みんなを救う」と予言する。
1621年、天草四郎が天草諸島で生まれる。その後、数々の奇跡をのこす。
1637年、島原の乱発生。天草四郎が民衆をひきいるリーダーとなる。
1638年4月12日、陣佐左衛門に討ち取られる。天草四郎、戦死。享年16歳
天草四郎について、ひとこと言いたい!
本当に16歳の天草四郎が、島原の乱の首謀者だったのでしょうか?
現実的に考えて、16歳の少年が、反乱軍をひきいることが出来たとは思えません。
未成年に、あれだけの大規模反乱が起こせたとは到底思えません。
反乱軍は幕府軍の歴戦の将である板倉重昌を討ち取っているのです。
しかし、16歳の少年の指揮で、果たしてそんなことができるのでしょうか?
実際には、天草四郎は周囲の大人たちから、ただ祭り上げられただけだったのではないでしょうか。
とても美しい顔立ちをしていたという天草四郎。
それだけの理由でカリスマとして祭り上げられ、最期は若くして亡くなったのでした。
- 若い
- 美少年
- 賢い
- 悲劇的な最期を遂げた
まるで源義経のような、まさに悲劇のヒーローです。
悲劇のヒーローらしく、天草四郎は生き延びていたという説もあるようです。
しかし生き延びた可能性は、低いのではないかと思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 天草四郎の死因は陣佐左衛門という武者に首を討たれたこと。
- 海の上を歩いた、盲目の少女の目を治したなど、天草四郎にはキリストと同じ奇跡を起こしたという都市伝説のような逸話がある
- 天草四郎は豊臣秀吉の孫であり、豊臣秀頼の息子だったという噂があるが、本名は益田四郎時貞であり、秀吉の孫である可能性は低い
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント