天下人・徳川家康の正室と側室一覧!妻たちの家系図・素性をみると、家康の好みが見えてくる
実はかなりの女好きだった徳川家康。
そして女性を選ぶ際には、【過去に子供を産んだことがある】という実績を重視していたことがわかります。
家康が女性を選ぶ際に重視するのは、子供が産めるか否か。
特に【子供を産んだ経験がある女性】を好んでおり、出産を女性に求めていたことがよくわかります。
この記事では、家康の側室たちについて、家系図つきでわかりやすく解説いたします
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この記事を短く言うと
徳川家康の妻たち!正室・側室一覧を家系図でわかりやすく解説
徳川家康の妻たちと子供達を一覧でまとめてみました
家康の正室
側室一覧
- 西郡局(家康の最初の側室。次女・督姫の母。松平信康と五徳姫の2人の娘である熊姫と登久姫を養育したという)
- 長勝院(お万の方、次男・結城秀康の母)
- 於愛の方(通称・西郷局。三男・徳川秀忠と四男・松平忠吉の母)
- お竹の方(三女・振姫の母)
- 下山殿(五男・武田信吉の母)
- 茶阿局(六男・松平忠輝、七男・松千代の母)
- お久の方(四女・松姫の母)
- お亀の方(八男・仙千代、九男・徳川義直の母)
- お万の方(十男・徳川頼宣、十一男・徳川頼房の母)
- お梶の方(五女・市姫の母)
- お梅の方
- 阿茶局
- お牟須
- お仙の方
- お六の方(晩年の家康がもっとも愛した女性、家康の好きなものは3つあり【本多正信と鷹とお六】と呼ばれた)
- お夏の方
- 富子
- 法光院
- 三条氏
→→→→→【お愛の方の子孫・最期の様子・死因】についてくわしくはこちら
余談になりますが、家康の十男・徳川頼宣と、十一男・徳川頼房を産んだお万の方は、2022年大河ドラマ【鎌倉殿の13人】で活躍した御家人・三浦義村の子孫にあたる人物です。
徳川幕府15代将軍のうち、8代目の徳川吉宗から15代目の徳川慶喜までは、このお万の方の子孫にあたります。
つまり8代から15代まではすべて三浦義村の末裔ということです。
また徳川慶喜は、お愛の方の孫娘にあたる【千姫】を通じての子孫でもあります。(千姫は、徳川秀忠の長女)
→→→→→【三浦義村の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
家康の子供たち一覧
家康には十一男・五女と、合計で16人の子供がいました。
その中で、50歳以上まで生きたのは、以下のわずか6人のみです。
- 三男・秀忠
- 六男・忠輝
- 十男・頼宣
- 十一男・頼房
- 長女・亀姫
- 次女・督姫
平均寿命が極端に短い時代とはいえ、あまりに早死が過ぎる気がします。
徳川家康は、非常に女性好きです。
そして、子供の割合が【男の子】のほうが多いことがわかります。
家康の妻たちの素性や家系図
家康の奥様たちの素性・出身・家系図は、どのようになっているのでしょうか?
以下にまとめてみました。
家康の正室の素性と家系
- 築山殿(今川義元の姪・関口親永の娘)
- 朝日姫(豊臣秀吉・秀長兄弟の妹)
家康の側室の素性と家系
- 西郡局(今川家の家臣・鵜殿長忠の養女。実父は鵜殿長忠の家臣・加藤義広)
- 長勝院[お万の方](家康の従姉妹)
- お愛の方(西郷局・戸塚忠春の娘)
- お竹の方(武田旧臣・市川昌永の娘)
- 下山殿(秋山虎康の娘・穴山信君の養女)
- 茶阿局(地侍・山田八左衛門の娘)
- お久の方(北条旧臣・間宮康俊の娘)
- お亀の方(志水宗清の娘)
- お万の方(正木時通の娘)
- お梶の方(太田康資の娘)
- お梅の方(豊臣家臣・青木一矩の娘)
- 阿茶局(武田家臣・飯田直政の娘)
- お牟須(武田旧臣・三井吉正の娘)
- お仙の方(武田旧臣・宮崎泰景の娘)
- お六の方(お梶の方に仕えた部屋子)
- お夏の方(長谷川藤直の娘)
- 富子(出自不明)
- 法光院(出自不明)
- 三条氏(出自不明)
これをみると、側室の多くが、身分の低い女性が多いことがわかると思います。
秀吉の妹・朝日姫(旭姫)の悲劇と、家康にもたらした幸運
豊臣秀吉は、小牧長久手の戦いで負けてしまった宿敵・徳川家康を屈服させるために、自分の妹である朝日姫(旭姫)を嫁がせています。
この朝日姫が、家康に天下人となるための幸運をもたらすことになるのです。
実は朝日姫には、家康と結婚する前に、副田甚兵衛吉成という夫がいました。
秀吉は、朝日姫を家康に嫁がせるため、無理やり副田甚兵衛と離婚させたといいます。
余談ですが、副田甚兵衛は、秀吉から離婚してくれる条件として提案された5万石の領地を断って、故郷である尾張国愛知郡烏森という場所に隠棲したといわれています
そして朝日姫を家康に嫁がせたのでした。
このとき朝日姫は40歳を過ぎていました。
朝日姫はその後体調を崩し、1590年に病死。
享年47歳。
お墓は京都の清水寺近くにある東山の東福寺・南明禅院
秀吉は朝日姫亡くなった時、天下統一の総仕上げである小田原合戦の直前でした。
この朝日姫との結婚のおかげで、家康は大出世することになります。
家康は豊臣政権のなかで、織田信雄に次いで、秀吉の実弟である豊臣秀長と並ぶ、豊臣家ナンバー3の地位を獲得します。
理由は簡単で、家康が秀長と並ぶ、秀吉の義弟だったためです。
織田信雄は秀吉の主君・織田信長の息子なので、豊臣政権ナンバー2となっていましたが、1590年の小田原合戦で秀吉に逆らって激怒され失脚しています。
その後、豊臣秀長が亡くなると、家康は豊臣政権のなかで、秀吉の親友・前田利家をも超えるナンバー2の地位を得て、関東250万石という最大の領地を手に入れるのです。
このとき豊臣政権での領地の大きさは、毛利輝元と上杉景勝がともに約120万石で、前田利家は約80万石でした。
つまり家康は、毛利輝元と上杉景勝の領地を合わせてもかなわないほど、巨大な領地を手に入れていたのです。
もちろんこれは忠実で誠実な家康の働きが、秀吉を満足させるものだったわけです。
しかしそれ以上に、朝日姫がもたらしてくれた【秀吉の義弟】という立場が、家康を躍進させた原因の一つなのだと考えられます。
その後、家康は圧倒的な武力で関ヶ原の戦いで勝利し、天下を手に入れるのです。
秀吉は、何世代にもわたって自分の一族に仕えてくれている譜代の部下というものをもっていませんでした。
そのため、加藤清正や福島正則のような、自分と血のつながりのある身内に積極的に難しい仕事を任せ、大きな手柄をたてさせて取り立てようとしたのです。
おそらく秀吉は、家康に対しても、自分を支えてくれることを期待して、大きな領地を与えたのでしょう。
それが豊臣家滅亡という災いを招くとも知らずに・・・。
→→→→→【朝日姫(旭姫)の最期と死因】についてくわしくはこちら
家康の最初の側室・西郡局と、その子・督姫について
西郡局とはどんな人?
徳川家康の最初の側室は、西郡局という女性です。通称は西郡の方と呼ばれていたようです。
彼女は、家康が三河・遠江で戦争を繰り返していた、今川氏真の部下で一族でもあった鵜殿家のそのまた部下・加藤義広の娘です。
ところが彼女は、この加藤の家から、鵜殿長忠の養女となってから、家康の側室となったようです。
【1606年】、西郡局は京都の伏見城で急死しています
頓死という記録があるので、病気で突然亡くなったと考えられます。
(不思議なことに、まったく同じ日に、徳川家康につかえた四天王のひとり榊原康政も亡くなっています。)
西郡局と家康のあいだには、家康の次女・督姫という娘がひとりだけ産まれました。
この督姫は、婚姻関係で悲劇的な運命をたどっています。
家康と西郡局の娘・督姫の悲劇
徳川家康と西郡局のあいだには、督姫という一人娘がいました。
督姫は、関東を支配していた北条家の5代目・北条氏直に嫁いでいます。
【1582年】の本能寺の変で織田信長が亡くなると、徳川家康は甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の支配権を、北条氏政と争うことになります(天正壬午の乱)
ところが、この戦いで家康は北条氏政と和睦(仲直り)し、徳川と北条は同盟を締結することになるのです。
その同盟の保証として、督姫は北条氏政の子・北条氏直に嫁ぐことになったのです。
【1590年】、豊臣秀吉は北条氏直を討伐するために22万の大軍団を、北条氏直が住む小田原城へ向かわせます(小田原合戦)
この小田原合戦の軍の中に、徳川家康も参加していました。
つまり家康は、娘婿である北条氏直と戦うことになったのです。
督姫は夫・氏直と、父・家康のあいだで板挟みになるという悲劇に見舞われてしまうのです。
家康はこのとき、北条氏直に対して、娘の督姫を返せと要求。
督姫と北条氏直は離婚。
のちに督姫は氏直のもとへ戻りましたが、氏直は1591年に亡くなってしまいます。督姫と氏直の二人の娘は幼くして亡くなっているのです。
北条家は豊臣秀吉によって滅ぼされ、関東の覇者から1万石の大名へ格下げとなり、明治維新まで存続しています。
督姫は【1594年】、豊臣秀吉の命令によって、大名・池田輝政と再婚することとなります。
実は池田輝政の父・池田恒興は、【1584年】の小牧長久手の戦いで家康によって討ち取られていました。
督姫は、そんな池田輝政との関係修復を、家康からたくされていたのです。
その甲斐あってか、池田輝政は家康に協力。
余談ですが、池田輝政は器の大きい人物で、父・池田恒興を討ち取った人物の領地をもっと大きくしてやってくれと、たびたび家康に頼んだとのこと。
父を討った人物の石高を知り【俺の父の首の価値はその程度か】と嘆いたともいわれています。
話を戻しましょう。
【1600年】の関ヶ原の戦いでは、難攻不落の名城・岐阜城を1日で陥落させ、家康の天下取りを強烈に後押ししたのでした。
これが、家康が関ヶ原の戦いで勝利できた転換点になったと考えられています。
督姫と池田輝政とは仲が良く、五男二女を産んでいます。
【1615年】、督姫は家康に会うため二条城へ向かい、そこで天然痘という病気で死去。
父・家康が亡くなる1年前のことでした。
督姫は、夫・氏直と離婚させられ、氏直とのあいだに生まれた子供に先立たれ、最後は父・家康より先に亡くなってしまうのです。享年41歳または51歳ともいわれています。
その後、池田家は徳川家からの信頼を勝ち取り、池田一族合計で100万石の領地を支配しています。
督姫の毒饅頭伝説
西郡局の娘・督姫には、自分が産んだ息子を池田家の後継者とするために、血のつながらない義理の息子を毒饅頭で殺害しようとしたという伝説があります。
督姫が池田輝政と再婚したとき、輝政には嫡子・利隆がすでに産まれていました。
そのため、督姫は利隆を毒まんじゅうで殺害し、自分が産んだ子である池田忠継を池田家の後継者にしようとしたのです。
ところがこれを阻止したのが督姫の息子・池田忠継でした。
忠継は異母兄・利隆を救うため、母・督姫が用意した毒まんじゅうを、兄の代わりに食べて死去。
これに恥じた督姫も毒入りのまんじゅうを食べて亡くなったというのです。
もちろんこれは、後世の創作であり、事実ではありません。
督姫が亡くなった慶長20年(1615年)2月4日のわずか19日後にあたる2月23日に、督姫の息子・池田忠継もまた、督姫と同じ天然痘という病気で亡くなっているのです。
おそらく督姫と忠継は、同じ経路から天然痘という感染症に感染してしまったのでしょう。
督姫が産んだ池田忠継の弟・池田忠雄は池田家の分家を継承。
西郡局の血を引く池田家の分家は、鳥取藩32万石の藩主として、【1868年】の明治維新まで存続しています。
余談ですが鳥取藩の最後の藩主・池田慶徳は、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜の異母弟。
鳥取藩は藩主が後継者を残さず亡くなったため、義徳を養子にむかえているのです。
徳川慶喜は、家康の長男・松平信康や、孫娘・千姫の子孫にあたります。
家康の好みの女性のタイプとは?
家康は66歳で、末娘の市姫をもうけています。
母親はお梶の方だが、市姫は幼くして亡くなっています。市姫は、予定では後水尾天皇の妻となるはずだったともいわれています。
家康は、かなりの女好きだったのでしょう。
そんな女性好きだった家康ですが、側室たちを見てみると、好みの女性のタイプが見えてきます。
そこには2つのパターンがあるようです。
- 子供を産んだ経験がある
- 身分が低い女性
子供を産んだ経験がある女性
家康は女性に子供を出産することを望んでいたようです。
そのため、既に出産を経験している・既に子持ちという実績を、女性選びの目安にしていたらしく、側室には相当な割合で未亡人や再婚・子持ちの女性がいます。
子孫を多く残す・・・という確かな目的を持って側室を選んでいたようです。
それともう一つ・・・どうやら家康は梅毒を警戒していたみたいです。
当時、梅毒は非常に致死率の高い病気でした。
歴戦の猛者であった名将・加藤清正、浅野幸長も、遊女を好んだため梅毒で亡くなったのだとか。
家康は梅毒と遊女を警戒して、出産経験のある女性を好んだのではないでしょうか。
身分が低い女性
家康の側室は、そのほとんどが身分の低い女性ばかりです。
豊臣秀吉の場合は例えば、織田信長の姪または由緒ある名門の娘など、ブランドを重視し、身分の高い女性を好んでいました。
なぜ身分の高い女性を好んだかというと理由は簡単で、自分の身分が低いため、身分の高い人物の血を引く子供をもうけて、その子の後ろ盾になってもらおうと考えたためです。
秀吉は特に、織田信長の血筋を最高のものと考えて、信長の娘や姪を側室としています。
信長の血を引く女性との間に子供を儲ければ、織田家の家来だった武将たちは、ことごとく秀吉の子供にひざまずくことになります。
実際、信長の姪である淀殿が産んだ豊臣秀頼に対して、信長の血を引くことを理由に、前田利家は大切にあつかったともいわれています。
家康は秀吉の反対で、身分の低い武士の娘を好んでいます。
正室の築山殿や朝日姫の身分が高かったため、相手の実家に気をつかった経験があるため、せめて側室には気を使わなくて済む人を求めたのでしょう。
家康は、どうやら息子の徳川秀忠にも、身分の低い女性を側室にするようにとすすめていたようです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 家康の正室は、今川義元の姪【築山殿】と、豊臣秀吉の妹【朝日姫】の二人
- 側室達は、ことごとく身分が低い。
- どうやら家康は、子供を出産した経験有る女性、または身分が低い女性を好んだらしい
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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