この記事では「足利義輝が使っていた家紋」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「足利家の家紋」が、どのようなものなのかが、カンタンに理解できます。
「足利家」は「二つ引両」という家紋を使用していたのです。
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この記事を短く言うと
1,「足利義輝」が使っていた家紋とは?
足利家の家紋は「二つ引両(ふたつひきりょう)」という家紋。
2,「二つ引両」という家紋は、何を意味しているのか?
「二つ引両」は、「龍」をあらわしている。
3,「足利家」以外に、「二つ引両」を使用した一族とは?
足利家の他にも、「吉良家」や「今川義元」の「今川家」、「喜連川家」、「一色家」、「畠山家」、「斯波家」、「細川家」などが、【二つ引両】を使用していた。
足利義輝の家紋を、画像付きでご紹介!
足利義輝が使った家紋は、足利家の家紋「二つ引両(ふたつひきりょう)」という家紋です。
二つ引両」の家紋は、以下のような、丸に二つの線を引いた形をしています。
この家紋は、「足利尊氏」や、そのライバルであった「新田義貞」が使用した家紋です。
「室町時代」に、この「二つ引両」の家紋は、「足利将軍家」の象徴となっていました。
足利家の家紋「二つ引両」に秘められた意味とは?
「二つ引両」は、「龍」を表したものだといわれています。
「二つ引両」の「両(りょう)」という文字が、「龍(りゅう)」を表しているとも言われているのだとか。
この家紋には、横線が一本だけの「一つ引両」や、三本の「三つ引両」など、数々のバリエーションが存在しています。
足利家は、「室町幕府」を開いていたあいだ、家来たちに対して、この「二つ引両」の家紋の使用を許していました。
そのため、戦国時代には、数多くの武家が、「二つ引両」を使っていたのです。
足利義輝の死後、「二つ引両」の家紋を使用した一族
足利義輝が亡くなったあとも、「足利家」の分家や、室町幕府に仕えた武家は、「二つ引両」の家紋を使用し続けました。
たとえば、「足利家」の分家「吉良家」や「今川家」。
「今川家」では、「今川義元」が二つ引両の家紋を使用していました。
室町幕府の名門である「三管領家」と呼ばれた
- 「細川家」
- 「斯波家」
- 「畠山家」
も、二つ引両を使っています。
「細川家」とは、肥後細川家の本家のことです。
この「肥後細川家」の藩主「細川忠興」の父「細川藤孝」は、「二つ引両」を使っていました。
「四職(ししき)」と呼ばれた室町幕府の名門「一色氏」でも、二つ引両を使っています。
足利家のその後!実は現在も子孫が続いている!
足利家は、13代将軍「足利義輝」が【1565年】に「永禄の変」で暗殺されます。
その後、「織田信長」の協力を得て、「義輝」の弟「足利義昭」が15代将軍に就任。
しかし【1573年】に、「足利義昭」は織田信長によって京都から追放され、「室町幕府」は滅亡。
義昭はその後「豊臣秀吉」につかえて、【1597年】に病死します。
足利家は、その後も複数の血筋が伝わり、現代に続いています。
江戸時代から明治維新を経て、現代まで続く「喜連川(きつれがわ)」家も、足利家の分家として有名です。
家紋はもちろん「二つ引両」です。
2014年現在、「喜連川家」の末裔である「喜連川足利家」は、「足利浩平」さんという方が、当主をつとめておられます。
また、「足利義輝」の息子が生き延び、明治維新まで子孫を伝えたと言われています。
「足利義輝の子孫」については、以下のリンク記事で、家系図つきでくわしく解説しております。
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歴史上の有名人が使用した「家紋」について、以下のリンク記事で、くわしく解説しています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,足利家の家紋は「二つ引両(ふたつひきりょう)」という家紋。
2,「二つ引両」は、「龍」をあらわしている。
3,足利家の他にも、「吉良家」「今川家」「喜連川家」「一色家」「畠山家」「斯波家」「細川家」などが、【二つ引両】を使用していた。
以上となります。
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