【巴御前とは】最強の逸話と家紋の真実!彼女の武器・刀が今も使われてる

巴御前とは何者なのか?その逸話や伝説について、わかりやすく解説いたします。

 

源義経に敗北した猛将「木曽義仲」の愛人「巴御前」。

 

美女ながらも猛将としてその名を轟かせた女性です。

 

現在も、「薙刀」にその名が残る「巴御前」について、くわしく調べてみました。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,巴御前とは、木曽義仲の愛人だった「女武者」。力持ちで有名な女性で、男の武者をしめあげて殺したとか、戦場で大活躍したという逸話がある。

 

2,巴御前は、薙刀をつかっていた女武者として有名。現在でも薙刀は「巴御前」の名前をとって「ともえがた」とよばれる形状のものが存在している

 

3,巴御前の家紋は「三つ巴紋」といわれている。また、彼女のお墓とされるものは、日本各地にあるが「滋賀県大津市」の「義仲寺」、そこの「木曽義仲の墓」のわきに、巴御前の墓もある


【巴御前】とは?最強の女武者、その恐るべき逸話

「巴御前(ともえごぜん)」

 

平安時代末期(12世紀末ころ)、源平合戦の時代に活躍した「女武者」です。

《巴御前》
「引用元ウィキペディアより」

 

巴御前は、平家を都から追い出し、源頼朝や源義経と戦った「木曽義仲」の愛妾だった女性です。

 

木曽義仲を父親代わりとして育てた「中原兼遠」の娘が「巴御前」。

 

その巴御前の兄である「樋口兼光」「今井兼平」は、「木曽四天王」と呼ばれる木曽義仲配下の猛将でした。

 

巴御前と「木曽義仲」の間には「義高」という息子がおり、人質として「源頼朝」に差し出されたものの、義仲が亡くなった直後に、頼朝に討ち取られています。

 

木曽義仲は「旭将軍」と呼ばれた軍事の天才。

 

「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」で猛牛の角に松明をつけて平家軍10万に突撃させた「火牛攻め」を行ったことでもその名を轟かせた猛将。

 

この「倶利伽羅峠の戦い」で、巴御前は活躍しています。


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巴御前の逸話

巴御前といえば「大力」で有名です。

 

有名な逸話としては、1184年「宇治川の戦い」における活躍でしょう。

 

京都へ進軍してきた「源義経」の軍に、「木曽義仲」の軍は敗走。

 

最期の数人になって逃げる「木曽義仲」と、それにしたがう「巴御前」。

 

木曽義仲は女性である巴御前に、再三逃げるように命じます。

 

最初は命令を拒否していた巴御前も、最期はその言葉にしたがい逃亡を決意。

 

しかし後ろから「剛力」で有名な敵将「恩田師重」が迫ってくると、巴御前は義仲に向けて

「わたくしの最後の戦をご覧に入れます」

と言って、恩田師重を組み伏せて、見事に撃破。

 

その後は、東国へ逃げて行方をくらました・・・。

 

または、追いかけてきた武者二人を脇に抱え、首をしめたところ、二人の武者は首がとれて死んでしまった・・・という逸話もあります。

 

 

巴御前は、大人でも引くことが難しかったという「強弓(こわゆみ)」を使いこなした「大力の女武者」となっています。

 

1181年「横手河原の戦い」でも、巴御前は活躍し、敵の騎馬兵「7人」を討ち取ったと言われています。

 

 

東国逃げのびた「巴御前」は、その後「源頼朝」の追跡を逃れ、行方をくらましたとか。

 

または「源頼朝」に呼び出されて気に入られ、頼朝の有力家臣だった「和田義盛」の妻と成って「朝比奈義秀」という子供を産んだとか。

 

「和田合戦」という戦いで、夫「和田義盛」は戦死。

 

息子の「朝比奈義秀」は、母譲りの武力で生き残り、その後は行方不明となっています。

 

朝鮮半島へ渡った・・・という逸話もあります・・・。

 

巴御前はその後、夫「和田義盛」の供養をしながら91歳まで生きたと言われています。

 

また、別の説によると、「木曽義仲」の死後、巴御前は現在の「滋賀県大津市」の「義仲の墓」ちかくに住み着き「名もなき女」と名乗って、毎日毎日「義仲」の供養をしたのだとか。

その寺が「義仲寺(ぎちゅうじ)」であり、現在も「滋賀県大津市」に国の史跡として残っています。

 

なんでも「松尾芭蕉」はこの地を気に入って、木曽義仲の墓の隣に葬られたのだそうです。

 

そのため、「松尾芭蕉」のお墓もまた、「義仲寺」にあるのです。


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巴御前の武器は薙刀!現在も、その名が残る刀とは?

巴御前の武器といえば「強弓」と「薙刀」でしょう。

 

特に「薙刀」は、「巴型」と呼ばれる形状の代物が、現在も日本中で使用されているほど有名になっています。

 

薙刀とは、刀の柄を長くすることで、距離をとりながらも敵を攻撃できるように工夫された武器。

 

「刀の切れ味」と「柄の長さ」をあわせもった強力な武器です。

 

薙刀には、主に「巴型」と「静型」があると言われています。

 

反りの大きな者が「巴型」、反対に反りの小さいものが「静型」。

 

ともに「源平合戦」で有名な、「巴御前」と、源義経の愛人「静御前」がその名の由来となっています。

 

この「巴」「静」という名前がついたのは「明治時代」頃からと言われています。

 

そのためか「薙刀は女性があつかう武器」というイメージがついていったようです。

 

巴型の薙刀は、反りが大きいため、馬上であつかうことに向いている代物。

 

しかし、巴型の薙刀は、あつかいが難しいのだそうです。


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巴御前の「家紋」とは?「三つ巴紋」が巴御前の紋所

巴御前の家紋とは、どういうものなのでしょうか?

 

実は、巴御前がどのような家紋をつかっていたのか、はっきりとはわかっておりません。

 

一説には「三つ巴紋」であると言われているようです。

 

この「三つ巴紋」は、日本各地で使われている、かなり有名なものです。

 

誰でも一度は目にしたことがあるでしょう。

《三つ巴紋》
「引用元ウィキペディアより」

「巴御前」だから「三つ巴紋」なのでしょう・・・。

 

なんだかあとから取って付けたような感じに聞こえてしまいますよね。

 

巴御前の家紋・・・正確にはわかっていないというのが現実なのです。


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巴御前のお墓はどこ?義仲の隣で今も眠る

巴御前の墓は、実は各地に存在しています。

 

  1. 富山県南砺(なんと)市
  2. 長野県木曽町(巴御前のふるさと)
  3. 新潟県上越市
  4. 神奈川県横須賀市
  5. 滋賀県大津市

などなど。

 

特にこの中でも「滋賀県大津市」にある「義仲寺」には、「木曽義仲」の墓もあり、そのかたわらに「巴塚」と彫られた「巴御前」のお墓があるのです。

 

義仲寺は、鎌倉時代から「木曽義仲の墓」としてその名がしられたお寺だったようです。

 

おそらく、巴御前が本当に眠っているとしたら、この「義仲寺」に眠っているのではないでしょうか。


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『巴御前』について「ひとこと」言いたい!

はたして、巴御前は実在したのでしょうか?

 

大力で、豪腕の男性と戦って次々と勝利をおさめた・・・。しかも美人で、名将「木曽義仲」の愛人で・・・。

 

おもいっきり話が出来すぎている気がします。

 

史実において、巴御前の名前は全く登場しておらず、「平家物語」や「源平盛衰記」などの軍記物

 

つまり物語のなかにしか登場しないのです。

 

当時としては「女武者」はたしかに存在していました。

 

しかし、「大力」で「美女」で「義仲の愛人」である「巴御前」という人物は、存在しなかったのではないでしょうか。

 

巴御前は、おそらく木曽義仲のそばにいた人物が、脚色されて、いつの間にやら「巴御前」という「美女武将」となったのでしょう。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

 

1,巴御前とは、旭将軍とよばれた「木曽義仲」の愛人だった女性。力持ちで、豪傑で、数々の武勇伝をもつ「女武者」

 

2,巴御前の武器は「薙刀」。または「強弓」。とくに薙刀は現在でも「巴型」とよばれる形状のものが残っている

 

3,家紋は「三つ巴」。お墓は「滋賀県大津市」の「義仲寺」にあるが、各地にお墓が存在している

 

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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