榊原康政の子孫は現在会社社長?徳川家を救った逸話と家紋の由来とは

徳川四天王の一人「榊原康政」の子孫や、徳川家を救った逸話とは?

家紋「榊原源氏車」の由来についても解説致します!

榊原康政は、関ヶ原の戦いで遅刻した「徳川秀忠」をかばい、家康を説得して内乱を防いだとされています。子孫は現在「会社経営」をなさっておられるという噂も・・。

名将「榊原康政」について、詳しくわかりやすく解説いたします。


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この記事を短く言うと

・榊原康政は、徳川四天王の一人に数えられる名将

・子孫は、2011年の浜松市政100周年「家康公シンポジウム」に、他の四天王や徳川家康の末裔とともに登場していた

・関が原の戦いで、徳川秀忠を庇い、本多忠勝井伊直政から賞賛された


榊原康政とは?

榊原康政

井伊直政」「本多忠勝」、そして「酒井忠次」と並び、「徳川四天王」の一人に数えられる名将。

その圧倒的な指揮采配能力により、当時は宿敵だった「豊臣秀吉」ですらも、この「榊原康政」を賞賛していました。

13歳で徳川家康の小姓として抜擢され、三河一向一揆戦で初陣。

家康の「康」の字をもらい「康政」を名乗る。

浅井・朝倉との「姉川の戦い」では、朝倉軍の側面を攻撃!

三方ヶ原の戦い」では、家康の後方を守り、「長篠の戦い」では武田家の名将「内藤昌秀」と戦い、「高天神城の戦い」では先陣役。

家康最大の苦難「伊賀越え」では、井伊直政たちとともに家康を守っています。

小牧・長久手の戦い」では、「森長可」「池田恒興」を急襲し、討ち取ります。

さらに、文章を書く能力も優れていた康政は、秀吉を非難する文章を作成し秀吉に送付。

これに怒った豊臣秀吉は、榊原康政の首に「10万石」という「懸賞」をかけたほど。

しかし秀吉は康政の能力を認めて、後に賞賛しています。

北条征伐後は、館林城10万石を与えられ、井伊直政に次ぐ「2位」の禄高を誇りました。

関が原の戦いでは、秀忠とともに徳川本軍を率いて真田昌幸と戦闘。

敗北して関が原におくれたものの、秀忠を庇い、家康に口添えし、秀忠は赦免。

1606年5月、領地の館林で、病死。享年59歳。

徳川家康に、幼い頃から仕えて、最後の最後まで家康に尽くした一生でした。


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子孫は現在何をしているのか?

8代当主「政岑」の時に改易の危機

康政がなくなった後、三男の「康勝」が家督相続。

しかし若くして亡くなり、長男「忠政」の子「忠次」が家督相続し、「姫路藩15万石」に移動。

その後、榊原家は各地の領地を転々としています。

八代将軍吉宗の時代に、八代当主として「榊原政岑(まさみね)」を養子として迎え、榊原家の当主としました。

この「榊原政岑」は、女遊びが好きで派手好きな「好色大名」と呼ばれていました。

あまりに遊びすぎて、「吉宗」に改易されかけたものの、先祖の「榊原康政」の功績に免じて、「越後高田藩」への移動だけで許されます。

結構イケイケな子孫だったんですね・・。

現在の子孫は?

2011年12月、静岡県浜松市の市政100周年記念事業として家康公シンポジウムなるイベントが開かれました。

そこに「榊原康政」の子孫が招かれていました。

子孫のお名前は「榊原政信」さん。

お名前に「政」という通字がつけられていますね。

おそらく「榊原家」の方々は、代々「政」の字をつけられてきたのでしょう。

この「榊原政信」さんは、現在会社経営をなさっておられるとの噂も・・。

やはり「領国経営」をしていた経験が、子孫にも受け継がれているのかな?

「家康公シンポジウム」には、「家康公」の子孫や、「井伊直政」「酒井忠次」「本多忠勝」など他の四天王の子孫も招かれていました。

400年後の現代において、家康と四天王の子孫が集まるなんて・・・。すごいですね。


四天王の子孫」について、詳しくは以下のリンク記事をご覧くださいませ。

↓↓↓↓↓

「本多忠勝の子孫は現在も続いてる?家系図を現代まで紐解いてみた」の記事はコチラ

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「徳川家を救った逸話」と「家紋の由来」

関が原の戦いで「徳川家」を救った?

榊原康政といえば、「関が原の戦い」で遅刻した「徳川秀忠」に同行していたお方。

榊原康政も、関が原の戦いに参加することはありませんでした。

康政は、元々「上田城の真田昌幸」と戦うことに反対していたと言われています。

しかし秀忠は真田と戦うことを選択し、結果、関が原に間に合わず。

家康は激怒して、秀忠と全く面会せず。

そんな中で榊原康政は、家康に対して、こう言います。

「信州を攻略せよと命じたのは家康様です。

さらに、我々が遅れたのは、『関が原へ参陣せよ』という命令書を持った使者が、悪天候により手紙を持ってくるのが遅れたため。

今ここで秀忠様を許さなければ、徳川家は『家康様』と『秀忠様』で分裂します。

そうならないためにも、秀忠様をお許し下さい。」

これを聞いた家康は、秀忠を許したと言われています。

そしてこの後、同じ四天王である「本多忠勝」「井伊直政」と一緒に宴会に参加した榊原康政。

そこで「忠勝」と「直政」は、康政に対して、こう言います。

「この度の戦功第一は、榊原康政。

康政がいなければ、徳川家は真っ二つになるところだった」

と・・・。

関が原の戦いで、大手柄をあげた「井伊直政」と「本多忠勝」

おそらく、本戦に参加できなかった榊原康政を、慰めようとしたのでしょう。


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榊原康政の家紋「榊原源氏車」

名将・榊原康政の家紋は「榊原源氏車」と呼ばれるものです。

公家が乗る「牛車」の車輪を模したものです。

引用元「ウィキペディア」より

この「源氏車」という家紋は、様々なバリエーションがあり、「花形源氏車」や「六角骨源氏車」など、微妙に異なっています。

中でも「榊原」の名を冠したこの「榊原源氏車」は、「榊原家」でのみ使用された家紋。

清和源氏の末裔である名門・榊原家。

ちなみに、榊原氏の本拠地は「伊勢」にあり、そこの榊原城という城があったようです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・榊原康政は、徳川四天王の一人に数えられる名将

・康政の子孫は、徳川吉宗に改易されそうになるなど、危機もあったが、平成の現在「榊原政信」さんに受け継がれている

・関が原の戦いで、康政は徳川家分裂を救った・・・と言われている。

・家紋は「榊原源氏車」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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