徳川四天王の一人・榊原康政の子孫や、徳川家を救った逸話をご存知でしょうか?
この記事ではそのほかにも、家紋・榊原源氏車の由来についても解説致します!
榊原康政は、関ヶ原の戦いで遅刻した徳川秀忠をかばい、家康を説得して内乱を防いだとされています。
子孫は現在、会社経営をなさっておられるという噂もあります。
名将・榊原康政について、詳しくわかりやすく解説いたします。
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この記事を短く言うと
榊原康政とは、何者なのか?
榊原康政とは、天下統一を成し遂げた徳川家康の部下だった名将です。
この三名と並び、徳川四天王の一人に数えられる名将が、榊原康政です。
その圧倒的な軍の指揮采配能力により、当時は宿敵だった豊臣秀吉ですらも、この榊原康政を賞賛していました。
13歳で徳川家康の小姓(身辺警護の役)として抜擢され、三河一向一揆という戰で初陣を飾ったといいます。
主君・徳川家康の【康】の1文字をもらい、康政を名乗っています。
1570年、浅井・朝倉連合軍と戦った【姉川の戦い】で榊原康政は、部隊をひきいて朝倉軍の側面を攻撃することに成功しています。
- 1572年【三方ヶ原の戦い】では、家康の後方を守護
- 1575年【長篠の戦い】では、武田四天王のひとり内藤昌秀と激戦
- 1581年【高天神城の戦い】では、先陣を務めています
と、数々の戦いで活躍しています。
徳川家康最大の苦難と呼ばれる1582年の【神君伊賀越え】では、井伊直政たちとともに家康を守っています。
1584年、【小牧・長久手の戦い】では、森長可と池田恒興を急襲し、討ち取っています。
さらに、文章を書く能力も優れていた康政は、秀吉を挑発する文章を作成し、秀吉に送付しています。
これに激怒した豊臣秀吉は、榊原康政の首に10万石という莫大な懸賞をかけたほどです。
しかし秀吉は康政の能力を認めて、後に賞賛しています。
1590年の小田原合戦のあとは、上野国(群馬県)館林城10万石を与えられ、井伊直政に次ぐ2位の禄高を誇りました。
1600年、関が原の戦いでは、秀忠とともに徳川本軍を率いて真田昌幸と戦闘。(第二次上田合戦)
真田昌幸・信繁(幸村)の親子に敗北して、関が原に遅れたものの、秀忠を庇って家康に口添えし、秀忠は赦免されています。
1606年5月、領地の館林で、病死。享年59歳。
徳川家康に、幼い頃から仕えて、最後の最後まで家康に尽くした一生でした。
子孫は現在何をしているのか?
8代当主【政岑】の時に改易の危機
榊原家は、8代目の当主の時代に改易つまり領地没収される危機に陥りましたが、榊原康政の功績に免じて難を逃れています。
榊原康政がなくなった後、三男の康勝が家督相続しています。
しかし若くして亡くなり、長男・忠政の子・忠次が家督相続し、姫路藩15万石に領地替えをされています。
その後、榊原家は各地の領地を転々としています。
八代将軍・徳川吉宗の時代に、八代当主として榊原政岑を養子として迎え、榊原家の当主としました。
この榊原政岑は、女遊びが好きで派手好きな【好色大名】と呼ばれていました。
あまりに遊びすぎて、徳川吉宗に改易されかけたほどです。
しかし先祖の榊原康政の功績に免じて、越後高田藩への領地替えだけで許されます。
結構イケイケな子孫だったんですね。
現在の子孫は?
【榊原康政】の子孫である【榊原政信】さんという方が、2011年に浜松市のイベントに登場していました。
2011年12月、静岡県浜松市の市政100周年記念事業として【家康公シンポジウム】なるイベントが開かれました。
そこに榊原康政の子孫が招かれていました。
子孫のお名前は、榊原政信さんというお方です。
お名前に、【政】という榊原家の当主が代々引き継いできた通字がつけられています。
おそらく榊原家の方々は、代々【政】の字をつけられてきたのでしょう。
この榊原政信さんは、現在会社経営をなさっておられるとの噂もあるようです。
やはり領国経営をしていた経験が、子孫にも受け継がれているのかな?
家康公シンポジウムには
- 徳川家康の子孫
- 井伊直政の子孫
- 酒井忠次の子孫
- 本多忠勝の子孫
など、他の四天王の子孫も招かれていました。
400年後の現代において、家康と四天王の子孫が集まるなんて・・・。すごいですね。
四天王の子孫について、詳しくは以下のリンク記事をご覧くださいませ。
【榊原康政が徳川家を救った逸話】と【家紋の由来】
関が原の戦いで榊原康政が徳川家を救った?
関ヶ原の戦いに参戦していない榊原康政ですが、この戦いの後、徳川家の崩壊を防いだといわれています。
榊原康政といえば、関が原の戦いで遅刻した徳川秀忠に同行していたお方です。
康政自身も、関が原の戦いに参加することはありませんでした。
なぜなら、徳川秀忠の軍団は、信濃国(長野県)の上田城で、真田昌幸・信繁(幸村)親子に苦戦したからです。
康政は元々、上田城の真田昌幸と戦うことに反対していたといわれています。
しかし秀忠は真田と戦うことを選択し、結果として、関が原に間に合いませんでした。
家康は激怒して、秀忠と全く面会しなかったといいます。
そんな中で榊原康政は、家康に対して、こう言います。
「信濃を攻略せよと命じたのは家康様です。
さらに、我々が遅れたのは、『関が原へ参陣せよ』という命令書を持った使者が、悪天候により手紙を持ってくるのが遅れたため。
今ここで秀忠様を許さなければ、徳川家は『家康様』と『秀忠様』で分裂します。
そうならないためにも、秀忠様をお許し下さい。」
これを聞いた家康は、秀忠を許したといわれています。
そしてこの後、同じ四天王である本多忠勝と井伊直政と一緒に、榊原康政は宴会に参加したのだとか。
そこで忠勝と直政は、康政に対して、こういったといいます。
「この度の戦功第一は、榊原康政だ。
康政がいなければ、徳川家は真っ二つになるところだった」
井伊直政と本多忠勝は、関ヶ原の戦いで大手柄を挙げていました。
二人はおそらく、本戦に参加できなかった榊原康政を、慰めようとしたのでしょう。
榊原康政の家紋・榊原源氏車
名将・榊原康政の家紋は、榊原源氏車と呼ばれるものです。
お公家さんが乗る牛車の車輪を模したものです。
この源氏車という家紋は、様々なバリエーションがあり、花形源氏車や六角骨源氏車など、微妙に異なっています。
中でも榊原の名を冠したこの榊原源氏車は、榊原家でのみ使用された家紋。
清和源氏の末裔である名門・榊原家。
ちなみに、榊原氏の本拠地は伊勢国(三重県)にあり、そこには榊原城という城があったようです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 榊原康政は、徳川四天王の一人に数えられる名将
- 康政の子孫は、徳川吉宗に改易されそうになるなど、危機もあったが、平成の現在「榊原政信」さんに受け継がれている
- 関が原の戦いで、康政は徳川家分裂を救ったと言われている。
- 家紋は、榊原源氏車
以上となります。
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