島津斉彬はルイヴィトン愛用していた?薩摩藩の家紋とヴィトンの関係

西郷隆盛が仕えた名君・島津斉彬

薩摩藩主にして、薩摩藩の近代化を瞬時にすすめた島津斉彬公・・・実は「ルイヴィトン」を愛用していた?

そして、ルイヴィトンと、島津家の家紋・・・・その意外な関係とは?


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この記事を短く言うと

・島津斉彬は、日本最初のルイヴィトン愛用者だった。おそらく琉球から献上された代物

・ルイヴィトンのモノグラムは、島津家の家紋をヒントにしているらしい

・島津斉彬は、日本でもトップクラスの名君だった


島津斉彬は日本最初のルイヴィトン愛用者だった?

薩摩藩主にして、西郷隆盛がめちゃくちゃ崇拝していた名君「島津斉彬」。

薩摩藩の近代化を推し進め、当時「賢侯」と呼ばれるほど賢いお殿様だったと言われていますが、そんな島津斉彬・・・・実は日本最初のルイヴィトン愛用者だったと言われています。

どうやら斉彬・・・・ルイヴィトンの「トランク」を愛用していたみたいです。


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ルイヴィトンが創業したのは「1854年」。フランス・パリで生まれたブランド・・・。

ここで気になることと言えば、「島津斉彬は、どうやってルイヴィトンを手に入れたのか」ということ

結論から言えば、おそらくフランスが琉球と「琉仏修好条約」を締結した際に、フランス側から琉球へ「ルイヴィトンのトランク」が献上されたのではないでしょうか。それが薩摩に献上されたのでしょう。

1855年、フランスは琉球に艦船を派遣し、「琉仏修好条約」を締結して、貿易を開始。

この琉球は、江戸時代260年の間、斉彬が藩主を務める「薩摩藩」に支配されていました。

そのため、フランスより献上された「ルイヴィトンのトランク」を、薩摩藩主・島津斉彬に再度献上し、それを斉彬が愛用していたとしても、全く不思議ではありません。

島津斉彬は、曽祖父で西洋文化に強い関心を示していた「島津重豪」から相当に可愛がられた人物・・・・・・その曽祖父の影響で、斉彬自身も、かなり西洋文化に興味を持っていたみたいです。

ちなみに、ルイヴィトンがその名を世界に轟かせたのは、1883年にフランス・パリで行われた万国博覧会にて・・・。

そこで、土佐藩・参政「後藤象二郎」が、大きなルイヴィトンのトランクを購入したことは有名です。後藤象二郎の名前が、ルイヴィトンの顧客名簿に残っているほど・・・。

そのトランクは、後藤象二郎の友人だった「板垣退助」に贈られたのだとか・・・。


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ルイヴィトンと薩摩藩の家紋

ルイヴィトンといえば、あの「モノグラム」ですよね。

以下に「ルイヴィトン」のお財布画像をご用意いたしましたが、「十字」のモノグラムが散りばめられています。

実はこの「十字」のモノグラム・・・「島津家の家紋」をモデルにしたものなのだとか。

島津家の家紋は、「丸に十字」

「引用元ウィキペディアより」

確かに似ているといえば、似ている気がしますが・・・。

ルイヴィトンのモノグラムが誕生したのは「1896年」

実は、1867年のフランス・パリ万国博覧会に、薩摩藩が「白薩摩」という陶磁器を出品したことがあるのです。どうやらその「白薩摩」に刻まれた「家紋」を、ルイヴィトンはヒントにしたみたいですね。

ルイヴィトンと薩摩藩・・・・意外なところに接点があるものです。

この時・・・・島津が出品した「白薩摩」・・・どうやら世界からかなりの高評価を頂いたみたいですよ。


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西洋技術をどんどん取り入れた名君・島津斉彬

島津斉彬・・・大河ドラマ「西郷どん」では「渡辺謙」さんが演じておりますね。

そんな「島津斉彬」・・・当時の日本でトップと言ってもよいほどの名君だったようです。

島津斉彬は、「宇和島藩主・伊達宗城」「福井藩主・松平春嶽」「土佐藩主・山内容堂」とともに「四賢侯」と呼ばれた名君でした。

当時「日本で最も賢い殿様」と呼ばれた「松平春嶽」が島津斉彬公について、

「四賢侯などと呼ばれていたが、真に賢侯だったのは、島津斉彬公だけだった」

と証言するほど賢いお殿様・・・。

島津斉彬は、「お由羅騒動」のなどで父・斉興と争った影響もあって、40代になってやっと薩摩藩主に就任しています。

そこからの「薩摩・藩政改革」は、凄まじいものがありました。

西欧諸国に対抗するため、薩摩藩の富国強兵に全力を注いでいくのです。

「反射炉」「溶鉱炉」を製造

地雷水雷の開発

ガラス・ガラス工芸品の製造

西洋風の造船技術の確立

などなど・・。

土佐藩の漁師で、アメリカから帰国した「ジョン万次郎」を琉球から引取り、彼の造船技術を薩摩藩士たちに学ばせたとも言われています。

島津斉彬は、帆船「いろは丸」、軍監「昇平丸」を製造し、「昇平丸」は幕府へ献上。

挙句の果てには蒸気船「雲行丸」も建造。

これだけの改革をあっという間に・・・薩摩一国で成し遂げてしまうのです。


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それだけではありません。

斉彬は、江戸幕府200年の間続いていた「外様大名が国政に関わることを禁じる」というルールを改めるようにと、江戸へ働きかけます。

島津斉彬は、諸外国からの圧力を危険視し、「公武合体・武備開国」を訴えて、日本の行く末を心配していたのです。

本気で日本を救おうという、強い志を持っていたのでしょうね。

でなくては、国政改革や薩摩藩改革・・・これほど素早くすることは出来なかったはず・・。

島津斉彬・・・1858年に急死してしまいます。

家臣だった西郷隆盛は、敬愛する名君・斉彬が亡くなったことに絶望し、後を追おうとしたみたいです。

しかし、僧侶「月照」さんの説得で正気を取り戻した西郷は、その後、斉彬が目指した近代化を成し遂げて行くのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・島津斉彬は、日本で最初の「ルイヴィトン」愛用者だった

・ルイヴィトンのモノグラムは、島津家の家紋「丸に十字」をヒントにしているらしい

・島津斉彬は、薩摩の近代化を一気にすすめた日本屈指の名君だった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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