戦国時代の歴史ドラマやゲーム、小説の中で、ひときわ異彩を放つ圧倒的な存在感を誇るのが、室町幕府第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)です。
「剣豪将軍(けんごうしょうぐん)」という、およそ政治家らしからぬ二つ名を持つ彼は、室町幕府の権威が地に落ちた戦国中期にあって、自らの武力とカリスマ性で幕府の再興を目指した孤高のリーダーでした。
そんな彼の生涯を語る上で絶対に外せないのが、あまりにも有名な「最期の伝説」です。
大軍に包囲された絶望的な状況下で、足利将軍家に伝わる秘蔵の名刀を畳に何本も突き刺し、刃がこぼれるたびに次々と刀を取り替えて敵兵を斬り伏せた——。
この壮絶なエピソードは、滅びゆく武士の意地と美学を感じさせ、現代でも多くの歴史ファンや刀剣ファンを熱狂させています。
しかし、歴史の真実を紐解いていくと、驚くべき事実が浮かび上がってきます。
実はこの「畳に刀を突き刺して戦った」という胸が熱くなるような伝説は、同時代の史料には一切記録されておらず、後世に作られたフィクションである可能性が高いのです。
では、天下五剣の筆頭「三日月宗近(みかづきむねちか)」をはじめとする国宝級の刀剣たちは、あの日どこにあったのでしょうか?
そして、一国のトップである現職の将軍が、なぜ白昼堂々と暗殺されなければならなかったのでしょうか?
本記事では、華やかな伝説の裏に隠された足利義輝の「真実の姿」と、彼を取り巻く血塗られたミステリーについて、最新の歴史研究を交えながら物語のようにわかりやすく紐解いていきます。
- 「畳に刀を刺して戦った」という伝説の出所と、史実における本当の最期
- 義輝が愛した名刀「三日月宗近」や「骨喰藤四郎」の当時の行方と現在
- 剣豪将軍を暗殺した「永禄の変」の真の黒幕と、松永久秀「不在説」の真相
- 義輝の死がその後の戦国時代と織田信長に与えた巨大な影響
剣豪将軍「足利義輝」の壮絶な最期!畳に刀を突き刺して戦った伝説とは

引用元「Wikipediaコモンズ」より
まずは、私たちがドラマや小説でよく知る「足利義輝の最期」のシーンを、当時の情景や背景を交えながら詳しく振り返ってみましょう。なぜこの伝説がこれほどまでに人々の心を打つのか、その理由が見えてくるはずです。
まるでゲーム!伝説に残る「畳に突き刺した名刀」たちの名前
時は1565年(永禄8年)5月19日。季節は梅雨の真っ只中で、京都には「五月雨(さみだれ)」と呼ばれる冷たい雨がしとしとと降り注いでいました。
朝の8時頃、足利義輝の居城である「二条御所(にじょうごしょ)」は、突如として約1万とも言われる大軍勢に完全に包囲されます。
襲撃者は、当時畿内(きない:京都周辺)の実権を握っていた三好一族の軍勢でした。対する将軍側の警護は、わずか数百名。誰の目にも勝敗は明らかであり、御所は瞬く間に死地に変わりました。
多勢に無勢、もはや逃げ道はないと悟った義輝は、取り乱すことなく近臣たちと最後の酒盃(しゅはい)を交わしたとされています。そして、死を覚悟した彼は、広間に足利将軍家伝来の宝刀を次々と運ばせました。
義輝は名刀の鞘(さや)を払うと、自らの周囲の畳に何本もの切っ先を突き立てて並べたといいます。
| 伝説に登場する主な刀 | 特徴・恐るべき逸話 |
|---|---|
| 三日月宗近 (みかづきむねちか) | 天下五剣の筆頭にして「最も美しい」とされる太刀。平安時代の名工・三条宗近の作。 |
| 大典太光世 (おおでんたみつよ) | 天下五剣の一つ。前田家に伝わる霊刀で、蔵の中で鳥が止まると落ちるほどの凄まじい妖気と切れ味を持つ。 |
| 鬼丸国綱 (おにまるくにつな) | 天下五剣の一つ。かつて鎌倉幕府の執権・北条時政を苦しめた小鬼を斬ったという伝説を持つ魔除けの刀。 |
| 骨喰藤四郎 (ほねばみとうしろう) | 斬るマネをしただけで相手の骨が砕けるという恐ろしい伝説の脇差(わきざし)。もとは薙刀(なぎなた)だった。 |
| 童子切安綱 (どうじぎりやすつな) | 天下五剣の一つ。源頼光が丹波国の大江山で「酒呑童子(鬼)」の首を切り落としたとされる伝説の太刀。 |
これら国宝級の刀剣たちを、義輝は惜しげもなく実戦で使用しました。
敵が雪崩を打って広間へ突入してくると、義輝は自ら刀を手に取り、鬼神のごとき強さで敵兵を次々と斬り伏せていきます。血脂(ちあぶら)で刀の切れ味が鈍れば、それを投げ捨て、畳に刺してある次の新しい名刀を引き抜いて再び斬りかかる——。
まるで現代のアクションゲームの装備変更システムのような戦いぶりです。
しかし、どれほど剣豪将軍が強かろうと、人間の体力には限界があります。この無双の将軍に対し、敵兵たちは恐れをなし、まともに斬り合うことを避けました。彼らは四方から障子(しょうじ)や畳を盾(たて)にして義輝に押し寄せ、最後は身動きが取れなくなったところを一斉に槍で串刺しにして討ち取ったとされています。
これが、後世に語り継がれる「剣豪将軍の最期」の全貌です。
【史実の検証】足利義輝は本当に刀を畳に刺して戦ったのか?嘘か本当か
さて、ここからが歴史の奥深いところであり、ミステリーの始まりでもあります。
この「畳に名刀を突き刺して戦った」という、誰もが知る超有名なエピソードですが、実は同時代の信頼できる記録には一切書かれていないのです。
歴史を検証する際、最も重視されるのが「一次史料(いちじしりょう:その時代に書かれたリアルタイムの日記や手紙など)」です。永禄の変について書かれた一次史料には、織田信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』や、当時の公家が書き残した『言継卿記(ときつぐきょうき)』などがあります。
しかし、これらの史料をいくら読み込んでも、「名刀を畳に刺した」「刀を次々と持ち替えた」「畳を被せられて圧死した」という具体的な描写はどこにも見当たりません。
- 『信長公記』の記述:「将軍自ら剣を振るって敵を数多く討ち取ったが、傷を負ってついに討ち死になされた」
- ルイス・フロイス(宣教師)の記録:「将軍は驚くべき勇気で戦った。最初に取り上げた薙刀(なぎなた)で奮戦し、それが折れると別の刀を抜いて戦い抜いた」
確かに、義輝が武器を持ち替えて勇敢に戦ったことは、遠く海を渡ってきたポルトガル宣教師の記録にも残るほど紛れもない事実のようです。
しかし、「名刀の展覧会」のように畳にズラリと刀を並べたというロマンチックな描写は、江戸時代後期に頼山陽(らいさんよう)が書いた『日本外史(にほんがいし)』などの後世の読み物(歴史エンタメ)によって創作された可能性が極めて高いとされています。
信長さんええっ!?じゃあ、ドラマやゲームのあの最高にかっこいいシーンは全部嘘だったの!?



「嘘」と切り捨てるのは少しもったいないですね。江戸時代の人々が「あの剣豪将軍なら、家に伝わる名刀を使ってこれくらい大暴れしたに違いない!」と、彼の武勇と悲劇を称えるために話を盛った『リスペクトの証』とも言えるのです。
「伝説はフィクションだった」と知ってガッカリするよりも、「死後何百年経っても、物語の主人公として語り継がれるほど人々に愛され、強さを信じられていた将軍だった」と捉えるのが、歴史の真実を楽しむ醍醐味(だいごみ)ではないでしょうか。
足利義輝の愛刀一覧!国宝「三日月宗近」や「骨喰藤四郎」の逸話
最期の「畳の伝説」が後世の脚色だったとしても、足利将軍家が当時、日本最高峰の刀剣コレクションを所有していたことは紛れもない事実です。
ここでは、義輝の手元にあったとされる伝説の名刀たちの「その後」について、もう少し深く探っていきましょう。
刀剣乱舞でも人気!天下五剣で最も美しい「三日月宗近」
現代の刀剣ブーム、特に大人気ゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』において絶大な人気を誇るのが、国宝・三日月宗近(みかづきむねちか)です。
平安時代の天才刀工・三条宗近によって鍛えられたこの太刀(たち)は、刀身の刃文(はもん:波のような模様)の随所に、三日月のような美しい「打ちのけ」と呼ばれる模様が見えることからその名がつきました。「天下五剣」の中でも最も美しいと称される、まさに刀剣界のトップスターです。
伝説では、永禄の変の際に義輝がこの三日月宗近を振るって敵の血を吸ったとされていますが、現在の刀剣学の見地からは「実戦で使用された可能性は極めて低い」と考えられています。
なぜなら、現在、東京国立博物館に厳重に収蔵されている三日月宗近の実物を観察すると、激しい戦いで鎧(よろい)や骨を断ち切った際につくような、大きな「刃こぼれ」や致命的な傷跡がほとんど見当たらないからです。
おそらく三日月宗近は、襲撃当日は大切に蔵の奥に保管されていたか、あるいは戦いの混乱の中で三好軍によって「戦利品」として無傷のまま持ち出されたと考えられます。その後、この名刀は豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)の元へと渡り、最終的に徳川将軍家の宝として受け継がれていくことになります。
薙刀直し「骨喰藤四郎」に「鬼丸国綱」…義輝が所持したとされる刀剣たち
義輝のコレクションは三日月宗近だけにとどまりません。
足利将軍家の宝庫には、歴史に名を残す名だたる名刀がずらりと並んでいました。中でもひときわ異彩を放つのが、骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)です。
鎌倉時代の名工・粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)の作であるこの刀は、もともとは長い柄を持つ「薙刀(なぎなた)」でしたが、足利家で扱いやすいように「脇差(わきざし)」へと磨り上げ(サイズ直し)られました。
「斬る真似をしただけで、その威圧感と切れ味で相手の骨が砕ける」という非常に物騒な名前の由来を持ちます。
ちなみに、ゲーム等で「記憶喪失のキャラクター」として描かれることが多い骨喰藤四郎ですが、これはファンタジー設定ではありません。史実において、江戸時代に起きた大火災「明暦の大火(めいれきのたいか)」で焼身(炎の熱で刀の強度が失われること)となってしまい、刀としての「記憶(かつての刃文や性質)」を一度失ってしまったという悲しい歴史に基づいているのです。
Q. なぜ足利将軍家にはこんなにたくさんの名刀があったの?
A. 室町幕府の将軍は、日本の武家社会の頂点です。そのため、全国の有力な大名たちが「将軍様への貢ぎ物」として、こぞって自分たちの領地にある最高級の刀剣を献上しました。義輝のコレクションは、彼が個人的に買い集めたというより、「将軍家の権威の結晶」だったと言えます。
これら名刀の数々が、永禄の変のあの日、御所の広間に並べられたかどうかは定かではありません。
しかし、義輝という一人の武将が、これら歴史的な名刀の「正当な主(あるじ)」として君臨していたことは間違いなく、その事実こそが「剣豪将軍伝説」の土台となっているのです。
なぜ足利義輝は殺されたのか?「永禄の変」の黒幕と真相
さて、伝説の刀剣の数々から一度視点を変えて、歴史の大きなうねりに目を向けてみましょう。
そもそも、日本全国の武士のトップであるはずの現職将軍・足利義輝は、なぜ家臣であるはずの者たちによって白昼堂々と殺されなければならなかったのでしょうか?
この前代未聞の将軍暗殺事件「永禄の変(えいろくのへん)」の裏側には、戦国時代ならではのドロドロとした権力闘争と、義輝自身の「強すぎるリーダーシップ」という悲劇的な皮肉が隠されていました。
暗殺の犯人「三好三人衆」と「松永久秀」!襲撃の恐るべき動機とは
この暗殺事件の首謀者として、歴史ファンやゲーム好きの間で真っ先に名前が挙がるのが、松永久秀(まつながひさひで)です。
彼は「主君を殺し、将軍を殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちした」という三悪を成し遂げた、戦国一の極悪人(戦国のボンバーマン)として広く知られています。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
しかし、近年の歴史研究によって、驚きの事実が判明しています。
実は1565年5月19日の永禄の変の当日、松永久秀は事件の現場である京都・二条御所にはおらず、遠く離れた大和国(現在の奈良県)に滞在していたのです。
- 三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通):三好家の実力者たち
- 松永久通(ひさみち):松永久秀の息子
- ※つまり、久秀本人は「直接手を下していない(あるいは事後承諾だった)」可能性が高いのです。
では、なぜ彼らは将軍を殺すという大罪を犯したのでしょうか?
その最大の理由は、皮肉なことに「足利義輝が将軍として優秀すぎたから」でした。
当時の畿内(京都周辺)を実質的に支配していた三好一族にとって、足利将軍という存在は、自分たちの権力を正当化するための「お飾り(傀儡:かいらい)」であってほしかったのです。
しかし、義輝は違いました。彼はただ神輿(みこし)に乗って担がれることをよしとせず、自ら「御内書(ごないしょ:将軍のプライベートな手紙)」を全国の有力大名に書き送りました。
例えば、越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄、そして尾張の織田信長といったビッグネームたちの争いを仲裁し、「私(将軍)の顔に免じて争いをやめ、幕府のために力を貸してくれ」と独自の外交ルートを築き上げていたのです。
Q. なぜ手紙を送っただけで殺されたの?
A. 三好家からすれば、将軍が勝手に全国の猛将たちと仲良くなり、自分たちを討伐する軍勢を呼び寄せるかもしれない状況は「最大の脅威」でした。「このままでは将軍をコントロールできなくなる。手に負えなくなる前に消すしかない」と焦った結果が、あの強引な襲撃だったのです。
師匠は「塚原卜伝」!義輝が「剣豪将軍」と呼ばれるほど強かった理由
義輝が三好家から警戒された理由は、その政治的・外交的手腕だけではありません。彼が「剣豪将軍」と呼ばれるほど、個人の武術にも秀でていたからです。
彼は、戦国時代最強の剣豪と謳われる塚原卜伝(つかはらぼくでん)を自らの御所に招き、直々に剣術の指導を受けました。
卜伝は鹿島新当流(かしましんとうりゅう)の開祖であり、数多くの真剣勝負で無敗を誇った伝説の人物です。義輝は彼から、奥義である「一之太刀(ひとつのたち)」を伝授されたと言われています。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
さらに、新陰流の祖である上泉信綱(かみいずみのぶつな)の演武も上覧するなど、当時の最先端の武芸に強い関心を持っていました。



でも、将軍様が自ら刀を振り回す必要なんてあるの?家臣に戦わせればいいじゃん。



その通りです。本来、将軍が実戦で刀を抜くことはあり得ません。しかし、室町幕府の軍事力が極端に弱体化していた当時、義輝は「将軍個人の武勇」を示すことで、周囲に幕府の威厳をアピールせざるを得なかったという、悲しい側面もあるのです。
剣術の指南を受けることは、剣豪たちに「将軍家のお墨付き」というブランドを与えるだけでなく、義輝自身にとっても「自分は強い」という精神的な支えになっていたのでしょう。
しかし、その鍛え上げられた武芸の腕前を、皮肉にも人生最後の瞬間に、自らの命を奪いに来た家臣たちへ向けて披露することになってしまったのです。
凄絶な戦いの末、力尽きる直前に義輝が詠んだとされる辞世の句(最期のポエム)には、彼の無念さと誇りが色濃く滲み出ています。
「五月雨(さみだれ)は 露か涙か 不如帰(ほととぎす)
我が名をあげよ 雲の上まで」
(現代語訳:この降る五月雨は、空の露だろうか、それとも私の悔し涙だろうか。初夏に鳴くホトトギスよ、どうか私の名前を、あの高い雲の上(宮中や後世)まで響かせてくれ)
志半ばで無念の死を遂げた義輝。
しかし「我が名をあげよ」という彼の最後の叫びは、後世の人々に「剣豪将軍伝説」として愛され、数百年経った現代の雲の上まで、確かに響き渡ることになったのです。
その後の歴史はどうなった?足利義輝の死がもたらした影響
足利義輝の暗殺は、単なる一つのクーデターにとどまらず、日本中の戦国大名たちにすさまじい衝撃を与えました。
「ついに将軍までが家臣に殺される時代になったか」と、戦国乱世のモラル崩壊が極致に達したことを誰もが悟ったのです。
弟「足利義昭」の脱出と「織田信長」の上洛
義輝が二条御所で討ち死にしたその日、三好軍の魔の手は、彼の家族にも及びました。義輝の母や弟たちは殺害されましたが、奈良の興福寺(こうふくじ)で僧侶となっていたもう一人の弟・覚慶(かくけい)は、命からがら幽閉先から脱出することに成功します。
この脱出劇を裏で手引きしたのが、後に本能寺の変を起こすことになる明智光秀(あけちみつひで)や、文化人として名高い細川藤孝(ほそかわふじたか)といった、幕府を見限らなかった忠臣たちでした。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
覚慶は還俗(げんぞく:僧侶をやめて一般人に戻ること)して、足利義昭(あしかがよしあき)と名乗ります。そして、「亡き兄・義輝の敵討ち」と「室町幕府の再興」を大義名分に掲げ、諸国の大名に「私を京都まで護衛してくれ」と手紙を送り続けました。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
| 年代 | 義輝の死後に起こった歴史のターニングポイント |
|---|---|
| 1565年 | 【永禄の変】足利義輝が暗殺される。弟・義昭が奈良から脱出。 |
| 1566〜1567年 | 義昭が越前(福井県)の朝倉義景を頼るが、朝倉は動かず停滞。 |
| 1568年 | 織田信長が義昭の要請に応え、大軍を率いて京都へ上洛(じょうらく)。 |
| 同 年 | 信長の武力により三好三人衆らは京都から追放。義昭が第15代将軍に就任。 |
多くの大名が自分の領国のトラブルで動けない中、唯一この大チャンスに全力で応えたのが、尾張(愛知県)の風雲児・織田信長でした。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
信長は「将軍の弟を助ける正義の軍」という最高の名分を手に入れ、圧倒的なスピードと武力で京都を制圧します。
この瞬間から、三好一族の時代は終わりを告げ、織田信長による天下統一への激動のドラマが幕を開けたのです。
もし、義輝が暗殺されず、したたかに幕府の権威を回復し続けていたら、歴史はどうなっていたでしょうか。
おそらく信長が京都の覇者となる道はもっと険しくなり、戦国時代はさらに長引いていたかもしれません。あるいは、名刀を振るう義輝と、鉄砲を愛する信長が固い握手を交わし、全く新しい幕府が誕生していた可能性すらあります。
足利義輝の死は、一つの時代の終焉(しゅうえん)であり、新しい時代を生み出すための巨大な起爆剤でもありました。
畳に刺さった名刀の伝説が嘘であったとしても、彼が日本の歴史に深く刻み込んだ「剣豪将軍としての誇り高き生き様」は、まぎれもない真実として私たちの心を揺さぶり続けるのです。









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