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平将門の家紋とは?子孫が現在なにしているのかわかりやすく簡単に解説

「平将門」、その家紋、反乱を起こした「場所」や「年号」を詳しく解説いたします。

呪いや都市伝説で有名な「平将門」、その家紋は「九曜紋」。

そして反乱が起こった年号は「天慶」・・・「承平天慶の乱」と呼ばれることもあるが、「天慶の乱」が正しいのだとか。

将門の呪い、爆笑問題の太田光が、呪いに打ち勝っていた!

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 平将門の家紋は「九曜紋(くようもん)」。反乱が起こった場所は「茨城県石岡市」で、乱が起こったときの年号は「天慶(てんぎょう)」
  2. 将門の子孫は「大正天皇」。その他、戦国大名だった「千葉氏」「相馬氏」。平清盛は、将門をたおした「平貞盛」の子孫
  3. 将門には、呪いや祟りを噂する「都市伝説」が数多く存在するが、迷信もふくまれている。

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目次

平将門の家紋は、九曜紋くようもん

平将門(たいらのまさかど)の家紋は、九曜紋とよばれるものです。

平安時代、関東全域を支配して「新皇(新しい天皇)」と名乗り、西暦「940年」に従兄弟である「平貞盛」に敗北して戦死した武将。

その生涯を、短く簡単に解説すると、以下の通りです。

 

もともとは「女性」の奪い合いなどで、叔父たちや従兄弟と戦い、圧倒的な強さをみせた将門。

中央政権に追い出されてしまった力のない者たちから頼られ、その人達を守ろうと各地で戦っているうちに、いつの間にやら京都の中央政府に対して敵対してしまい、最終的には周囲から祭り上げられる形で「新皇」と名乗ることになります。

将門にかつて父を殺害された従兄弟「平貞盛」は、将門と戦い勝利。

将門の首は平安京へとおくられ、日本で初めて「さらし首」となったのです。


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平将門の家紋「九曜紋」

平将門の家紋は、どのようなものなのか?

将門の家紋は「九曜紋」と呼ばれるものです。

九曜紋(くようもん)
引用元ウィキペディアより

「土曜」「水曜」「木曜」「火曜」「金曜」「月曜」「日曜」「許都」「羅?」という9つの星を形どったものです。

江戸時代に大名であった「相馬氏」、そして「千葉氏」が家紋として使用しています。(ともに平将門の末裔)

また、佐久間・細川・保科などの一族が家紋として使っています。

 

ちなみに、平将門は側室であった「桔梗姫」という女性に裏切られたという伝説があります。そのため「桔梗」の花や「桔梗紋」を将門の墓や供養塚に近づけてはいけない、という風習が今も各地に残っているようです。

桔梗紋
引用元ウィキペディアより

余談ですが、「桔梗紋」といえば、「桔梗の家紋」を使っていた「明智光秀」が有名です。

フィギュアスケート選手「織田信成」さんの実家や、織田信長の弟「織田有楽斎」の末裔の家では「桔梗の花」を飾らない風習があるのだそうです。


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「平将門の乱」が起こったときの年号「天慶(てんぎょう)」

「平将門の乱」は、ほぼ同時期に起こった「藤原純友の乱」とあわせて「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱」と呼ばれています。

「承平」「天慶」とは、当時の元号です。

「承平(じょうへい)」は、西暦「931~938年」

「天慶(てんぎょう)」は、西暦「938~947年」

実は、「平将門の乱」は、正確には「承平」年間には起こっていません。「天慶」年間に起こったものなのです。

「承平」という年号が使われていた時代、平将門はたしかに関東で戦っていました。しかしそれはあくまでも「一族」内での内輪もめ。あくまでも「私闘」でした。

「平将門の乱」というのは、「朝廷」つまり「天皇」へ敵対したことを意味するものです。

将門が天皇へ明確に敵対行為をおこなったのは「天慶2年11月21日(940年1月3日)」です。

つまり、「将門」が乱を起こしたのは「天慶」年間になってから。

この反乱を「天慶の乱」と呼ぶことは構わないのですが、「承平の乱」と呼ぶことは間違いとなってしまいます。

とはいえ「承平」年間に、平将門が関東各地で「叔父」や「親戚」を相手に戦っていたのも事実。

そのため「承平天慶の乱」と、二つの年号をあわせて呼ばれているのです。


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「平将門の乱」が起こった場所はどこ?

平将門の乱が、起こった場所はどこなのか?

将門が「朝廷」へ明確に敵対行為を行った「天慶2年11月21日(940年1月3日)」、この時「平将門」は「茨城県石岡市」にいました。

「常陸国(現在の茨城県)」の国府(役所)へ、自分を頼ってきた「藤原玄明」を捕まえろという命令の撤回を求めるためにおとずれていたのです。

しかし求めは拒否され、挙句の果てに国府から「宣戦布告」されてしまうのです。

これにより将門は国府と開戦。

この時「平将門の乱」が勃発したと考えられます。つまり「茨城県石岡市」で乱が起こったということです。

将門は「茨城県坂東市」にある「国王神社」の近くで亡くなったと考えられます。つまりここが「平将門の乱」が終わった場所ということです。


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平将門の子孫の現在!平清盛は、将門ではなく貞盛の子孫だった

平将門の子孫は、現在どこにいるのでしょうか?結論から言ってしまうと、将門の子孫は、各地にいます。

一番有名なのが、平将門の次女「椿姫」を通じてその血がつながっている「大正天皇」。

つまり、現在の天皇陛下も、「平将門」の子孫というわけです。

その他にも、将門の子孫は各地におります。例えば「千葉氏」では、21世紀の現在「滋胤」という方が当主をつとめておられます。

千葉氏の末裔は、現在各地で「千葉氏サミット」やら「千葉氏まつり」などのイベントを、千葉県など各地で行っているのだとか。

その他にも「平将門」の末裔はいます。

たとえば東北で戦国大名だった「相馬氏」。

現在「相馬氏」の当主は「相馬行胤」氏。

当主の父「相馬和胤」さんは、競走馬「スーパークリーク」の生産者として有名な方です。


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ちなみに「平」という姓をみると、「平将門の乱」から約200年後に活躍する「平清盛」を思い出す方も多いでしょう。

将門と平清盛には、どういう共通点があるのか?

二人は「先祖」と「子孫」という関係ではなく、ともに「桓武天皇の子孫」・「高望王の子孫」という関係です。

「桓武天皇」の孫「高望王」は、「平」という姓をもらって「平高望」と名乗りました。

その高望の長男「平国香」の息子が「平貞盛」。三男「平良将」の息子が「平将門」なのです。

平清盛は、「平将門」を倒した「平貞盛」の四男「平維衡」を先祖とする「伊勢平氏」の出身。つまり、「平清盛」の先祖は「将門」ではなく「貞盛」・・・。

清盛の先祖が「将門」を倒した・・・ということです。

 

余談ですが、「平高望」の五男「平良文」の末裔に、「日露戦争」を勝利に導いた英雄「東郷平八郎」がいます。(東郷平八郎の子孫の現在についてはこちら


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「平将門の都市伝説」!首の呪い・祟りは迷信だった?

平将門といえば「祟り」「呪い」などの都市伝説で有名です。

特に「日本最初のさらし首」であったためか「首」に関する伝説が多数あるようです。

たとえば、京都の町でさらし首にされた3日目、関東に置き忘れられた身体を求めて空に飛びあがり、関東へ向かって飛行を開始。

各地で落っこちながらも、「東京都千代田区大手町一丁目2番1号外」の「三井物産本社ビルそば」に落っこちたのだそうです。

この首塚周辺の方々は、現在まで、数々の呪い・祟りに苦しめられて来たのだとか。

大蔵省の庁舎を立てようとして、建設関係者や「大臣」まで十数名が不審死。

太平洋戦争後、GHQが首塚を撤去しようとして不審な事故が多発。「塚を見下ろすような窓を設置してはならない」「塚にお尻を向けてデスクを配置してはいけない」などの迷信まで噂される始末。

お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光さんが、その塚にドロップキックをきめて一時期干されたという噂もあります。


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京都でさらされていた将門の首は、夜な夜な身体をもとめて呻き声をあげていたらしいです。

「身体はどこだ!身体をつなげてもう一度勝負しよう」

と・・・。身体が関東にあると知った将門は、飛び上がって関東へ。

途中「岐阜」などで撃ち落とされながらも、なんとか関東へたどり着いたのだそうです。

ちなみに東京の「神田」という地名は「からだ」という言葉がなまったものだとか・・・。

豆まきで有名なお寺「成田山・新勝寺」は、もともと「平将門を呪い殺す」ことを目的に建てられたお寺。毎年「大河ドラマ」の出演者が「節分の豆まき」をすることが習慣となっていたらしいですが、将門が主役であったドラマ「風と雲と虹と」のときには豆まきを自粛したのだとか。

また、「将門の末裔」たちには「新勝寺」への参拝を控えるという風習があるようです。

 

まぁ・・・太田光さんが「ドロップキック」しても現在売れているところをみても、「祟り」や「都市伝説」は迷信であるということがわかりますね。気持ちが悪いので、下手なことをすべきではないと思いますがね。


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『平将門』について「ひとこと」言いたい!

平将門・・・・きっと体育会系で、自分を頼ってくる人たちを裏切ることが出来ない、「頼りになる人」だったのでしょうね。

将門の動きをみていると、当初から「朝廷」に対して敵対するつもりはなく、流れでいつの間にやら反乱をおこしてしまっていたことがうかがえます。

そのため、かなり不運な人とみることも出来るでしょう。

平将門をみていると、「足利尊氏」とよく似ている気がします。

足利尊氏も、周囲から頼りにされて、いつの間にやら仲間から祭り上げられて、崇拝していた「後醍醐天皇」と敵対することになってしまっています。

尊氏は後醍醐天皇が武士のほとんどを敵に回していたこともあって、最終的に勝利できています。

将門の不運は、味方が少なかったこと、そして朝廷に誤解をとく時間がなかったことでしょうか。

その戦闘能力を活かす道は、まだまだあった気がするのですがね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 平将門の家紋は「九曜紋」。反乱が起こった場所は「茨城県石岡市」で、起こったときの年号は「天慶」
  2. 将門の子孫は「千葉氏」「相馬氏」などの大名となっており、現在も「千葉氏」や「相馬氏」が続いている。そしてなにより「大正天皇」と今の天皇陛下も「平将門」の末裔である。
  3. 平将門の首塚は各地にあるが、千代田区の首塚は祟り・呪いがあるという都市伝説が残っている。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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