この記事では「細川藤孝の家紋」についてたくさんの画像をつけて、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「細川藤孝が使った家紋」を、カンタンに理解できます。
「細川藤孝」は「二つ引両」や「九曜紋」を使っていたのです。
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この記事を短く言うと
1,細川藤孝が使用した家紋は「二つ引両」。細川家はその他にも「細川九曜」「細川桜」「五七桐」「松笠菱」「明智桔梗」など、合計6つの家紋を使い分けていた
2,細川藤孝には、室町幕府12代将軍「足利義晴」の隠し子であるという逸話が残っている。そうなると藤孝は、13代将軍「義輝」や15代「義昭」の兄ということになる
3,細川家は、藤孝の息子「忠興」が「織田信長」から賜った家紋「九曜紋」を使用していた
細川藤孝の家紋は「二つ引両」紋
細川藤孝が使った家紋は「二つ引両(ふたつひきりょう)」という家紋です。
この家紋は、室町幕府をつくった「足利尊氏」など、「足利家」の家紋でもありました。
中央の二本線は「龍」を意味しているといわれています。
とはいえ、細川家は江戸時代までに「6つ」もの家紋を使い分けていました。以下に画像を用意いたしました。
- 「二つ引両」
- 「細川九曜」
- 「細川桜」
- 「五七桐」
- 「松笠菱」
- 「明智桔梗」
「細川九曜紋」
「細川桜紋」(再使用の許された画像がなかったため、恐れ入りますが広告画像を使用しております。)
「五七桐紋」
「松笠菱紋」
「明智桔梗紋」
室町幕府・初代将軍「足利尊氏」は、この「二つ引両」の家紋を使用して、「鎌倉幕府」や「後醍醐天皇」と戦っていました。
細川家は、足利家の家来であり、「三管領(さんかんれい)」という室町幕府や足利家の家来の中でも最高の地位にあった家柄だったのです。
「三管領」とは、将軍を補佐する役目で、「細川家」のほかに「斯波家」「畠山家」があります。
「細川藤孝」が生きた「戦国時代」から約「200年」以上前の「鎌倉時代末期」から「南北朝時代」のころ、すでに「細川家」は「足利尊氏」の家来として、各地で戦功をあげていました。
つまり、細川家は足利家の部下として、すでに確固たる地位をつくっていたということです。
当時は、主君が家来に「家紋」を与えることがありました。
その関係で、細川家も「二つ引両」の家紋を足利家から、褒美としてもらったのだろうと考えられます。
細川家は、室町幕府で「8カ国」もの守護をつとめる大勢力になっていたのです。
細川藤孝は、この「二つ引両」の家紋を使用していたのです。
その子「忠興」は、「細川九曜」という家紋を使用。
細川忠興の嫡子で、明智光秀の娘「ガラシャ」の子「細川忠隆」の系統では、「ガラシャ」の悲劇的な最期に特別な想いを抱いていたのか、ガラシャの父「明智光秀」が使った「明智桔梗」という家紋を裏紋として、秘密裏に使っていました。
足利家と細川藤孝の関係!実は足利将軍の隠し子?
細川藤孝は、室町幕府12代将軍「足利義晴」の隠し子だったという説があります。
そうなると、細川藤孝は13代将軍「足利義輝」や15代将軍「足利義昭」の兄、ということになります。
12代将軍「足利義晴」はある時、名門中の名門「近衛家」から妻を迎えることとなりました。
ところがその時、義晴にはすでに妻がいたのです。
そのため、「義晴の妻であった女性」は、まるで追い出されるように離縁されたのです。
そのとき、彼女は妊娠していました。
彼女は、そのまま「三淵晴員(みつぶち はるかず)」という武将と再婚します。
その後、彼女は「三淵晴員」の子として「細川藤孝」を出産。
「足利義晴」は、そんな我が子を気の毒に思ったのでしょうか。
生まれたばかりのわが子「藤孝」を、「三淵晴員」の兄で名門「細川家」の分家「細川元常」に養子入りさせたのです。
その後、「足利義晴」と近衛家出身の妻「慶寿院」の間には、「義輝」「義昭」が生まれました。
「細川藤孝」は、腹違いの兄である「三淵藤英」とともに、「義輝」「義昭」に仕えるようになったのです。
もしも「細川藤孝」が、本当に「足利義輝・義昭」の兄であるなら、足利家の家紋「二つ引両」を使ったとしても、不思議ではありません。
作家「安部龍太郎」氏は、この「細川藤孝が足利家の隠し子説」を、自らの小説「信長燃ゆ」のなかで採用しています。
必死に修行を積んだ「細川藤孝」は、学問でも剣術でも、世に聞こえた超一流の逸材となります。
【1565年】の「永禄の変」で、「足利義輝」が「三好三人衆」や「松永久通」に暗殺されると、「藤孝」は弟「義昭」を連れて越前国へ逃亡。
そこで「藤孝」は、「明智光秀」と出会い、「足利義昭」を次の「征夷大将軍」にするため奔走を開始します。
そして「細川藤孝」は、ついに美濃・尾張を支配していた大名「織田信長」と、運命的な出会いを果たすこととなります。
「細川藤孝」が「足利義輝・義昭」の兄弟であるということは、「本能寺の変」の黒幕とも噂されている関白「近衛前久(このえ さきひさ)」ともつながりがあるということです
「近衛前久」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
織田信長と家紋の逸話!息子「忠興」が賜った「九曜」紋
細川藤孝の運命をかえた人物「織田信長」には、藤孝の子「忠興」にたいして「九曜紋」という家紋をたまわった、という逸話が残っています。
信長は、細川藤孝の息子「忠興」を、とても気に入っており、目をかけていました。
あるとき、信長が「九曜紋」という家紋で飾られた「脇差」を身につけていました。
それをみた細川忠興は、「九曜紋」を気に入ってしまいます。
忠興は信長に対して、「九曜紋を使いたい」と願い出たのです。
すると信長はそれを許し、それ以来、細川忠興は「九曜紋」を使用することとなりました。
おそらく「室町幕府」が滅び、室町幕府・足利将軍家との関係を意味する「二つ引両」の家紋を、細川藤孝や忠興は嫌ったのでしょう。
「二つ引両」の家紋に変わる家紋を必要としていた細川藤孝は、息子「忠興」が権力者「織田信長」に気に入られていたことを利用して、家紋をねだったのだと考えられます。
しかし、細川家の九曜紋は、のちに、とある悲劇を生み出すこととなります。
「九曜紋」の悲劇!人違いで殺害された細川家のお殿様
江戸時代、熊本藩細川家の藩主「細川宗孝(ほそかわ むねたか)」が、刺殺される事件が発生しました。
犯人は旗本「板倉勝該(いたくら かつかね)」。
「板倉勝該」が「細川宗孝」を斬り殺した理由は、「人違い」によるものです。
この「板倉勝該」という人は、同族の「板倉勝清」という人物を襲撃しようとしていました。
ところが、板倉家の家紋「九曜紋」が描かれた着物を目印にして襲撃した所、人違いで「細川宗孝」を襲撃してしまったのです。
板倉家の家紋は「九曜巴(くようともえ)」という「九曜紋」の派生型の家紋でした。
これ以降、細川家は二度と間違いが起こらないように、通常の「九曜紋」から、丸を小さくデザインしなおしたのです。
これが「細川九曜」と呼ばれる家紋です。
下に画像を貼り付けておきましたが、普通の「九曜紋」と比べると、周りの8つの丸が小さくなっています。
これ以降、細川家では「細川九曜」という、「九曜紋」の派生系が使用されるようになった。
足利家の分家「今川家」の家紋と「今川義元」そして「吉良上野介」
細川家は、「足利将軍家」との関係で「九曜紋」を利用しました。
足利将軍家との関係で、「二つ引両」を家紋として利用した有名人が他にもいます。
「今川義元」と「吉良上野介」です。
「今川義元」も、細川家と同じく「足利尊氏」に仕えた名門「今川家」の出身です。
しかも「足利家」の分家なので、本来の家紋である「今川赤鳥」の他に、「二つ引両」を家紋として使っていたのです。
その今川義元の息子「氏真(うじざね)」の子孫にあたるのが、忠臣蔵で有名な悪役「吉良上野介義央」。
吉良上野介も、「二つ引両」を家紋として使っていました。(吉良は、「五二桐紋」という家紋も使っていました)
ちなみに「吉良上野介義央」の妻は「上杉謙信」の末裔である「上杉家」の出身。
その関係もあって、「吉良上野介」の息子「綱憲(つなのり)」は、米沢上杉家へと養子に入って藩主になっているのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,細川藤孝が使用した家紋は「二つ引両」。その他にも細川家は「細川九曜」「細川桜」「五七桐」「松笠菱」「明智桔梗」などの家紋を使い分けていた
2,細川藤孝は、室町幕府12代将軍「足利義晴」の隠し子で、13代将軍「義輝」や15代「義昭」の兄かもしれない
3,細川家は、藤孝の息子「忠興」が「織田信長」からもらった家紋「九曜紋」を使用していた
以上となります。
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ありがとうございました。
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