井伊直政は超イケメンで徳川家康の愛人だった?2人の関係を解説!

徳川四天王の一人「井伊直政」
超絶イケメンで、秀吉の母親に惚れられるほど・・・。
実は徳川家康の愛人だった???
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この記事を短く言うと
・井伊直政は、豊臣秀吉の母「大政所」が惚れ込むほどのイケメンだった
・直政は「徳川家康の愛人だった」という噂がある
・直政の出世は、家康の愛人だったから・・という可能性も、あるかも・・
井伊直政はイケメンだった
譜代大名の中でも最大の「彦根30万石」という領地を誇った大藩「井伊家」
その礎を築いた井伊直政は、イケメンだったことで有名です。
「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」
つまり「徳川家康」から、寵愛された・・・ということですね。
小牧・長久手の戦いの後、家康に臣従を迫る秀吉が、妹「旭姫」を家康と婚姻させたことがありました。
その妹「旭姫」が病気になった時、見舞いの名目で秀吉の母「大政所」が家康の元へ、事実上の人質として参りました・・・。
その時「大政所」のもてなしを行ったのが「井伊直政」
大政所やその侍女たちは、直政のイケメンぶりに惚れ込んだようです。
直政の「おもてなし」や、人柄にも惚れ込んだ「大政所」は、大坂に帰るときも「井伊直政」に護衛を頼むほど・・・。
秀吉は、直政の母への心を尽くした「おもてなし」に感激。
自ら茶を入れて、お礼をしたと言われています。
「井伊直政」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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家康の愛人だった?
直政は家康の愛人だったとも言われています。
この時代、小姓を愛人にすることはそれほど珍しいことではありませんでした。
織田信長は、「前田利家」を愛人にしていたとの説があります。
「伊達政宗」も、同性の家来を愛人にして、嫉妬に狂った手紙を送っています。
家康も、美男子「井伊直政」を愛人にしていたとか。
何でも家康は「自宅」の庭に、井伊直政の家を建設して、度々通っていたそうです・・・。
もしかして、それが直政の出世の理由なのでしょうか?
妻が20人以上もいたという家康。
もしかしたら、妻だけで満足できなかったのか・・・。
「家康の妻達」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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不自然なまでの「大出世」
井伊直政・・・先述したとおり、徳川家臣団の中で最大の領地を保有していました。
直政は徳川家譜代大名の中では、非常に新参者。
にも関わらず、最大の領地とは・・。
確かに直政の働きは目覚ましいものがあります。
「小田原征伐」のときは、22万もいる豊臣軍の中で、唯一「名城・小田原城」へ攻め込んだのが「直政」。
戦後はこの功績を認められ、徳川家臣団で最大の領地「下野・箕輪城・12万石」をもらっています。
関ヶ原の戦いでは、猛将「福島正則」を出し抜いて先陣を切り、しかも娘婿で家康の四男「松平忠吉」に「島津撃退」という大手柄をたてさせています。
また、西軍の敵将を何人も東軍に寝返られています。
その後も、戦後処理や外交で手腕を発揮・・・。
1602年に、関ヶ原での負傷が原因で死去しますが、その時までの功績は、ずば抜けていました。
とはいえ、本多忠勝や榊原康政・・・酒井忠次など、他の「徳川四天王」をごぼう抜きにして出世・・・。
井伊直政は、亡くなった家康の嫡男「信康」と似ていた・・・とも言われていますし・・・。
美男子で、家康に愛されていたというのも、出世に影響しているかもしれません。
「徳川(松平)信康は、なぜ切腹したのか?」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・井伊直政はかなりのイケメンで、秀吉の母「大政所」が惚れ込んだほどだった
・直政は徳川家康の愛人だったという噂がある
・愛人だったから、出世が早かった??
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「井伊直政」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
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