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【本能寺の変】美少年「森蘭丸」の最期!蘭丸が黒幕だった説を考察!

この記事では「本能寺の変で亡くなった『森蘭丸』」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「森蘭丸」を、カンタンに理解できます。

 

「森蘭丸」には「本能寺の変の黒幕だった」という説があるのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,織田信長の小姓「森蘭丸」こと「森成利」は、【天正10年(1582年)6月2日】、「本能寺の変」で「安田国継」に討ち取られて亡くなった。享年18歳

 

2,「本能寺の変」は「森蘭丸が黒幕だった」という説や、「森蘭丸が明智光秀をおとしいれたために、激怒した光秀が本能寺の変で蘭丸を討った」、という説があるが、後世の創作である

 

3,蘭丸には「信長の爪」や「障子」など、その忠誠心の高さを物語る、数々の逸話・エピソードが残されている

美少年「森蘭丸」の最期

「森蘭丸」は、「本能寺の変」で主君「織田信長」とともに「明智光秀」に討たれて亡くなっています。

 

天正10年(1582年)6月2日】、「本能寺の変」勃発。

 

「織田信長」のお気に入り小姓(こしょう・側近)だった「森蘭丸(森成利)」。

《森蘭丸》
「引用元ウィキペディアより」

 

「蘭丸」は、信長を守るために奮戦。

 

その後、「明智光秀」につかえた通称「明智三羽ガラス」のひとり「安田国継(天野源右衛門)」に討ち取られて亡くなりました。

 

享年18歳。

 

亡くなるとき、蘭丸は「純白の小袖」を着て、髪を美しく「髷(まげ)」にしていたとのことです。

 

美少年「森蘭丸」は、最期も美しい装いだったのです。


明智光秀の部下「明智三羽カラス」などの「明智家臣団一覧」について、以下のリンク記事で詳しく解説をさせていただいています。



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「本能寺の変」の真相!「蘭丸・黒幕説」を考察?

謎に包まれた「本能寺の変」の「動機」ですが、中には「森蘭丸・黒幕説」という荒唐無稽で真実からは程遠いものもあります。

 

明智光秀が、「本能寺の変」を起こした動機は、今も不明です。

 

中には、「森蘭丸・黒幕説」という説まで存在しています。

 

森蘭丸・黒幕説とは、「蘭丸が『本能寺の変』の陰謀に関与していた」というものです。

 

くわしくは後述いたしますが、蘭丸には「明智光秀が謀反を起こすつもりでいる」と見抜いた逸話が残されています。

 

「蘭丸・黒幕説」は、これを極端に拡大解釈したものであると考えられます。

 

中には、「森蘭丸が明智光秀をおとしめようとして、あることないことを信長に報告し、それに激怒した明智光秀が、蘭丸への復讐するために『本能寺の変』を起こした」というものまであります。

 

当然ですが、これらはすべて後世の創作です。

 

そもそも「蘭丸」が「本能寺の変」の黒幕なら、その「本能寺」で「蘭丸」が討ち死にしている説明がつきません。

 

「森蘭丸・黒幕説」は、小説などで語られる創作・物語といったものでしかありません。



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森蘭丸の逸話・エピソード

ここでは、「森蘭丸の逸話・エピソード」を解説いたします。

【森蘭丸の経歴】

まずは「森蘭丸」とは何者なのかを解説いたします。

 

「森蘭丸」、またの名を「森成利(もり なりとし)」。

 

1565~1582年

 

「織田信長」に仕えた猛将「森可成(もり よしなり)」の三男。

 

1582年】に、「武田勝頼」を滅ぼした「甲州征伐」で戦功をあげたとして、美濃国「兼山と米田島」に、「5万石」の領地を与えられる。

 

弟の「坊丸」「力丸」も、信長の小姓。

 

長兄「森可隆(もり よしたか)」は、【1570年】に行われた「金ヶ崎城の戦い」直前の「手筒山城の戦い」で戦死。

 

父「森可成(もり よしなり」も、長男「森可隆」が亡くなった直後の【1570年】の「宇佐山城の戦い」で戦死。

 

次兄「森長可」は、妻の父にあたる「池田恒興」とともに、【1584年】の「小牧・長久手の戦い」で戦死。

 

弟「森坊丸」「森力丸」も、「本能寺の変」で戦死。

 

末弟「森忠政」は、「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」で活躍し、「美作津山藩18万5千石」を領有。



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信長の爪

「信長が切った爪」を捨てるにあたり、蘭丸が細やかな配慮をして、忠誠心を証明したという逸話です。

 

ある日、主君「織田信長」が爪を切っていたときのことです。

 

信長は爪を切り終えると、切った爪を「扇子」にのせて、蘭丸に捨てるように命じます。

 

すると蘭丸は、その切った爪を数え始めたのです。

 

爪は9つしかありません。

 

そこで、残りの一つがどこにあるのか、蘭丸は探し始めます。

 

信長に残り一つの爪がどこにあるか知らないかと尋ねると、信長の袖に、最後の爪がのっていました。

 

すべての爪を堀にむかって捨てると、信長は蘭丸を褒め称えます。

 

実は信長、何人もの小姓に、「爪を捨ててこい」と命じ、そのやり方を試していたのです。

 

10個の爪のうち、信長はいつも「1つ」を隠しもっていたのです。

 

どの小姓も、爪を数えず、「9つ」しかないことに気付きません。

 

しかし蘭丸だけは、数が足りないことに気付き、捜索してすべての爪を処分。

 

この細やかな気配りを喜んだ信長は、蘭丸を信頼するようになるのでした。



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閉まっていた障子

蘭丸が、信長の間違いを隠蔽し、主君のメンツを保った逸話です。

 

信長が蘭丸に対して

「隣の部屋の障子が開いている。閉めてくるように」

と指示します。

 

蘭丸が確認すると、障子は閉まっていました。

 

ところが、蘭丸は障子を開けて、「ピシャリ」と音を鳴らして障子を閉めます。

 

信長に「障子が閉まっていた」ことを報告すると、信長は奇妙に思い、蘭丸に問います。

 

「閉まっていたにもかかわらず、ピシャリと音がしたのは、一体なぜなのか?」

それに対して蘭丸は、こう応えます。

「信長様が『空いている』と言ったにもかかわらず、障子がしまっていました。

これでは信長様が、そそっかしくて不注意である、と家臣に思われてしまいます。

主君が『空いている』と言ったのだから、家来は主君に恥をかかせないようにすべきです」

この一件以来、信長はさらに蘭丸を信頼するようになりました。



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座敷での横転

「障子の逸話」と同じく、主君「信長」のメンツをたもった逸話です。

 

ある日、安土城を一人の僧侶が訪ねます。

 

信長への謁見を求めた僧侶は、大量の「蜜柑(みかん)」を献上品として持参していました。

 

蘭丸はその蜜柑を信長に見せるため、台にのせて信長のいる広間へおもむきます。

 

すると信長は、危なっかしく蜜柑を運ぶ蘭丸を注意します。

「転んでしまうぞ。やめておけ」

すると信長の予言通り、蘭丸は横転。

 

蜜柑は広間に散らばったのでした。

「言わんことではない」

信長の前で恥をかいた蘭丸は、落ち込んでいるのではないか・・・。

 

同僚たちは蘭丸を心配し、励まします。

 

しかし落ち込んだ様子がないことに、同僚たちはなぜかと質問します。

「私はわざと横転したのだ。

 

信長様は『転んでしまうぞ』とおおせられた。

 

そのお言葉が正しいことを、私は自ら転んで証明した。

 

もしも私が転ばなかったら、信長様は『状況判断力』の乏しいお方ということになる。

 

家来たる者は、主君に恥をかかせぬことを第一とすべきだ」

蘭丸は横転して、自分が恥をかくことで、主君に恥をかかせないよう配慮したのです。

 

これを聞いた小姓たちは、それを見習い、職務に励んだのでした。



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地震

「織田信長」をいさめて、蘭丸が「真の忠臣」であることを物語る逸話です。

 

信長が趣味の「鷹狩」にでかけたときのこと、休憩のために立ち寄った農家で、地震が発生します。

 

古びた農家は激しくゆれましたが、信長は落ち着き払って動じません。

 

揺れがおさまったあと、蘭丸は信長を強くいさめました。

「地震であるにも関わらず泰然自若としておられたことは、その威厳を保ち、誠にあっぱれです。

 

しかし、天下人たるお方が、我が身の安全を二の次とし、威厳を保つことを第一となさってはいけません。

 

揺れがおさまらぬうちに、これを申し上げると、避難が遅れて、なおかつ威厳も失われ、まさに両失となるため、あえて揺れがおさまるまでは申しませんでした。」

これを聞いた信長は、身の安全を第一とする重要さを思い出しました。

 

1570年】、「金ケ崎の退き口」において、信長は同盟者の「徳川家康」に一言もいわず、身の安全を優先して、真っ先に逃げ落ちています。

 

こののち、信長は地震が起きると、蘭丸に注意されたとおり、避難を優先するようになります。



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明智光秀の謀反を予見していた

「蘭丸」が「明智光秀」の謀反を予想したという逸話です。

 

蘭丸は「明智光秀」が謀反を起こすことを予想していたという逸話があります。

 

ある時、信長は光秀との意見の食い違いから口論となり、殴りつけるという事態がおこります。

 

光秀は、信長に対してこう言います。

「信長様にお引き立ていただきました大恩は、忘れがたく、このようなことで謀反をたくらみはいたしませんが、天下人たるお方がこのようなことをしてはいけません。」

 

これを聞いた蘭丸は、その場を取りつくろうため、光秀に言います。

「主従の絆が強く、信頼されているからこそ、このようなことも起こるのでしょう。

 

信長公と光秀様の関係は、私は羨ましく思います。」

 

その後、蘭丸は信長に、あろうことか「光秀暗殺」を進言します。

「光秀は謀反を起こすつもりです。

 

その前に処刑すべきです。

 

『謀反をたくらみはいたしません』とわざわざ口にしたのは、逆に『謀反をたくらんでいる現れ』です」

 

信長から、光秀謀反の根拠を尋ねられると、蘭丸は続けて、こう言います。

「今朝の明智殿の朝食の様子を観察しました。

 

口に入れたものを噛まず

 

落とした箸にも気が付かず

 

深くなにかを思案している様子だったのです。

 

しばらくすると、ハッとして、落とした箸を拾っていました。

 

緻密な計算をして、信長様を討ち果たす算段をつけていたのです。

 

油断は大敵です。」

この蘭丸の進言にも関わらず、光秀を信頼しきっていた信長は、光秀を野放しにし続けます。

 

その結果、光秀は信長を「本能寺」で襲撃することとなるのです。



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馬とネズミの悪夢

「織田信長」がみた「不吉な夢」の真相を、「蘭丸」が解き明かす逸話です。

 

信長は、「本能寺の変」が起こる直前に、不思議な夢をみました。

 

「馬がネズミに腹を食い破られて死ぬ」という、不吉なものを匂わせる夢です。

 

この夢について、信長は蘭丸に話し、吉凶を訪ねます。

 

すると蘭丸は「吉夢なり」と一言いって下がります。

 

ところが、蘭丸はこの夢の真の意味を解き明かし、同僚に次のように話します。

「信長様は『うま年』、明智殿は『ねずみ年』、つまりネズミが馬の腹を食い破るということは、謀反を予知する夢だということだ。

 

明智殿はすでに中国出陣のために、丹波亀山城へ向かった。

 

もはや明智を斬ることもできない。」

史実においても、「明智光秀」が「ネズミ年」であったことは間違いないようです。

 

そのため、明智光秀の年齢について、享年が「55歳」と「67歳」とする説があります。どちらも「ネズミ年」です。

 

 

この逸話は創作であると思います。

 

「明智光秀」が丹波へすでに出発したとしても、信長を逃せばいいだけのこと。

 

「信長は逃げよという進言など聞かない」という可能性はあるものの、光秀に見張りをつけて逐一報告させればいいだけのことです。

 

これは後世に創作された逸話であることがわかります。

 

 

余談ですが、この話に似た逸話が「三国志演義」にもあります。

 

曹操が「飼い葉桶に首を入れて草を食べる三頭の馬」の夢をみました。

 

参謀「賈詡(かく)」に夢の吉凶を占わせると、「馬の夢は吉」と言いました。

 

しかし、この夢は凶兆でした。

 

「三頭の馬」とは、曹操の参謀「司馬懿」とその二人の子「司馬師」「司馬昭」を指しており、「飼い葉」つまり「草(そう)」は「曹(そう)」、つまり「曹操の一族」を指していたのです。

 

曹操の死後、曹一族は「司馬懿」たち「司馬一族」に実権を奪われて滅びることになります。

(「三頭の馬」は、「司馬懿」「司馬昭」「司馬炎」の親子三代を指していたとも考えられる)



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信長の三宝

「森蘭丸」という小姓が、織田信長に大切にされていたことを物語る逸話です。

 

信長はあるとき、「三宝」といって、自分には3つの宝がある、という話をしました。

 

その3つの宝とは

  • 奥州・遠野(岩手県)の領主「遠野孫次郎」から献上された「白い鷹」
  • 「荒野も砂地も走る龍馬」と自ら称した「青い馬」
  • 「忠義比類なし」と称した「森蘭丸」

 

徳川家康にも、3つのお気に入りとして

  • 「佐渡(さど)殿」
  • 「雁(かり)殿」
  • 「お六(ろく)殿」

と歌われたとの逸話があります。

  • 「佐渡殿」とは、家康の参謀「本多佐渡守正信」
  • 「雁殿」とは、家康が大好きだった「鷹狩」の獲物の「雁」
  • 「お六殿」とは、家康お気に入りの側室「お六の方」

信長も家康も、これらのお気に入りを片時も離さなかったと言われています。



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「森蘭丸」が亡くなった「その後」、森蘭丸の子孫や実家「森家」はどうなった?

森蘭丸が亡くなったあとも、森家は「明治維新」存続しています。

 

ただ、森家では多くの人が壮絶に戦死しています。

 

  • 父「可成(よしなり)」
  • 長男「可隆(よしたか)」
  • 次男「長可(ながよし)」
  • 三男「蘭丸(らんまる・成利)」
  • 四男「坊丸(ぼうまる・長隆)」
  • 五男「力丸(りきます・長氏)」

 

彼らは全員が戦死しているのです。

 

蘭丸には子供がいませんでしたので、直系の子孫は残っていません。

 

森家は、蘭丸の末弟が継承しています。

 

たった一人だけ生き残ったのが、蘭丸の末弟にあたる「森忠政」です。

 

忠政は「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」で活躍し、家康からの信頼を勝ち取ります。

 

そして「美作国(岡山県北東部)」に「津山藩18万5千石」を与えられたのでした。

 

この「森忠政」という殿様は、領民に対してかなり厳しい圧政を行っていたらしく、領内では「一揆」が次々と起こっています。

 

晩年は、森一族の長老を補佐役としたためか、領地は落ち着きを取り戻したようです。

 

森家はその後、「赤穂浪士」が取り潰しで追い出された直後の「赤穂藩」に領地替えしています。

 

森家赤穂藩は、森忠政の子孫「森忠儀(ただのり)」の代で「明治維新」をむかえています。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,織田信長の小姓「森蘭丸」は、【天正10年(1582年)6月2日】、「本能寺の変」で亡くなった。

 

2,「本能寺の変」は「森蘭丸が黒幕」という説や、「森蘭丸が明智光秀をおとしいれた」という説があるが、後世の創作である

 

3,蘭丸には「爪」や「障子」など、忠誠心の高さを物語る、数々エピソードが残されている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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