本寿院(徳川家定の母)の生涯と最期!嫁・篤姫との関係は最悪だった?

13代将軍「徳川家定」の母「本寿院」

その生涯と最期がどんなものか、わかりやすく解説!

家定の妻「篤姫」との関係は、最悪だったのか?


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この記事を短く言うと

・本寿院とは、13代将軍「徳川家定」の生母

・本寿院は、息子「家定」に先立たれ、その後は静かな余生を送った

・篤姫との関係は、悪くはなかった


本寿院とは何をした人?その功績とは?

本寿院・・・本名は「美津」または「堅子」

本寿院とは、12代将軍「徳川家慶」の側室にして、13代将軍「徳川家定」の生母

幕末の大奥において、権力を握った人物です。

功績を簡単に一言で解説

本寿院が残した功績をそれぞれ一言で言うと、以下の通り

・徳川家定を出産

・14代将軍に徳川家茂を支持(徳川斉昭への反発から、一橋慶喜を拒絶)

流石に将軍生母であって、歴史の主人公とはなりにくい方です。

篤姫は「江戸城無血開城」の際に、和宮とともに新政府軍による「江戸総攻撃」を止めたという功績がありますが・・・本寿院にはそういった功績はありません。

息子・家定の嫁「篤姫」に比べると、本寿院は若干地味かもしれません。


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本寿院の生涯と最期

本寿院の生涯と最期を、簡単に解説いたします。

出生について!父親は誰?

1807年、幕臣「跡部正賢」の娘として誕生

本名は「美津」・・・・

1822年、美津は「大奥」へ入ります。

将軍後継者「徳川家慶」に見初められ、「家定」を出産

当時は「オットセイ将軍」と呼ばれた11代将軍「徳川家斉」の時代。

次期将軍に指名されていた家斉の息子「徳川家慶」が、1823年に「美津」を側室としました。

徳川家慶
『引用元ウィキペディアより』

1824年、家慶の四男「政之介」を出産。この「政之介」が、後の13代将軍「徳川家定」

「美津」は、「政之介(家定)」だけではなく、2人の男児を出産しています。

1826年、「春之丞」

1828年、「悦五郎」

しかし、「政之介」を残し、2人の弟は夭折しています。

1837年、「徳川家慶」が将軍になると、美津は大奥で「老女上座」という高い身分を与えられるのでした。

1853年、家慶が亡くなると「本寿院」と名乗ります。

息子「徳川家定」は、13代将軍に就任。

先代「家慶」は、「うつけ」と呼ばれ能力が乏しかった息子「家定」の将来を心配し、自分の後継者に優秀と噂されていた「徳川慶喜」を指名しようとしました。

そのため家慶は、将軍後継者としての資格を持たない「水戸藩」から、後継者指名が可能な「一橋家」に「徳川慶喜」を養子入りさせます。

しかし、当時の「老中首座」だった「阿部正弘」が反対したため、13代将軍は「徳川家定」が指名されました。


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家定の死と、その後

本寿院は、「将軍生母」として大奥のトップに君臨します。

しかし、病弱だった家定は、1858年に突然死去。

家定が亡くなった後も、本寿院は大奥に残りました。

1868年、江戸城無血開城より先に、大奥を出て、「一橋邸」へ移住

その後は、「紀伊屋敷」や「尾張徳川家下屋敷・牛込戸山屋敷」「赤坂の屋敷」「千駄ヶ谷の屋敷」などへ次々移住

この時、家定の妻「天璋院篤姫」や、14代家茂の生母「実成院」とともに暮らしていた時期もあったようです。

最期

1885年、明治18年2月3日に、「慢性腸胃カタル」で死去。

享年79歳

墓所は上野「谷中墓地」


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篤姫との関係は最悪だったの?真実は・・・

2018年放送の大河ドラマ「西郷どん」・・・そのドラマの中で「本寿院」と、息子・家定の妻「篤姫」は、険悪な仲であるかのように描かれています。

なぜかというと、篤姫が次期将軍に「一橋慶喜」を推挙し、本寿院が「一橋慶喜」を嫌っていたから。

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

一橋慶喜は大奥から嫌われていました。慶喜の父「徳川斉昭」が、大奥に対して厳しく、今で言う「セクハラ発言」が多かったからです。

徳川斉昭
『引用元ウィキペディアより』

本寿院と篤姫・・・・2人の意見は真っ向から対立し、ドラマでは仲が悪いかのように描かれているのです。

史実上、2人は仲が悪かったのか?というと、実際にはそれほど仲が悪かったわけではないようです。

本寿院・・・・結構おとなしい人だったみたいですね。

そもそも史実において、「篤姫」は「一橋慶喜」を将軍に推薦していません。

天璋院篤姫
『引用元ウィキペディアより』

物語では「篤姫が家定に輿入れしたのは、養父・島津斉彬の指示により、次期将軍を『一橋慶喜』にする内部工作のため」とされています。

しかし、篤姫輿入れの理由は史実上、「一橋慶喜の擁立」が目的ではなく、「家定の世継ぎを期待して」のこと。

家定の妻は、篤姫の以前に2人いました。しかし、2人とも家定より先に他界。

そのため丈夫だった「篤姫」の輿入れが実現したのです。

さらに、子沢山だった11代将軍「家斉」の正室が薩摩出身の「広大院」だったため、験(げん)を担(かつ)いで薩摩出身の「篤姫」を家定の妻に迎えたのでした。

篤姫・・・実は「一橋慶喜」のことを相当に嫌っていたと言われています。

一橋慶喜のライバルだった「徳川家茂」ですが、篤姫からとても可愛がられました。

徳川家茂
『引用元ウィキペディアより』

おそらく篤姫も、14代将軍には「徳川家茂」を推挙していたのでしょう。

そうなると、篤姫と本寿院が対立する理由がなくなります。

2人は「江戸城無血開城」が実現した後、しばらくの間「一橋邸」で一緒に暮らしています。

関係が最悪だった・・・わけではないようです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・本寿院は、13代将軍「徳川家定」の生母

・本寿院は息子「家定」が亡くなったあと、大奥に残り、静かな余生をすごした

・本寿院と篤姫の仲は、悪くなかった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


徳川家定」「篤姫」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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