この記事では、豊臣家滅亡のきっかけとなった【国家安康・君臣豊楽】の読み方と意味、そして【方広寺鐘銘事件】について解説いたします。
京都には、奈良の大仏や鎌倉大仏よりも巨大な大仏があったことをご存知でしょうか?
その大仏があった京都・方広寺は、あの豊臣家滅亡のきっかけとなった方広寺鐘銘事件の舞台なのです。
後世において、家康の言いがかりと言われた呪詛の言葉【国家安康】ですが、実は言いがかりなどではなかったのです。
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この記事を短く言うと
- 方広寺の鐘には【国家安康】【君臣豊楽】と刻まれている
- この方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣家の家老・片桐且元が襲撃され、大坂の陣が勃発した
- 方広寺鐘銘事件は、後世において【徳川家康の言いがかり】だとか【家康への呪い】などと言われているが、実は言いがかりではなく、家康に対してとても失礼なものだった
方広寺の鐘に刻まれた【国家安康・君臣豊楽】の読み方と意味をわかりやすく解説
方広寺の鐘には
国家安康
君臣豊楽
と刻まれており、これを知った徳川家康は激怒し、豊臣家を滅亡へ追い込んだのです。
方広寺鐘銘事件をご存知でしょうか?
方広寺鐘銘事件とは、豊臣家滅亡のきっかけとなった、【呪いの言葉が刻まれた鐘】の事件です。
- 鎌倉の大仏
- 奈良・東大寺の盧舎那仏
このほかに、当時の日本にはもう一つ巨大な大仏が存在していました。
京都・方広寺の大仏です。
豊臣秀吉亡き後、豊臣家が長い年月をかけて建立した方広寺の大仏が、当時日本最大級の大仏だったといわれています。
この方広寺におさめられていた鐘に刻まれた文字が、豊臣家を滅ぼすきっかけとなったわけです
その文章の内容はどんなものだったのでしょうか?
国家安康
君臣豊楽
この文章の意味は、以下の通りです。
国家が平和でありますように
君主も臣民も、ともに豊かなることを楽しもう
ところが、この文章を見た徳川家康は、激怒します。
家康はこの文章を、以下の通り、別な意味で解釈したのです。
国家安康とは、徳川家康の家康という文字を、【安】という文字を間に入れることで2つに引き裂いた。
そうすることで家康を呪い、豊臣という文字を逆さまにし呪詛返しをした。
また【君臣豊楽】には、【豊臣家を君主とする】という願いが込められていると、いわれているようです。
この【国家安康・君臣豊楽】が刻まれた鐘は現在、秀吉を祀った豊国神社のすぐ隣にある方広寺につるされています。
ちなみに方広寺にあった大仏は、度重なる失火で失われ、結局は通貨をつくる材料とされてしまいました。
方広寺鐘銘事件をわかりやすく解説?
方広寺鐘銘事件とは、豊臣家が滅亡した戦争【大坂の陣】のきっかけとなった事件です。
方広寺の鐘に国家安康・君臣豊楽と記されていることに家康が激怒。
豊臣家は、徳川家康を呪い殺そうとしていると疑われたのことです。
実は、家康はこの方広寺鐘銘事件を一度許しています。
豊臣秀頼の母親である淀殿、その淀殿の乳母だったのが、大蔵卿局という人物です。(大蔵卿局は大野治長の母)
この大蔵卿局が、家康の住む駿府城へ方広寺の鐘について、事情を説明に行ったのです。
家康はこのとき大蔵卿局へ、許すと伝えています。
しかし徳川家とのパイプ役だった豊臣家家老・片桐且元は、事態を深刻に受け止めていました。
片桐且元は、方広寺鐘銘事件で悪化した徳川家との関係修復のため、以下の【3つの案】を淀殿と豊臣秀頼に提案したのです。
- 秀頼の大坂城からの退去(大和国または伊勢国への国替え)
- 秀頼を家康の本拠地・江戸へ住まわせること(秀頼の江戸への参勤)
- 淀殿を江戸への人質として送ること
これを淀殿と豊臣秀頼は、なんと全て拒絶します。
これらの案を出してきた徳川家とのパイプ役・片桐且元を、秀頼は【家康と内通し裏切っている】と疑って、襲撃してしまうのです。
福島正則や加藤清正とともに、賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられる功労者・片桐且元は、なんと主君からの襲撃を受けることとなるのです。
逃亡した片桐且元は、徳川家康に助けを求めました。
パイプ役の片桐且元を襲撃したことを、家康は宣戦布告とみなして、豊臣家と開戦します。
この当時、取次役(パイプ役)を解任することは、相手に対しての宣戦布告を意味していたのです。
豊臣家は徳川家を相手に、開戦の準備を整えます。
- 真田幸村(真田信繁)
- 毛利勝永(毛利吉政)
- 後藤又兵衛
- 長宗我部盛親
などの浪人たちを大坂城へ招き入れて、【大坂冬の陣】が勃発するのです。
つまり方広寺鐘銘事件は、直接的な開戦の原因ではなく、それにともなう【片桐且元の解任と襲撃】が開戦のきっかけとなったというわけです。
【国家安康】が呪いの言葉というのは【言いがかり】じゃなかった
【国家安康】は言いがかりではなく、とても失礼なことだった
国家安康と君臣豊楽という文字は、家康の言いがかりであるともいわれていた方広寺鐘銘事件。
実は言いがかりではなく、激怒されても仕方ない、失礼極まる文章だったのです。
後世において
家康は豊臣家を滅ぼすために、【国家安康】は呪いだなどと、ひどい言いがかりをつけた
と言われていました。
しかし実はこの【国家安康】という文字は、実際に非礼であり、とても不吉なものなのです。
どういうことなのでしょうか?
国家安康は、当時の風習からして、激怒されてもおかしくない、とんでもなく失礼な文章なのです。
家康という名前は、現代における名前とは異なり、諱と呼ばれる特別なものでした。
諱とは、親族や偉い主君にしか呼ばれることが許されない、特別な名前のことです。
一般的に【諱】は、他人に知られることが許されない【家庭用または上司用】のプライベートな名前なのです。
例えば織田信長は、普段は
- 三郎
- 上総介
- 尾張守
などと名乗っていました。
徳川家康も、三河守などの官位で呼ばれていました。
またはお館に住んでいた主君は【お館様】と呼ばれたり、鎌倉に住んでいた源頼朝は、鎌倉殿と呼ばれたりしていました。
住んでいた場所・官位・あだ名などで呼ばれており、信長や家康と、名前で呼ばれたことはありません。
さきほど、【諱は親族や偉い主君にしか呼ばれることが許されない】と申しました。
しかし、当時の日本における風習からすれば、たとえ主君でも諱を呼び捨てにすることはなかったようです。
たとえば豊臣秀吉が、家臣であった徳川家康を
家康!
と呼び捨てにすることはなかったようです。
とはいえ、もしもこの時、豊臣家が徳川家康の主君であれば、家康がこれほどまでに激怒することはなかったでしょう。
実は、方広寺鐘銘事件が発生した【1615年】、徳川家と豊臣家の君主と臣下の立場は、完全に逆転していました。
【1611年】、二条城での家康と秀頼の対面で、豊臣秀頼は家康に臣従したと考えられています。
ですので、当時すでに臣下だった豊臣家が、主君である徳川家康を呼び捨てにすることは、とても非礼なことだったのです。
主君や親族しか呼ぶことのない諱を呼ぶとは、つまりそれは、相手を臣下より下の身分であると見下した行為なのです。
当時の臨済宗・五山の偉い僧侶たちは、この【国家安康】という文章について、以下のように意見しています。
呪いとまでは言わないが、諱を分断したことはまずいことだ
苗字を使った【君臣豊楽】と、諱を分断した【国家安康】では、失礼のレベルが異なるのです。
例えば【国信安長】などと書いたら、織田信長は激怒したでしょう。
【国秀安吉】などという文字が、秀吉の目に止まっていたら、秀吉も激怒したでしょう。
たとえ呪いでなくても、家康という諱を使うということは、失礼なことだったのです。
しかも家康は、淀殿の乳母である大蔵卿局が使者として弁明に来た際、一応これを許しています。
許しているということは、方広寺鐘銘事件が言いがかりではなかったことを意味しています。
タヌキ親父と呼ばれた狡猾な徳川家康の言いがかりだったという説は、後世の勘違いか、または創作なのでしょう。
国家安康と記した僧侶【文英清韓】は【家康】の名を分断したことを認めていた
文章を考えて、鐘に刻ませた僧侶・文英清韓は、【家康】という文字を二つに分断したことを認めていました。
この国家安康と君臣豊楽という文章を考え記したのは、臨済宗の僧侶・文英清韓という人物です。
実はこの文英清韓という人、家康という文字を、わざとこの文章のなかに隠したことを認めています。
文英清韓は、国家安康と記したことについて、
お祝いとして家康という名前を隠して入れた。
しかし呪いのためではなく、あくまでも祝いのためである
と弁明しています。
つまりは
名前を分断したことは認めるが、呪いをかけるつもりはなかった
ということです。
家康の二文字を分断したことは認めたものの、呪詛したことは認めなかったわけです。
すでに述べましたとおり、諱を用いることはあまりにも失礼なことです。
しかもそれを分断するとは、言語道断なことなのです。
そんなつもりはなかった。
お祝いのつもりだった。
なんて言い訳しても、だれも納得しません。
明らかに苦しい言い訳です。
しかもその文章を、家康に断りもなく鐘に刻みつけるとは、【敵意あり】と思われても仕方ないことでした。
文英清韓は、【1614~1615年】の大坂の陣で、豊臣軍が立てこもる大坂城へ入城しています。
しかし戦後に逃亡して徳川軍につかまり、家康の本拠地である駿府城で幽閉されています。
【1616年】に徳川家康が亡くなったあと、文英清韓は家康のブレーンだった僧侶・林道春(別名・林羅山)の協力によって許されます。
しかし【1621年】に亡くなっています。
諱の誤解!織田信長は家来の羽柴秀吉を【秀吉!】と呼ばなかった
余談ですが、鈴木眞哉氏の著書【戦国時代の大誤解】によると、戦国時代からですら実名で相手を呼ぶことはなかったのだとか。
たとえば織田信長が、部下の羽柴秀吉(豊臣秀吉)を、「秀吉!」と呼ぶことはありませんでした。
信長は、秀吉の通称である藤吉郎、または官位名であった筑前守と呼んでいたそうです。
ハゲネズミと呼んでいた記録も残っています。
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たとえば天皇陛下ですらも、臣下を実名で呼ぶことはなかったようですね。
明治天皇が、臣下である土方久元を呼ぶ際には【土方!】と呼ぶことはあっても【久元!】と呼ぶことはなかった
と土方久元さん本人が語っていたみたいです。この【戦国時代の大誤解】という本に、そう書かれていました。
諱という日本の風習では、それは犯してはならないものだったのでしょうね。
豊臣家は、如来像の祟りで滅亡した?
豊臣家は、善光寺如来像という由緒正しい仏像の祟りで滅亡したのかもしれません。
また、豊臣秀吉も当時、この善光寺如来像の祟りによって亡くなったと考えられていたようです。
この善光寺如来像の祟り・呪いが原因で亡くなった可能性が指摘されている武将は、以下の通りです
- 武田信玄・武田勝頼
- 織田信長・織田信忠
- 豊臣秀吉・豊臣秀頼
これらの名だたる戦国の英雄たちが亡くなった原因は、善光寺如来像なのかもしれません。
善光寺如来像が、豊臣家滅亡のきっかけだという説について、くわしくは以下のリンク記事で解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 方広寺の鐘には、国家安康・君臣豊楽と刻まれている
- 方広寺鐘銘事件とは、家康の諱を分断した文字を兼ねに刻みつけたことで、豊臣家が滅亡した【大坂の陣】勃発のきっかけとなった事件
- この方広寺鐘銘事件は、後世において、言いがかりといわれているが、実は言いがかりではなく、非常に失礼なことだった
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
コメント
コメント一覧 (2件)
そうかな?
であればなんで今もその鐘が残っているんでしょう
真に心証を害するものであればその様な鐘はつぶして後世に残さないのではないでしょうか
こんにちは
この度は当サイトをご利用いただき、また、貴重な御意見をいただきありがとうございました。
「なんで今もその鐘が残っているんでしょう」
おっしゃることごもっともです。
運営者の私見ですが、一つの仮説をたててみました。
結論から言えば、今も鐘が残っている理由は
「徳川家の正当性を証明するため」
ではないでしょうか。
徳川家にとって豊臣家は、もともとは主家に当たります。
そんな豊臣家を、徳川家は滅ぼしているわけです。
そのため後世の人々からの批判を受ける可能性がありました。
そういった批判や恨みを受けることを避けるために、「豊臣家を滅ぼしたのは正当な理由によるものである」ということを証明するために「方広寺の鐘銘」を保存したのではないでしょうか。
豊臣家が滅ぼされた33年前には「明智光秀」が「本能寺の変」で主君「織田信長」を討ち果たしています。
家康は光秀が裏切り者として、壮絶な批判を受けた様子を知っているので、主家だった「豊臣家」を滅ぼした行為に対して、最新の注意をはらったのではないでしょうか。
長々と私見を述べさせていただきましたが、これで回答となり得たかどうか。。。
拙い説明でしたが、どうかお許しくださいませ。
この度は当サイトをご利用いただき、そして貴重なコメントをいただきありがとうございます。
またよろしければ、ぜひぜひ当サイトをお役立てくださいませ。
ありがとうございました。
失礼いたします。