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本能寺の変【四国説】をわかりやすく解説!明智光秀は長宗我部を救おうとした

皆さんは「本能寺の変・四国説」を、ご存知でしょうか?

 

実は「四国説」とは何なのかについて、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では、近年注目を集めている「本能寺の変・四国説」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「四国説」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「本能寺の変・四国説」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「四国説」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,【四国説】とは、四国・土佐の大名「長宗我部元親」を救済することを目的として、織田信長による「四国遠征軍」を止めるために「本能寺の変」を起こした、という説

 

2,「明智光秀」は、「四国征伐」そして「羽柴秀吉の援軍」という命令を立て続けに受けて、「織田信長」からリストラ、すなわち「佐久間信盛」や「林通勝」のように、織田家から追放されると考えた可能性がある

 

3,「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなった、わずか「11日後」に、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北した光秀は、逃亡の途中で亡くなった

「本能寺の変」の【四国説】とは何か?わかりやすく解説

【四国説】とは、四国の大名「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)」を守るために、信長による「四国遠征軍」を止めるようとして「本能寺の変」を起こした、という説です。

《長宗我部元親》
「引用元ウィキペディアより」

信長は、四国・土佐の武将「長宗我部元親」と、長いあいだ同盟を結んでいました。

 

長宗我部元親は、織田信長という強力な後ろ盾を利用して、四国統一を目指して、宿敵である阿波国の「三好」家と戦っていたのです。

 

ところが【1582年】、信長は突如として「長宗我部元親」との同盟を破棄。

 

それまで敵対していた「三好」家のトップ「三好康長」を家来にして、「長宗我部元親」を倒すための「四国遠征軍」という大軍団を、四国へ派遣しようとしたのです。

 

「明智光秀」は、「長宗我部元親」との交渉役を長く務めた、とても親しい間柄でした。

 

そんな「長宗我部元親」を殺害されては、明智光秀のこれまでの苦労が水の泡となりますし、メンツも丸つぶれです。

 

光秀は「長宗我部元親」を救うおうと、「四国遠征軍」を止めるために、「本能寺の変」を起こしたのではないか、といわれています。

 

これが【四国説】です。



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明智光秀は、織田信長から「リストラ」される寸前だった?

「明智光秀」は、「織田信長」からリストラ、つまり「このままでは織田家から追放される」・・・と考えた可能性があります。

 

光秀は、それまで交渉役を務めていた「長宗我部元親」が滅ぼされることに、自らの身も危ないと考えていたはずです。

 

長宗我部元親は、ほとんど信長に臣従しているような状態でした。

 

そんな長宗我部元親は、明智光秀と親しいのですから、織田家の中では「明智派」に属しています。

 

それも、長宗我部元親はかなりのチカラをもつ武将です。

 

その「明智派」の一員である「長宗我部元親」が、信長に滅ぼされようとしている・・・。

 

これは「明智光秀」の味方が減ることを意味しています。

 

「明智光秀」の力が弱まれば、ライバルの「羽柴秀吉」に、追い抜かれるかもしれません。

 

そんな折に、光秀は「中国地方で戦う羽柴秀吉の援軍にいけ」と命令を受けます。

 

これは「光秀は秀吉の指揮下に入って、秀吉の命令に従え」という意味です。



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「秀吉の援軍に行け」という命令を受けた光秀は、以前、織田家から追放処分となった「佐久間信盛」「林通勝」の2人を思い出したはず。

 

2人は長く織田家に仕えながら、突如として追放され、路頭に迷いました。

 

光秀も、「長宗我部元親」を失い、「羽柴秀吉」に派閥争いで敗北し、このままでは織田家を追い出されると考えても不思議ではありません。

 

おそらく光秀は

「追放されて路頭に迷い、野垂れ死にするくらいなら、イチかバチかで信長を裏切り、やられる前にやってしまおう」

と考えたのでしょう。



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光秀が信長を討った「その後」

明智光秀は、信長を討ち果たした11日後に、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗れて亡くなっています。

 

その直後に、秀吉は「清洲会議」で、織田家の後継者「三法師」の後見人として、織田家の主導権を握ることに成功します。

 

また、秀吉は「織田家」の勢力を、「柴田勝家」と二分して、「賤ヶ岳の戦い」で、その「柴田勝家」を撃破。

 

これにより、秀吉は完全に織田家を乗っ取ることに成功したのです。

 

「賤ヶ岳の戦い」からわずか7年後の【1590年】、秀吉は「天下統一」を達成します。

 

「応仁の乱」から【123年】も続く「戦国時代」を、秀吉はついに終わらせたのでした。



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『四国説』について「ひとこと」いいたい

「四国説」は、かなり可能性が高いと思います。

 

なぜなら

「四国遠征軍の出陣が、本能寺の変の翌日に予定されていた」

という点が、偶然とは思えないからです。

 

「本能寺の変」が起こったのが【天正10年(1582年)6月2日】。

「四国遠征軍」の出撃予定日が【天正10年(1582年)6月3日】。

 

わずか1日前に、「織田信長」は亡くなっているのです。

 

これはどう考えても「偶然の一致」ではないと思います。

 

光秀は「長宗我部元親」を救うために、「本能寺の変」を起こしたのでしょう。

 

おそらく光秀は、信長を倒したあと、天下を自らが支配するときに「長宗我部元親」の協力を得られると考えていたはずです。

 

長宗我部元親は、「本能寺の変」で命拾いをし、その後「四国統一」に成功しています。

 

しかし、「秀吉」による「四国征伐」に敗北し、「土佐」一国を残して、すべての領地を没収されます。

 

その後、「関ヶ原の戦い」で敗北した「長宗我部元親」の息子「長宗我部盛親」は土佐国を没収されてしまいます。

 

盛親は、逆転を狙って「大坂夏の陣」へ参戦するも「家康」に敗北して、処刑。

 

長宗我部氏は、滅亡したのでした。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,【四国説】とは、明智光秀が四国の武将「長宗我部元親」を守ることを目的として、信長の「四国遠征軍」を止めようとして「本能寺の変」を起こした、という説

 

2,「明智光秀」は、「四国征伐」そして「秀吉への援軍」という命令を受けて、「織田信長」から「佐久間信盛」や「林通勝」のように、追放処分にされると考えた可能性がある

 

3,「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなった「11日後」、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北した光秀は、逃亡の途中で落ち武者狩りに遭遇し亡くなった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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